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Latest documentary "Oyster Factory" has been officially invited to Locarno International Film Festival 2015! 最新作『牡蠣工場』がロカルノ国際映画祭へ正式招待されました!
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Friday, July 01, 2011

雑誌「宣伝会議」

「宣伝会議」(2011年7/1号)に寄稿しました。

その出だし:
「震災以後、映画で何かを表現する際にどのようなことに配慮すべきか」というお題をいただいた。結論から言えば、「必要なのは配慮ではない。覚悟である」というのが僕の考えである。 
東日本大震災、特に原発震災は、われわれに世界観や生き方、更には文明のあり方そのものの根本的な見直しを迫る一大事件である。それが決して突然起きたわけではなく、長い間かけて少しずつ積み重なった原因の当然の結果であるとはいえ。だから、これから作る映画が原発震災の影響を受けることは、むしろ必然だ。影響を受けない方がおかしい。
しかし、それはあくまでも必然的に、「否が応でも影響を受けてしまう」のであって、「何かに配慮して変えるべきこと」ではないはずだ。「配慮する」などという傍観者的余裕は、日本人はおろか、本来ならば人類の誰にもない。問題は、津波のようにわれわれ人間に襲いかかってきた「物事の当然の帰結」をどう受け止め、どのような行動をとるかである。… 
 http://ec.sendenkaigi.com/hanbai/magazine/sendenkaigi/

Wednesday, June 15, 2011

「けあサポ」インタビュー第1弾

「けあサポ」掲載の『Peace』インタビュー第1弾です。ご一読下さいませ。
―― まず、『Peace』を撮影しようと思ったきっかけについて教えていただけますか。 
監督 韓国の非武装地帯ドキュメンタリー映画祭から、平和と共存をテーマとした短篇映画の制作の依頼があったことがきっかけです。当初はテーマがいささか壮大すぎたことに加え、最初にテーマを設けずに映画を作るのが僕のスタイルなので、あまり乗り気ではありませんでした。 
しかし、岡山の妻の実家に滞在している際、義父が近所の野良猫に餌を与えている様子を眺めるうちに、「猫の平和と共存をテーマとした作品であれば作れるのではないか」と思い、撮影を始めました。ちょうど「泥棒猫」と呼ばれるアウトサイダーの雄猫が常連の猫グループのエサ場に侵入しようとして、猫社会がギクシャクしている場面に出くわしたからです。撮影が進むにつれて、人間にも興味が湧き、義父や義母の仕事やその利用者との関係まで内容が膨らんでしまいましたが(笑)。 
<以下、全文は下記のリンクで>
http://www.caresapo.jp/fukushi/catchup/pd4fc80000002z4r.html

→逆取材

Thursday, July 08, 2010

日経新聞にコメント

日経新聞でも『ザ・コーヴ』を巡って発言しました。論者は僕の他に森達也氏、原一男氏、崔洋一氏。以下で全文が読めます。
http://bit.ly/dvCt8e

僕の発言部分を下に抜粋します。
これに対し「被写体に対する態度はドキュメンタリーとしては最悪」と、米ニューヨークを拠点にドキュメンタリー映画「選挙」「精神」を発表してきた想田和弘監督は批判する。「なぜイルカを捕るのか、捕らざるを得ないのか。そういった問いをすべて放棄して、最初から自分たちは正義の味方、漁師は悪者という扱いをしている」
 しかも、その善悪二元論がエンターテインメント性を高めるために用いられた点が問題だという。「この映画はバッシングをエンターテインメントにしている。イルカを殺すなんてとんでもないと思っている大多数の米国人は、映画を見ながら、自分を簡単に善人の側に置ける。よく知らない日本という国の漁師を気持ちよくバッシングして、見終わった後カタルシスを得られる。罪を犯した芸能人をワイドショーがたたけばたたくほど視聴率が上がるのと同じ原理を、作り手は計算の上で利用している」

Wednesday, July 07, 2010

『新潮』に寄稿


7/7発売の『新潮』8月号に、「反イルカ猟『ザ・コーヴ』と 「正義」」と題する論考を寄稿しました。その一部を抜粋します。上映中止運動のために議論が「表現の自由」うんぬんにシフトし過ぎている嫌いがありますが、もっと本作の手法や姿勢について論じる必要があると思います。

http://bit.ly/c6lDmn

(抜粋)...ドキュメンタリーの作家が、なぜ現実にカメラを向けるのかといえば、目の前に展開する世界をよく観て、耳を澄まし、吟味・検討し、その作業から何かを学びたいからだ。ドキュメンタリーとは、自分自身の鎧を外して世界へ開いていくための手法であり、その逆、世界を自らが作った安全な庭に閉じ込めるためのものではないはずだ。だから、いくら「イルカ猟は残虐非道に違いない」と信じる作家でも、作品を撮るからにはいったんはその考えを捨て、“転向”の可能性にも身体を開いて無防備になりながら、カメラを回さなければならないのである。
 ところが、サホイヤス監督が『ザ・コーヴ』でやったように、先に結論ありきで、それに合う映像やインタビューだけを掻き集めてくるのでは、作り手の意識は閉じたままなので、現実世界から何も学ぶことはできない。また、撮影中にたとえ理解不能な、奇怪な現実に突き当たったとしても、それらが伝えたいメッセージに合わなければ削ぎ落とされ、作品からは排除されてしまう。だから、現実の予想もつかない展開に作り手が圧倒され、固定観念が打ち壊され、荒波に足をすくわれ溺れそうになるような、危険だけれども面白いこと限りない“ドキュメンタリー的驚天動地”は、絶対に起き得ない。要するに、サホイヤス監督は、最初から足の立つ浅瀬で、チャプチャプ水遊びをして泳いでいるつもりになっているようなものであり、そういう、自らの安全圏に閉じこもり、ドキュメンタリー的なリスクをとろうとしない作り手を、僕はドキュメンタリストとは呼びたくないのである。  
 しかも、攻撃の対象を限定したことで、制作者はますます安全な立ち位置にいる。一番のミソは、作り手が標的にしたのが、......(抜粋終わり)

Friday, May 07, 2010

映画『ザ・コーヴ』を巡る座談会

映画『ザ・コーヴ』を論じるため、『創』6月号(5/7発売)の座談会に出ました。僕はニューヨークからスカイプで。

この問題は、「反日」だとか「盗撮けしからん」だとか、どうも表層的な議論ばかりが先行してよくない。座談会では、捕鯨や食の問題から始まって、ドキュメンタリー論やプロパガンダ論にもなり、かなり突っ込んだ議論が出来たと思います。

ちなみに、森達也さんと綿井健陽さんは映画を高く評価していますが、僕は映画としては評価していません(イルカ猟自体には否定的です)。意見が違って面白かったです。是枝さんは座談会には参加せず、コメントを寄せられたようです。

ドキュメント映画「ザ・コーヴ」の制作手法と上映中止騒動を考える。
森達也×綿井健陽×想田和弘+是枝裕和 司会:篠田博之編集長
http://bit.ly/asQXP3

以下、僕の発言部分のほんの一部を抜粋します。
篠田 アメリカ人にとって、イルカを獲るなんてとんでもないという感覚は一般的なの?

想田 すごく平均的ですよ。だからこれは、アメリカでは非常に安全なトピックです。僕はそこが、あの監督の姑息なところだと思うんです。おそらく彼はベジタリアンで、本当に標的にしたいのは、動物全般を食べることなのだと思います。でもそれでは広範な支持を得られない。それこそ、今の日本人から上がっているのと同じような反発が、アメリカやヨーロッパから来るでしょう。けれどイルカなら、欧米では誰も食べません。だから観客はみんな簡単に正義の側に立てるんです。線を引いて、自分たちはみんなこちらの正義の側、イルカ漁をこらしめようという側に立てる。そしてみんなで「ひどいひどい」と言い立てる。
 テレビシリーズが決まったというところからピンときたのですが、エンタテインメントとしてバッシングする、つまり、やっつければやっつけるほど視聴率が上がるという構図を、そこに見てしまった気がします。オウム報道と同じですよ。もちろん、日本から反発があることもわかっているのですが、それは彼らにとって、非常に限定された、遠い国の話です。それこそ、イラクにミサイルを撃ち込むのと同じなんです。自分たちは安全なところにいて、遠くのよくわからない国にミサイルを撃つ。そういう発想を僕は感じました。
 僕もベジタリアンなので、監督が狙うことはよくわかります。でも、やるんだったらもっと本質的なところでやってほしい。一般社会で支配的な価値観に挑戦するなら、肉を食べるという問題に行くべきですが、この映画は、そういう試みをしようとしません。

森 ならばこの作品が、イルカではなく牛肉の屠殺やアメリカの食肉業界を告発するドキュメンタリーならば、想田さんの評価は変わるのでしょうか?

想田 うーん……、それほど変わらないと思います。というのも、この映画はドキュメンタリーというよりも、すごくよくできたプロパガンダだと思うんです。アカデミー賞に長編プロパガンダ賞という部門があるとすれば、これは一等賞だと思いますよ(笑)。

森 つまり監督の姑息さは作品の評価とは関係ない。要するにこの作品は、想田さんが規定するドキュメンタリーとは違うということですね。

想田 そうですね。それは、立ち位置が中立じゃないということではありません。偏っていてもいい。むしろ、ドキュメンタリーを撮る人は全員偏っているものですからそれはいいんですが、僕が一番問題にしているのは、「未知に対して開かれていない」ということなのです。先に結論ありきで、その結論に閉じ込めるためにいろんな要素を拾ってきて、結論を強化するためにしか素材を使っていない。作り手にためらいや疑問がない。とにかく、太地町の漁師をこらしめよう、糾弾しよう、そのための材料を集めよう、と。そこが僕には、ドキュメンタリーとして認めがたいんです。

Tuesday, April 20, 2010

映画『精神』釜山国際映画祭上映後 Q & A

パソコンのファイルを整理していたら、映画「精神」をワールドプレミアした釜山映画祭での質疑応答の書き起こしが見つかった。拙著「精神病とモザイク」(中央法規)に盛り込むつもりだったのが、紙幅の関係でほぼ割愛せざるを得なかったのを思い出した。そのまま眠らせておくのはもったいないので、ここに掲載しておきたい。長文ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

ーーー

映画『精神』釜山国際映画祭 上映後 Q & A (ワールドプレミア)
10/3/2008
司会:ナム・イニョン 通訳:延智美

想田: まずは最後までご覧いただき有り難うございました。そう簡単に最後まで見れる映画ではなく、どっとお疲れになったのではないかと思い、感謝しています。それから、今日、今の映画に出て下さった方、それから協力して下さった方が来ておりますので、ちょっとご紹介したいと思います。ちょっと立って下さい。
(会場、拍手)
皆さんはこの診療所と作業所のスタッフの方です。まず、こういうドキュメンタリーを撮る時には、患者さんに安心してもらう事が大事なんですけれども、そのためにはスタッフの方が僕を受け入れて、100%応援してくれないと、患者さんは繊細なので、撮影をなかなかうまく進められないんですね。そういう意味では、この方々が100%僕を信頼してサポートしてくれたので、なんとか撮影ができたのいうのが実感です。だからすごく感謝してます。それでも、僕が「出てくれますか?」と訊いた10人の当事者のうち、8人から9人は「出たくない」とおっしゃったんですね。それは、それだけこの問題がタブーだということなんです。精神的な病を持っているという事は、今の日本ではなかなか言い出す事ができません。ですから、映画に出て下さった方はもの凄い勇気を持って出て下さったんです。彼らの協力無しには、この映画は出来なかったので、出て下さったみなさんに感謝を申し上げたいと思います。それから釜山映画祭からはお金をいただきまして、そのお金なしにはこの映画が完成できませんでした。本当にありがとうございました。

司会者: 皆さん色々と質問があるかと思いますが、もう遅い時間になっておりますので、すぐに質問を受けたいと思います。

質問者(男性): 一般的に精神の病を患っておられる方々というのは、カーテンの裏に隠れていて、一般の人々とは距離感がある。で、この映画を通じて、一般の人々も同じような面を持っているし、また彼らを通じて学べることがあるという印象を受けて、とても驚きました。で、もっともご質問したいのは、彼らの心をどうやってオープンにさせていったのか、あれだけの話を聞けるには、どうやって彼らを説得し、心を開いてもらうというアプローチがあったのか、どうやってあれだけ彼らと近い距離が持てたのか、ということです。

想田: 先ほど申し上げたように、僕だけの力ではそういう風にいかなくて、やはり周りに協力者がいたというのが大きいと思います。特に山本先生が、撮影に対して不安を抱いた患者さんたちに、安心を届けて下さったんじゃないかなという気がしています。あとは、僕がカメラを持ってずーっと居るもんですから、段々友達になるんですよね。なかには僕に人生の相談をしてくる人もいたりとか、次第に深い交流も出てくるんです。

司会者: 無料相談ですか?

想田: そうです、無料相談です。(場内、笑い)

で、そうしていくうちに撮影が進んでいって。あとは、本当は、皆さん自分の気持ちをおっしゃりたいんだと思うんですよね。普段はあまり言えないことっていうのを、世間に向かって、カメラに向かって、言うんだと。例えば、今までは誰にも自分が病気だってことを言わなかったんだけれども、この映画をきっかけに言うようにする、というような決断をした人もいます。

司会者: 具体的に撮影期間はどれ位かかったんでしょうか?また、登場される方々とはどれくらい緊密に会われていたんでしょうか?

想田:  撮影は2回に渡ってやりました。2005年と2007年の2回の撮影で、合計だいたい一ヶ月位です。僕は患者さんとカメラを持たずに会う事はほとんどないです。必ずカメラを持って、「自分は撮影する人間だ」ということを示しながら、それでも受け入れてくれる方とどんどん撮影が進んでいったと思います。というのは、カメラを回す前に仲良くなって、それからおもむろにカメラを取り出して回すという手法の人もよくいるんですけども、僕はカメラを回している時と回してない時では人間が変わるんですね。だからカメラを回している時の人間を知ってもらうために、最初からカメラを回すというのが僕のやり方です。

司会者: たくさんの方の手が上がっているので、多くの人に回るように簡略に質問をお願いします。

想田: 僕も簡略に答えます。(場内、笑い)

質問者(男性):日本では精神病だということを言うことすら難しい、タブーだ、というお話がありましたが、そういったことを映画で撮ろうとしたきっかけを教えて下さい。

想田: 僕自身、色んなプレッシャーに負けそうになって、一度精神科に駆け込んだ事があります。その時、僕はすぐに回復したんですけれども、「ああ自分も病気になり得るんだな」と実感しました。でも、普段は全然関係ないものとして僕らは生活していて、まるで異星人を見るかのように、精神病患者は自分たちと違うっていう風に分けているような気がします。その状況はなにかおかしいと思ったので、ここは一つドキュメンタリーを撮りたいと。あとは、私の義理の母がこの診療所と一緒に仕事をしていて、たまたまこの診療所を知る事ができた。だからこれはいい機会なので、撮影を開始したということになります。

質問者(女性):この映画を撮られる前と撮られた後では、見方・考え方の変化はあったんでしょうか?映画の中で「カーテンで隔てられている」というような台詞が出てきますけれども、こういった精神疾患のある方々は、個人的に精神的な問題があるんだと思っていたのが、実はもっと社会的な問題もやはりあるんじゃないか、という風に考えが変わっていった点はあるんでしょうか?あと、スタッフの方々におうかがいいしたいんですけど、最初からずっと映画を観ながら、日本では以前秋葉原で無差別殺人などが起きましたけれども、現代社会では結婚しない人も増え、独り暮らしの人も増えている中で、社会的に孤立を感じて鬱病を抱えている人が増えているんではないかと思いますが、そういった方々とたくさん触れていく中で、私は映画を観て、逆に健常者よりもとても思慮深いという印象を患者さん方から受けました。スタッフの方々は、こういった患者さん方と色々接しながら、何が一番彼らを傷つけているのか、また最も彼らを見ていてもどかしい、または残念に思われるような点というのはどういったものなのでしょうか?

想田: この映画を撮る直前まで、僕は自民党という政党の選挙運動を撮っていました。その直後に精神科の人達に会って色々撮っていて、「ああ、こっちの人達の方が自分にずっと近い」と、思いました。自民党の人達は、色々ルールがあるんですが、そのルールに従って選挙運動をしていき、そのルールがどうしてそういう風に存在するのかってことをあんまり考えないんです。でも、患者さん達と話していると、その部分「どうしてなんだ?」というところにすごく引っかかっていて、その疑問をすごく突き詰めているような気がしました。また、撮る前の僕は、患者さんは弱い人たちなんだろうと、何となく思ってました。でも、撮ってみて必ずしも弱いという風には言えないなと、実感しました。もちろん病気で押し潰されそうになって、中には命を絶ってしまう方も居るんですけど、一方、その病気を肥やしにして、より人生を輝かせる要素にしている人もいるなあ、という風に感じました。そういう点は、撮る前、僕は全く予想もしていなかったので、自分で考え方、見方が非常に変わった点です。あとは、病気だからといって、ずうーっと暗く沈んでる訳じゃなくて、楽しいこともあれば冗談も飛ばすし、すごく明るい面もある訳ですね。だから、「病気の患者さん」と言う風に、一色に塗りつぶすのは、映画として非常によくないなあと思いました。実際、映画に登場する人が患者さんなのか患者さんでないのか、かなり曖昧に見える場面も多いんじゃないかと思います。大事なのは、病気かどうかということではなくて、人間として描かしてもらうということだと思います。大体僕はそんなところです。あの、さっきの質問にどなたが答えてくれるのか…?

山本真也: このような重く暗いテーマの映画を、一体どんな人が観にくるのかと思って今日は来ました。見ていると、すごく若い人達が多いことに非常に驚いています。で、今の方の質問に一つ答えるとすると、僕が毎日生活している場所には圧倒的に精神障害者という人の方が多く、健常者の方が少ない世界で、そういう世界にずっと長く居ると、僕自身も、誰もが精神障害者と言われる人達の価値観にどんどん引っぱられる。そりゃあもう誰でもそうだと思うんですよ。だから、彼女が言われたように、彼らの何が残念だと思うかと言われても、僕にはもう分からなくなってる、ということですね。残念と思わなくなっている。彼らは障害を負ってるんだけど、その彼らの日常を残念とはもう見れなくなっている、ということです。だから逆にこういった映画を観る、とりわけ若い人達、こういった世界と縁遠かった若い人達が答えを教えて欲しいっていうくらいの気持ちがします。

質問者(女性):映画をとても印象的に観させていただきました。普段、やはり劇映画に慣れてしまっているせいか、このドキュメンタリーを観ていて所々登場する、ぶら下がっているような落ち葉が気になったんですけども、あれは何か意図して写されたものなのでしょうか?また二つ目の質問は、お名前が分からないんですが、虫歯で困ってらっしゃる患者さんが出てらっしゃいますが、彼の台詞の中に「包帯を巻いてあげることだ」という言葉が出てきますが、この映画を通じて監督は彼らに包帯を巻いてあげたと思いますか、または彼らに包帯を巻いてもらったと思いますか?

想田: あの葉っぱですね。葉っぱは、撮っている時にはさほどなんてことなく、あまり意味なく撮ったんですけれど、編集の時に「ああ、この葉っぱはいいな」と思ったんですね。
(会場笑い)
で、何かのメタファーにもなり得るなと思いました。僕の解釈はあるんですが、それを言うと面白くないので言いませんが、自分の中では意味はあります。映画自体も、僕はメッセージを伝えることではなくて、現実を描く事に徹しようと思っているので、多分観て色んな感想が起きるんじゃないかと思うんです。だから多分人によって違うところに反応する、というか、違うところに違う印象を持つんじゃないかと思うんです。そして、それでいいと思っています。僕としては、ある意味ボールを投げて、それを受け取ってもらうんじゃなくて、打ち返して欲しいと思っています。で、その打ち返した玉が、「あっ、あっちに行った、こっちに行った」っていう風に観てるのが楽しい。それが僕の映画を作る喜びです。あと、包帯のことですが、僕が皆さんに包帯を巻けたかどうかは訊いてみないと分からないんですが、僕の方には巻いてくれたと思います。

質問者(女性):私は釜山の精神障害者達のリハビリを助ける病院に勤務しているスタッフです。そういった意味で、この映画にとても関心を持っていました。この映画に登場されるスタッフの働いている姿とか、また精神障害者の方々の話している様子を見て、非常に多くの部分は共感を持って映画を観終えたんですけれども、こういった映画がもっと世の中に出て行って、精神障害に対する理解が深まって欲しいと言うことを感じました。日本もタブーだという話をされましたけれども、韓国もやはり同じような環境に置かれていて、非常に多くの偏見がまだ残っています。ですから、こういった映画がもっともっと出てきて、そういった方々の力になって欲しいなと思いました。で、質問は、映画の中で診療所は、患者さんたちを診療するだけではなく、職業リハビリにも繋がって行われているような場所でした。それはこの病院ならではの特色なのか、それとも日本ではああいったシステムを持つ病院が普遍化しているのでしょうか?監督は、敢えて映画の撮影にふさわしい特殊な診療所を選んだのでしょうか。

想田: この診療所はあまり一般的ではないと思います。この病院を建てられた山本先生は、それまで県の精神福祉保健センターにずっと勤務されてたんですけれども、希望退職した後、この診療所を自分で立ち上げられました。山本先生は、精神科病院に勤務されていた時にも病棟から鍵をはずす運動の草分け的な存在、パイオニアで、医療スタッフではなく患者さんの側に立っての医療ってものをずっと目指してこられた方です。ですから、この診療所にも普通だと入院させられてしまうような患者さんもいらっしゃるんですけれども、その人達も皆家から通うことを奨励されて家から通っていらっしゃいます。なるべく病院に隔離されるんではなくて、地域で生活できるようにということでああいう仕事場、「作業所」を作っている。一つの理念に基づいてああいう形になっていると。で、それは日本ではそれほど一般的ではなく、かなり珍しいと思います。でも、僕は色んなものをリサーチした上で、その中から選んだという訳ではなく、たまたま僕の義理の母がそこと仕事をしているということで関係があった。そして色々見聞きしているうちに、「ああ、ここは凄く面白いなあ」ということになり撮影を始めたので、それが典型的かどうかということはあまり考えずに撮影を始めました。

質問者(男性):映画の全体を通して観ると、患者の方々も一般の人々と変わらなかったり、また、その患者の方々の為に一生懸命働いているスタッフの方々を見て、とても心があたたまる感じがしました。しかし、私がちょっと理解不足かも知れないのですが、最後の方の場面で、患者さんが電話をしている時ずっと不平不満を言ってますよね。で、カメラは彼のせいで家に帰れないスタッフを追いかけています。そしてその様子で映画が終わっているので、少し当惑したんですけれど、こういった終わり方をしたのは監督の意図があるのでしょうか?

想田: 僕の中であのラストは、「このエンディングしかない」というくらい、強く信じている終わり方です。あの場面で何が起こっているのかは、僕もよく分かっていません。僕の理解をすり抜けることが何か行われている。で、色々想像はするんですけれど、そのどれが当たってるのかもよく分かりません。でも、それこそが、僕がこの題材を扱った時に感じていた印象で、「何か分かったかな」と思うとそれを裏切るようなことを見聞きするんですね。「分かったかなあ」と思った瞬間に、「ああ、やっぱり違った」っていうことの繰り返しだったんです。皆で楽しく詩を読んだシーンで終われば、Feel Good Movieというか、ホッとする映画になるかもしれないんですけれども、それだけではない気がしたんですね。だから最後にもう一回、分からないというか、そういうシーンを入れたいと思いました。そういう意味で、あのシーンを入れることによって、やっと自分の見た印象と映画が合わさったという感じがしています。

質問者(男性):質問は三つあります。精神の病を患っているということで、映像を撮っている時に見辛いという映像もやはりあったと思うんですね。でも、敢えてそういう映像を省略されているというのに何か意図はあるんでしょうか?二つ目に、映画の中で野党の日本共産党のポスターが映し出されているですけれども、何か社会の必要悪のような、この社会に必要な存在だということで患者を提起しているんではないか、というような印象も受けました。その辺の意図もお聞かせ下さい。また三つ目に、山本先生は本当に見ているだけで尊敬の念が湧いてきますが、日本ですごく有名な方なんでしょうか?

想田:  最初の質問の意味がよく分からなかったんですけど。見辛い映像というのはどういうのですか?

同じ質問者:例えば、自殺を試みているとか。

想田: まあ、そういう時にカメラが回ってなかったということだと思います。そういうことはそうないんだと思います。もちろんあるんですけれども。実際、僕が撮り始めてから5人も亡くなっているんですね。そのぐらいやっぱり病気と闘って、その闘いというのは本当に大変だということを実感するんですけれども、その場面に僕が居合わせるってことはなかなか無いと思います。だから、これはまずいとか、これは出さないという形で、僕が自主規制したものは基本的にはないです。あと日本共産党のポスターですけれども、もちろんあそこに入れた僕なりの意図はあります。ただその意図をここで説明すると野暮なんで、皆さん考えて下さい。
(会場、笑い)
あと山本先生ですが、知る人ぞ知る名医ということで、患者さん達の間ではかなり有名だと思います。でも、テレビに出てきて何かをコメントするとか、そういうことはあまりないと思います。

質問者(女性):映画とても楽しく観させていただきました。監督のお話では、日本ではまだ精神病というのがタブーだというお話でしたけれども、実はそういうことで言えば、タブーでもっと厳格な目で見られているのは韓国の方で、はるかにすごい状況に置かれています。で、なぜそんなことを申し上げるかというと、私は現在鬱病を患っています。そのせいで家に5ヶ月間閉じこもって出れない生活が続いていて、ようやく最近リハビリを始めたんですけれど、先生と話し合った結果、今回初めて釜山映画祭に一週間一人で行ってみるということを先生と相談して決めました。そして、その釜山映画祭に参加する中で、私が最も先に前売りを予約した作品が正にこの作品で、それだけ楽しみにしていて、何か私の力になってくれるんではないかと思って来ました。そして、実際に映画を観て、とても励まされました。日本ではタブーだというお話でしたが、韓国ではそれ以上にタブーだということはご存じでいらっしゃったんでしょうか?また二つ目に、韓国が初めての映画公開ということですが、果たして海外の観客にどのように受けとめられるのか、また、韓国の観客にどのように受けとめられるのか、映画を上映するにあたって緊張されませんでしたか?

想田: まず、この映画がお力になれたということだったら、それは本当に嬉しいです。中には、こういう映画を撮ること自体が寧ろ不道徳というか、「病気の人を撮ってそれを世間にさらす」というような批判的な発想もあると思うんですね。ですから、そこは自分としてもすごく迷う部分があるんです。見せていいものなのかどうかとか。でも、僕は患者さんが「出していい」と言ったことを信頼していて、それなのに僕が「出さない」というのはすごく失礼な話だと思うんです。だから、作ったからにはたくさんの人に見てもらいたいと、そういう気持ちでやっています。だから、実際に病気を患っている方がそういう風に感じて下さったことは、自分にとって本当に嬉しいです。あと、韓国の状況については、僕は全く知りません。ですから、どんな反応がくるのか全く予想できませんでした。実は、日本でもまだ、と言うか、今回世界で初めての上映だったので、もちろん僕はすごくドキドキしました。まだ日本でもやっていないんです。だから、日本のお客さんがどういう反応をするのかというのもすごく楽しみだし、ドキドキすることろです。多分、来年映画館で公開することになると思います。

司会者: この映画が多くの人に観ていただけるといいですよね。皆さん拍手で声援をあげて下さい。
(満場の拍手)

質問者(男性):さっきご返答をいただいた部分と重なることかも知れませんが、映画の中で「カーテンを取り払う」という話が出てきますけれども、映画を観るという行為により、その過程でその考えをより逆に深めさせる、または固まらせてしまう側面があるような気がしました。先ほどそういった批判について意識したと話されていましたけれども、人々の考え方や枠とか偏見というものはそう簡単に変わるものではないので、隠されていたものをさらすことによって、逆にそのカーテンを二重三重に強固なものに、または違う色のカーテンに変えてしまう懸念をお持ちでなかったのかということと、もしその懸念があったとしたら、そのためにどんなことを考えられたのでしょうか。

想田: そうですね、僕の意図は「カーテンを取り払う」ということですけども、それが僕の意図と反して、カーテンをより強固にしてしまう可能性は否定できないとは思います。でも、僕は何かを作る時には、恐らく良いことも悪いことも両方起こると思うんですね。で、なるべく良いことの方が起こればいいなと期待しつつ、善意で何かをやることしかできないと思うんです。それは薬に副作用があるみたいなものだと思うんですね。だから、なるべく副作用が無いようにという風に思いつつ作ったわけです。そういう風に念じるしかないと思って作りました。で、気を付けたのは、単純化することを避けるために、なるべく複雑な現実を複雑なまま提示するという方針を貫こうと努力しました。そのために、ショットはなるべく長く使う。短くカットするとどうしても意味が限定されてしまって、見る人に一つのメッセージ性みたいなものを投げかけてしまうので、なるべく長いショットで、お客さんが自分の目で観察できる時間を作るように努力しました。だからワンシーンが普通の映画よりもちょっと長いと思うんです。情報を伝えるだけだったらもっと短く切れると思うんですけども、それはしたくなかったんです。

司会者:今後はどんな作品を作っていかれるお考えですか?

想田: 今、観察映画の第三弾を撮っています。これは平田オリザという劇作家と彼の劇団を観察する映画です。でも、それがどんな映画になるのかは、僕も今はまだ全然分かりません。僕は、テーマを決めずに、自分が分からないから撮るという、そういう姿勢で撮っているので今分かったら変なんです。

司会者:終電の時間が近づいてきて、皆さんハラハラされているようです。ということで、夜通しお話をした
いところなんですけれども、お別れの時間になってしまったようです。昨日の開幕式に参加されたのであれば話を聞かれたと思いますが、昨日韓国を代表する大女優が自殺をしました。韓国では40代の死亡理由の4位が自殺で、20代の1位が自殺だそうです。韓国でも、ようやくそういう話を公にする時期がきているんではないかということを感じます。そういった残念なことがこれ以上起きてほしくないという気持ちで映画を観られた方も多いとかと思うんですけれども、最後に監督の方から何か一言お願い致します。

想田: そうですね、僕が凄くお世話になっていた映画監督の人が去年自殺されたりとか、友達が自殺したりとか、僕の周りでもすごく身近な問題だと思います。この映画が、こういう問題について皆さんが考える材料に少しでもなってくれたらいいなあと思ってます。最後に、さっき紹介し忘れたんですけれど、僕の妻もこの映画の撮影時には大体立ち会って、僕の代わりに患者さんの話を聞いたりということもやってくれました。僕は一人でカメラを回しながら撮るので、本来なら患者さんはカメラの方を向いている筈なんですね。でも、たまに斜めの方を向いている人がいると思うんですけど、それは僕の妻に話しかけているんです。
(場内笑い)
で、妻は今そこでカメラを回してます。さっき紹介するのを忘れてごめん。
(場内笑い)
皆さん、どうも有り難うございました。
(場内、拍手)

Tuesday, March 09, 2010

『宗教と現代がわかる本 2010」


渡邊直樹さん編集の『宗教と現代がわかる本 2010』(平凡社)に僕のインタビューが載っています。宗教をキーワードに現代を読み解こうとする企画。「宗教と映像メディア」が今回のテーマだということで、まだパラパラとページをめくっただけですが、非常に読み応えがありそうです。
http://heibonshatoday.blogspot.com/2010/03/2010.html

以下、僕のインタビューのほんの一部の抜粋です。

想田和弘インタビュー
聞き手 渡邊直樹

渡邊 想田監督がお撮りになった映画『精神』を拝見しました。患者さんによりそって監督が見つめている時間がずっと流れている。そういう映画って、えてして観ているほうは飽きたりすることがあるんですが、まったく飽きることがなかったです。というのは、「患者さん」という匿名の存在ではなく、一人ひとりの患者さんの名前と人格が菅野さん、藤原さん、美咲さん……。しっかり立っている。それから彼らの話に徹底してつきあう山本先生。そしてそれを想田さんが徹底して見続けている。観ているほうは、患者さんたちがまったくの他者ではない、自分の中にも共感できる部分があることを発見するし、とても濃密な時間を体験させていただきました。
想田 ありがとうございます。一つには、ぼくがカメラを向けることによって、いわゆる健常者と彼らを隔てているカーテンが取り除けるんじゃないかという気持ちが、この映画を撮る中心にあったんです。カーテンというのはつまり、彼らはいままでずっと隠蔽され、隔離されてきていますよね。精神病院の閉鎖病棟に隔離され、あるいはメディアに登場する場合にはモザイクをかけられる。要するに患者さんたちは顔の見えない存在として遠ざけられ、タブー視され、いわゆる一般社会の中では存在すら認められていなかった。それこそ本当に顔が見えないわけだから、モザイクを取り払って顔が見える状態にするというだけで、ぜんぜん違うんじゃないかっていう気がしたんです。つまり人間として描かせてもらうということですね。英語だと「put human faces」というんですけれど、それまで記号でしかなかった存在に、具体的な人間としての顔を持ってもらう。もちろんもともと持っているんだけれども、持っていないかのようにずっとまわりが扱っていたから、そういうふうに扱うことをやめるというだけの話なんですけれど。
渡邊 でも、想田監督ご自身も、カメラがなかったら、ああいうふうに飛び込んでいけなかったのではないですか。
想田 そう、もちろんカメラあっての話です。そこがすごく重要で、撮られている人も、カメラがあるということを前提に振る舞います。映画を観た方から、「これは外向きの顔なんじゃないか」、「本当はもっと辻褄の合わないことを言ったり叫んだり、もっとさらけ出すものなんじゃないのか」というようなことをよく言われます。たしかにそうなのかもしれません。たとえば家族に見せる顔とぼくに見せる顔は絶対違うはずですから。誰と一緒にいるのかによって違う顔が出てくる。それは必ずしも嘘ということではなくて、自然なことですよね。我々は多面的な存在であり、そのときの状況や相対している人によって、自分の持っている多面的な部分からその都度違う側面を出していく。それはその人の一側面でしかない。だから、今回もカメラを持ってお邪魔した人間に対して表わしてこられた表情を映画にさせてもらったということだと思っているんです。

Friday, March 05, 2010

『環境会議』にインタビュー掲載


『環境会議』2010年春号に僕のインタビューが載っています。
http://www.sendenkaigi.com/hanbai/magazine/kankyoningen/

以下は、僕のインタビューのほんの一部の抜粋です。

想田 昔の映像を観ると、ディズニー映画やミュージックビデオですら、ヨーロッパの文芸作品かと思うほど、優雅なテンポで素朴。今は強い刺激をてんこ盛りにする傾向が加速度的に進行していますが、この先には、愉快な未来は待っていないのではないでしょうか。刺激を増幅する競争から降りて、映像表現の原点に立ち返る必要があるのではないかと思うのです。
 環境問題についていうと、問題の本質はヒューマニズムの暴走にあると思います。自然に対して人間が小さかった頃は、人間中心主義でも問題が無かった。しかし科学技術を持ち、人口もこれだけ増えた今となっては、人間中心では自分たちの活きる環境も壊れてしまうというジレンマに陥ってしまう。
 テレビをつければ映っているのは人間ばかりで、映像にも人間中心主義が反映されている。動物をモチーフにした作品であっても大半は擬人化されて描かれています。

Saturday, January 30, 2010

『Atプラス』に寄稿


『Atプラス』(第3号)という硬派で面白い雑誌に文章を寄せました。今号のテーマは「アートと活動」だそうです。そこで僕は「ドキュメンタリーにメッセージは必要か?」と題して、ドキュメンタリーとプロパガンダについて書きました。よかったらお読み下さいませ。

http://www.ohtabooks.com/publish/2010/02/06112237.html

以下は、本稿の出だしを抜粋したものです。

ドキュメンタリーにメッセージは必要か?
想田和弘

 「この映画に込めたメッセージは何ですか?」
自民党候補者による選挙運動の内幕を追った『選挙』や、岡山市にある精神科診療所の世界を描いた『精神』を公開する過程で、このような質問をジャーナリストや観客から何度も受けてきた。
 彼らの質問からは、『選挙』や『精神』のごとき“社会派”のドキュメンタリーには、当然、作者の高邁なる主義主張や啓蒙的なメッセージが込められているハズだろうという、暗黙の前提のようなものが透けてみえる。
 いや、もしかしたら、彼らはそれが社会派の映画だからメッセージを期待したわけではないのかもしれない。それが恋愛映画であろうが、小説だろうが、演劇だろうが、舞踊だろうが、およそ表現と名のつくものには作者の「メッセージ=言いたいこと、伝えたいこと」があるはずだと、信じ込んでいるだけなのかもしれない。
 いずれにせよ、彼らは目をキラキラさせて、唾をごくりと飲み込んで、あたかも問題の核心に触れるがごとく、作者からの決定的な答えを期待する。「さあ、要するに言いたいことは何ですか?正解は何ですか?」と。
 けれども、僕は彼らの期待に応えることができないし、応えたくない。いや、実を言えば、作品がメッセージを発することを注意深く回避しながら映画を作っている。作品にメッセージを込めるのは、危険だとさえ思っている。だから僕の返答は決まっている。
 「僕の映画にメッセージはないですよ。言いたいことも、結論もありません」

 ドキュメンタリー作家=活動家説

 すると質問者は、かすかな狼狽を顔に表す。それまで一歩一歩登ってきた梯子をいきなり外され、身体が宙にふわっと浮いてしまったときのような、頼りない、裏切られたような表情である。
 確かにドキュメンタリー映画には、歴史的にも、今日的にも、メッセージ性の強いものが多い。
 実際、僕が住むアメリカなどでは特に、ドキュメンタリーの作り手は、作品によって世の中の矛盾や不正、不公平を告発し、“社会的正義”を希求して闘わなければならないと、多くの作り手が考えているようにみえる。ドキュメンタリー作家=活動家説である。
 この説を採用する作り手たちは、自らの作品を社会運動の手段として考える。革命家が銃を手に取るように、カメラを武器として使う。したがって、作品の完成度や芸術性などよりも、それがどのようなメッセージを持ち、いかに観客を啓蒙し、目覚めさせ、政治的・社会的目標に近づけるかということが、重要視されるのである。
 そのような作品の最大の特徴は、作品に使われるあらゆる映像や音声が、単純で明快なメッセージの正しさを立証し、観客に印象づけるために使われていることである。だから、映画を観終わった観客は、作品の趣旨を一言か二言で総括できてしまうし、作品が訴えかけるものが何であるかは明白すぎて、作者に改めて尋ねる必要もない。
 例えば、マイケル・ムーアの『華氏九一一』(〇四年、アメリカ)を観て、「ジョージ・W・ブッシュはやっぱり凄い人だなあ」と思う人は、たぶんほとんどいないだろうし、そういう人が大勢いたとしたら、ムーアは作品の目的を達成できなかったことになる。同作は、ブッシュを徹底的にこき下ろして、大統領選での再選を阻むためにこそ作られた作品だからである。
 同様に、アル・ゴアの『不都合な真実』(〇六年、アメリカ)を観て、「地球温暖化とか言ってるけど、この映画を見る限り大丈夫そうじゃん」と思う人は少ないだろうし、モーガン・スパーロックの『スーパーサイズ・ミー』(〇四年、アメリカ)を観て、ビッグ・マックを食べたくなる人は稀だろう。また、ルイ・サホイヤスの『ザ・コーヴ』(〇九年、アメリカ)を観て、和歌山県で行われているイルカ漁を「素晴らしい日本の伝統文化だ」と思う人も、たぶんいない。いや、いたら作者としては困るのである。
 これらの作品の最上位には、作り手が考えるところの「メッセージ」や「正しさ」が鎮座している。そして、映像はそれを観客の頭に叩き込み、注入するための道具として、利用されるのである。

…以下は『At プラス』誌でお読み下さい

Tuesday, January 12, 2010

「グラフィカ」第3号にインタビュー


「グラフィカ」第3号に僕のインタビューが掲載されています。超硬派で面白い本です〜。

http://www.graficamag.com/grafica.html

以下、インタビューのほんの一部の抜粋です。

ー作為を排するということですか?

 いや、作品ですから作為はあります。「この映画を撮ろう」と思うこと自体が作為ですから。作品のために行うあらゆる行動に作為があるわけです。
 編集のときもそうです。例えば『精神』でいうと、70時間の映像素材を2時間15分にまとめたわけですから、68時間は捨ててるわけです。凄まじい選別作業です。
 で、どうやっているかというと、まず自分が興味のあるシーンからどんどん繋いでいきます。そうするといくつもシーンができあがります。それを一本にまとめます。でも、まとめた時点ではこれはシーンの羅列でしかない。映画にならないんです。で、ここからパズルがはじまるんです。シーンを入れたり出したり、順序を入れ替えたり。そのうちに、「実はこの映画のテーマはこういうことだったのか!」などという“気づき”が、編集し始めて4、5ヶ月目位にやっと出始めて来る。そしたらその視点を先鋭化するために、また順序を入れ替えたり、ショットの順番を調整していく。これが編集の技術なんですね。作為以外の何物でもない。
 ただし、それは自分の考えに現実を無理矢理当てはめるための作為ではなくて、自分が対象を観ることで徐々に獲得していった視点を表現するための作為であるわけです。それで僕は編集に10ヶ月かかるんですよ。

Friday, December 11, 2009

『キネマ旬報』12月下旬号に寄稿


雑誌『キネマ旬報』12月下旬号に、自分の方法論についての文章を書きました。「ドキュメンタリー、ドキュメンタリー作家の多様性」と題する特集の一環です。

http://www.kinejun.com/kinema/index.html

以下は、本稿の出だし部分の抜粋です。

 「観察映画シリーズ」と銘打って、ドキュメンタリー映画を作っている。これまでに、選挙運動を観察した『選挙』(07年公開、観察映画第一弾)と、精神科診療所の世界を描いた『精神』(09年公開、同第二弾)を発表した。現在、平田オリザ氏と青年団を被写体にした『演劇(仮題)』(同第三弾)を製作中である。
 観察映画の方法論的特徴として、撮影する前にテーマ設定をしないことが挙げられる。リサーチを最小限にとどめ、構成台本も書かず、目の前の現実をつぶさに観察しながら、行き当たりばったりで撮影をする。事前にいろいろ決めると、それが先入観や足枷となって、予定調和的な作品になってしまうからである。編集の際にも、先にテーマを決めない。映像素材を何度も観察し、試行錯誤を繰り返しながら、自らの視点を定めて行く。そして、その結果を映画にしていく。

Thursday, December 10, 2009

Sunday, September 06, 2009

雑誌『文学界』に寄稿

雑誌『文学界』(10月号・9/7発売)に「観察映画についての覚え書き」と題する文章を寄稿しました。観察映画というスタイル・方法論について、覚え書き風にまとめました。

「総力特集:映画の現在——若手日本映画作家の肖像」という企画の一環です。よかったらお読み下さい。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/

以下、本稿からのほんの一部の抜粋です。

(七)観客に「観ること」を迫る

 観察映画は、観客に自分の目と耳でスクリーンをよく観察することを強いる映画である。
 多くのドキュメンタリーでは、新しい登場人物が現れるたびに、テロップで名前や肩書きを表示し、ナレーションでも懇切丁寧に解説してくれる。しかし、観察映画ではそのような「情報」や「説明」が作り手から与えられないので、観客は登場人物の動作や表情、話し方やその内容に注意を傾けざるを得ない。そして、観客それぞれの世界観や人間観、経験と照らし合わせながら、登場人物について知り、解釈していかなければならない。情報の欠落が、観客の観察眼を刺激し、作動させるとも言える。

(八)観察映画は観客を信頼する

 したがって、観察眼を使う労力を厭う人や、懇切丁寧に何でも噛み砕いて説明する離乳食のような映像を受け身で消費することに慣れ切っている人は、観察映画の入り口で門前払いされてしまうだろう。
 しかし、自分の意志で門をくぐった観客は、自らの顎と歯を使って映像を咀嚼し、消化することになる。そこでは、観客は受け身の消費者ではなく、能動的で主体的な鑑賞者として、映画の世界に接することが可能である。
 観察映画は、観客の注意力や咀嚼力、洞察力を信頼するのである。

(九)観客はバッター

 観察映画では、作り手がピッチャーなら、観客はキャッチャーではなく、バッターとして想定する。鑑賞者が自分の力でバットを振り、ボールを色々な方向に打ち返すことを期待する。換言するならば、作り手が観客へ一方的に何かを伝えるのではなく、両者が衝突し合う双方向のコミュニケーションを目指している。

(十)観察映画は「窓枠」を提示する

 観察映画の作り手が行うのは、世界を切り取る視座としての窓枠(=フレーム)を、観客に提示する作業である。
 窓枠の外にある世界は、観客には見えない。しかし、窓枠の中で起きていることは、自由に観察できる。
 ナレーションやテロップによる説明を付けることは、窓枠の中の風景に「ここを観ろ!」と矢印を付けたり、風景そのものに色を付けたりすることに当たる。それは、観客による自由な観察や洞察を妨げかねない。

Monday, August 10, 2009

『東洋経済』に書評

現在発売中の「週刊東洋経済」(8/15-22合併特大号)に拙著『精神病とモザイク』の書評が掲載されました。
http://www.toyokeizai.net/shop/magazine/toyo/detail/BI/f7a367fe62e35fc8af3c641822a0bc5d/


以下、全文掲載します。

書評
「精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける」 想田和弘著
〜モザイクは撮影側の保身 無責任な報道を可能にする

評者 江口匡太 筑波大学大学院准教授

 赤ちゃんを産んだ母親が、家族との度重なる確執から精神的に追い詰められて混乱し、泣きやまない子どもの口を塞いで死なせてしまった。本人は悔やんでも悔やみきれない罪を一生背負うことに後で気づく。

 こうした虐待のニュースは最近よく報道される。想像してみてほしい。もし、あなたがテレビ番組の制作責任者なら、そうした過去をもつ本人を実名で素顔をそのまま報道できるだろうか。

 著者は映画監督で、現在、『精神』と題するドキュメンタリー映画を日本各地で公開している。本書はその制作過程とその後をまとめたルポである。著者はこの映画で精神病を患っている人たちを、本人の承諾を得て実名で素顔をさらけ出して、その人となりを伝えようとした。

 もし、被写体となった人に何かあったら? 病気が悪化したら? 攻撃されたら? そう考えると、モザイクをかけずに実名で報道するのはとても勇気がいる。

 だからこそ、被写体となってくれた人たちをどのように報道するのか、責任をとれるのか、真正面から向き合えるという。モザイクは被写体となった人を守るためではなく、撮影側の保身のためだと著者はいう。モザイクが乱暴で無責任な報道を可能にしてしまうのだ。

 精神病患者と健常者とを簡単に分けられるのか、というのも著者のテーマの一つだ。許可をとって撮り始めたら、患者さんではなくて診療所のスタッフだったという話が紹介されているが、その垣根は本来存在しているのか曖昧だ。モザイクのように、自分たちで勝手に境界を作って隔てているだけかもしれず、それが「病気」を過度に作り出しているのかもしれない。

 診療に長年関わってきた山本昌知医師、精神科医の斎藤環氏との対談も収められており、読み応えがある。

そうだ・かずひろ
映画監督。ニューヨーク在住。1970年生まれ。東京大学文学部宗教学科卒業。『選挙』で、ベルリン国際映画祭正式招待・ピーボディ賞、『精神』も日本公開前より海外映画祭での受賞多数。テロップ、ナレーション、BGM等なしの観客の自由な思考を促す映像表現(「観察映画」)が国際的に高い評価を受けている。

中央法規出版 1470円 242ページ

Sunday, August 02, 2009

8/3(月)朝日新聞朝刊

衆議院選挙に絡み、8/3(月)朝日新聞朝刊の「私のマニフェスト」欄に登場します。別に僕が立候補するわけじゃありません(笑)。

インタビュー中には、選挙制度のことやら、精神医療のことやら、いろいろ喋ったんですが、紙幅の関係で、日本映画と地方の映画館について語ったことを中心にまとめていただいたようです。ご一読下さい。

ウェッブ版にも載りました。
http://www.asahi.com/special/09016/TKY200908030248.html

以下に全文掲載します。

〈映画監督の想田和弘さん〉

 川崎市議補選の自民党公認候補に密着したドキュメンタリー映画「選挙」を07年に制作しました。撮影を続けながら、政策論争がほとんどされない選挙戦に疑問を抱きました。候補者は自分の名前を連呼するだけで、有権者が政策を知る機会は、ほとんどない。選挙カーやポスターなど政策論争と無縁の道具に税金が使われるのもおかしいと思いました。
 芸術の分野でも、必要なところに税金が使われていないと感じます。国は117億円をかけて「国立メディア芸術総合センター」の建設を計画していますが、使い道は他にあるはずです。日本にはお金がないわけじゃない。配分が間違っているだけです。
 例えば映画なら人口10万人以上の都市にミニシアターを公設してはどうでしょうか。既にシアターがある地域なら、運営に公共性を加えて継続的な助成をする。
 日本映画はここ数年、若手の映画監督が増え、黄金時代の50年代に匹敵するほどの本数が制作されています。しかし、若手の作品を多く上映するミニシアターは赤字に苦しんでいる。地方都市では映画館の関係者がアルバイトをして何とか維持しているような館もあり、このままでは続かないのは明らかです。街にミニシアターがなくなれば、東京との文化格差は拡大し、荒廃してしまうでしょう。
 ミニシアターで上映される日本映画には海外で注目を集めるものもあり、黒澤や小津作品のように日本人像を海外に伝える役割も担っています。しかし、自国で発表の場が失われれば、日本映画は簡単に廃れてしまう。日本映画が世界に発信されなくなれば、日本人は世界で今の地位を保てません。
 映画館に通った若い人が、映画の次世代を担います。そのためには一つの巨大博物館より、小さな映画館が地方にたくさんある方がいい。そこに税金を使うことの方が文化を育てることにつながるのではないでしょうか。(聞き手 宋光祐)

    ◇

 文化支援予算 文化庁は09年度の当初予算で日本映画・映像振興の推進に約5億円を計上。補正予算で「文化芸術支援」として315億円が上乗せされ、国立メディア芸術総合センターの建設も決まった。

Wednesday, July 22, 2009

『ドキュ最前線』に『精神』批評

ご紹介が遅くなりましたが、メルマガ『ドキュメンタリー映画の最前線』に、萩野亮さんによる『精神』批評が載っています。どうぞご一読下さい。
http://archive.mag2.com/0000116642/index.html

以下、全文採録です。

┳━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃04┃□ドキュメンタリー時評
┃ ┃■『精神』(想田和弘監督、2008)
┃ ┃■萩野 亮
┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

野良猫が気ままに徘徊し、木々が陰を落とすのどかな一角にある小さな施設に、ひとりの女性が足早に駆け込んでゆく。キャメラは手持ちによる揺れを画面に伝えながら、その背中を追う。カットが切り替わると、診察室で精神科医との問診がはじまっている。

想田和弘監督の「観察映画」第二段である『精神』は、「観察」という語が想起させもする冷徹さとは無縁の距離感で被写体となるひとびとにキャメラを向けてゆく。前作の『選挙』(07)で対象とした自民党の新人議員「山さん」とはうってかわって、『精神』が映し出すのは岡山市にある外来の精神科診療所「こらーる岡山」につどうさまざまなひとびとである。

映画はいつも突然にはじまるものかもしれないが、『精神』は、たとえばわたしたちがふだん病院へかかるときのちょっとした手続きさえ経ることなく、突然診察室に入り込む。そしてそこが精神科であることを、すでにわたしたちは知っている。映画はしばしば「非日常的な体験」などと形容され、その「非日常」への移行はいくつかの段階を経てなされるものだが、『精神』はむしろ映画が帯びてしまう非日常の時間を、わたしたちの日常の時間と直截に接続しようとする。そこには一種の暴力がある。唐突に映し出される精神科医と女性の対話のなかで、あまりにつらい内容が語られるのを、フィルムは簡潔な切り替えしで描き続ける。わたしたちは画面を見つめることで、彼女の苦しみを追体験することを余儀なくされるのだ。

あるいはまた、「家にいると誰かの声が聞こえてくる」という別の女性に同行して、診療所に併設された簡素な宿泊施設を訪れたキャメラは、つかの間彼らだけの狭い空間で向かい合わせになる。固唾を呑むような緊張が醸成されてくるなかで、観察者はおもむろに対話をはじめる。自分の患っている症状について、過去について、キャメラに向かって語る女性の表情に接近しながら、観察者は「その声は誰の声なんですか?」などとあまりにダイレクトな質問を投げかける。どのことばが、どの視線が、彼女の神経をかき乱すか知れない。キャメラのこちら側から投げられた問いに対して、わたしたちが想像する以上に淡々と、気丈に語りを継ぐ女性のすがたに、フレームは刻一刻と緊張と安堵とがないまぜになってふるえている。観察者はキャメラという存在があることで、より直截的でシンプルな問いを投げかける、いわば「勇気」を持たされている。このとき映画は、「観察映画」として出発していながら、むしろ「行為」へとゆるやかに向かってゆくようにみえるのだ。

わたしたちがかつて『選挙』の120分に喝采を送ったのは、まず何よりもその徹底した観察のスタイルゆえに違いなかった。DVの実用化以降,主としてプライヴェート・ドキュメンタリーの領野で佳品が目立った日本のドキュメンタリーにあって、『選挙』はフレデリック・ワイズマンの一連の「ダイレクト・シネマ」を彷彿とさせた。ワイズマンが『チチカット・フォーリーズ』(67)以来まもりつづけてきたスタイルとは,ナレーションがなく、説明字幕がなく,インタビューも被写体からの応答もない、といういくつもの否定形で語られるスリムさに貫かれたものだが、『選挙』もまた同様のスタイルを採用するものである。ただしワイズマンのたとえば近作『州議会』(06)がアイダホの議会のようすを壮麗な議事堂建築とともに定点観測的に撮影し、分析的に編集することでアメリカの議会政治のいわば「無意識」をあぶり出したのに対し,『選挙』はあくまで「山さん」という個人の特権的な数週間を介して日本の議会制民主主義のありようを垣間見ようとするものだった。『精神』においても同様の手法をとろうとした作家は、けれどもたえずキャメラに視線を送り、対話を求めてくる「こらーる」のひとびとを撮影するにあたって、この方法は不可能だと判断したのだという(7/4上映後のティーチインでの発言より)。この方法論的転回を経ることで、『精神』はワイズマンよりもむしろ原一男のフィルムに接近してゆく。

原一男の「アクション・ドキュメンタリー」においては、ほかでもないキャメラを持った作家自身が被写体の世界へと介入してゆく。脳性麻痺患者を撮った処女作『さようならCP』(74)の、道路の中心に全裸のCP患者の男性を座らせて撮影した衝撃的なショットは、ほかでもない作家自身が彼と直截に向き合い、彼の生を、また彼とまともに向き合ってこなかった社会の意識を、暴き立てる。そこではふたつの個的な身体性がキャメラを介してむきだしにされているといってもよい。『精神』において、患者と向き合い声を発するほかなかった観察者は、もはや厳密な意味での観察者ではありえず、主体的身体を前提とした行為(アクション)によって被写体の世界とひとつながりになる個的な存在へとかわる。フレデリック・ワイズマンが、そして『選挙』の想田和弘が、いくつもの否定形の文体によって観察者自身の身体性を画面から消去するかのようにふるまっていたのとは、質的に異なる記録行為の位相がここにはある。ただし『精神』の観察者は、積極的な行為によって精神病という「カーテンの向こう側」の世界に踏む込んでゆくわけではない。話しかけられたら応答する、気になったことは聞いてみる、そうしたきわめて人間的なふるまいを素直に行なうことで、カーテンの内と外をごく自然に行き来し、ついには取り払ってしまうのだ。

『精神』における観察者と被写体との対話は、じつにゆたかなものだ。フィルムの後半に現れる、おちゃめで気さくな詩人の男性。このフィルムを見た誰もが「蚊に刺され、吾も食べたしカツカレー」という強烈な一句とともに、きっと彼に惹きつけられてしまうに違いない。あるいは、病いと40年間付き合ってきたという初老の男性の含蓄に富んだことばの数々。病いは彼らの身体を日々仮借なくさいなむが、病いを通してふれられる世界の手ざわりによって、明晰な思考と感性がみがかれてもいる。突然にはじまるこのフィルムの、ある種の暴力によって向き合わされた彼らの「世界」が、いまや隠しきれない共感とともにわたしたちの瞳に映じている。けれどもそのいっぽうで、最後のショットで夜のとばりに走り去って行くスクーターは、その共感が部分的なものであるほかないことを告げているようにもみえる。

だれもが自分の身体と無縁でいることはできない以上、彼らの生き方はそれぞれに病いや悩みを抱えたすべての人間の生き方でもあるだろう。このフィルムが大きな反響を呼び、多くのリピーターを生み出している事実(想田監督のブログによれば、すでに7回見たという「猛者」があらわれたとか)は、この映画そのものが、それぞれの身体や生についてゆるやかに内観をうながす、治療的な効果をもっているからかもしれない。映画『精神』は、精神病を撮ったものではなく、そのタイトルが簡潔に示しているとおり、あくまで人間の「精神」にキャメラを向けたフィルムであるのだ。

☆『精神』Mental
 想田和弘監督/2008年/アメリカ・日本/カラー/135分/デジタル上映
 現在渋谷シアター・イメージフォーラムにて上映中。ほか全国順次ロードショー。 
公式サイト: http://www.laboratoryx.us/mentaljp/

■萩野 亮(はぎの・りょう)
立教大学大学院現代心理学研究科修士課程在籍。映像身体学。先月末よりフィルムセンターではじまった「ドキュメンタリー作家 土本典昭展」のギャラリートークに駆けつけてきました。土本監督と基子夫人との最初の出会いが「カメラを買ってくれませんか」だったというお話に衝(笑)撃。
ブログ「filmemo」: http://rhgn.dtiblog.com/blog-date-20090713.html

Sunday, July 12, 2009

産經新聞に書評掲載

本日(7/12)の産經新聞に拙著『精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける』(中央法規)の書評が掲載されました。

「偏見を持ち込まず色眼鏡をかけず、ありのままを映し出す観察映画の視点から日本の精神医療の現場に斬(き)り込んだルポルタージュの秀作だ。」(書評より)

ウェッブでも読めます。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090712/acd0907120811003-n1.htm

以下、全文掲載します。

■観察映画の視点から斬る
 異色の映像クリエーターが異色のルポルタージュに挑んだ。著者の想田はドキュメンタリー監督。と言っても“普通”のノンフィクションは撮らない。ナレーションもテロップもBGMも一切使わず、ありのままの映像を一本の作品に編集する“観察映画”という新ジャンルを開拓した。
 この手法で岡山市にある精神科診療所の患者や医師らを撮影した観察映画「精神」が公開され話題を集めている。この本ではもともと、劇映画の監督志望だった想田が、なぜノンフィクション、それも観察映画という特殊なジャンルに進むに至ったか、また、なぜ精神障害をテーマに撮ろうと決意したのかが赤裸々に綴(つづ)られる。個人的な人生経験や監督として被写体にアプローチする過程で得た体験から「精神病とは何か、人間の正気と狂気の間とは何か」を分析、浮き彫りにしていく。
 「健常者と精神障害者を隔てる見えないカーテン」に興味を持つことで、想田は観察映画にのめり込む。
 自身、これまでに2度、精神的に追い込まれ、「カーテンの向こう」を見かけたと明かす。1度目は東大に合格後、医者から「燃え尽き症候群」と診断されたとき。2度目はプロの映像作家として、あるテレビドキュメンタリーの編集作業をしていたとき。
 1度目のとき、自分から精神科に診療に行った想田を知人はこう笑った。「精神科は自分から行く所ではない。誰かに強制的に連れて行かれる所だろう」と。なぜ? 歯が痛めば歯医者へ行く。社会が精神障害を普通の病気と認めない現実に疑問を持った。2度目はテレビ番組の制作を請け負い、東京で2カ月間、昼夜逆転の労働が続いたとき。連日、プロデューサーに大声で罵倒(ばとう)される理不尽な現場で精神を病みかけた。このとき、想田は「過労死」や「ひきこもり」が多い日本は文化全体が精神的に病んでいるのではないかと疑問を持つ。そして「精神」を撮る決意を固めた。
 偏見を持ち込まず色眼鏡をかけず、ありのままを映し出す観察映画の視点から日本の精神医療の現場に斬(き)り込んだルポルタージュの秀作だ。(中央法規出版・1470円)
 評・戸津井康之(文化部)

Wednesday, July 01, 2009

「宇多丸X想田」ポッドキャスト

TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の「宇多丸x想田」観察ラジオ対談が、ポッドキャストにアップされました。

出ている僕が言うのもなんだけど、めっちゃオモロいです。俺、マジで本気でしゃべってるわ〜。

いや、僕はいつだって(少数の例外を除けば)本気なんだけど、今回は完全に宇多丸さんに乗せられて、違うところに行っちゃってる。恐るべし、宇多丸師匠。そして、こんな番組を敢えて流すTBSラジオって…(笑)。スタッフも凄い!世の中、捨てたもんじゃない!無性に嬉しくなりました。

http://www.tbsradio.jp/utamaru/2009/07/post_474.html

Sunday, June 14, 2009

The Japan Times


The Japan Times6月12日号にも、『精神』の大きな記事が載りました。
ウェッブでも読めます。

The Japan Times (June 12th Issue) ran a big article on MENTAL. It can be read on the web, too.

http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/ff20090612a1.html
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/ff20090612i1.html

From despair to somewhere
Kazuhiro Soda's latest film is a fascinating insight into a Japanese mental-health clinic

By MARK SCHILLING

Seishin Rating: (3.5 out of 5)

Director: Kazuhiro Soda
Running time: 135 minutes
Language: Japanese
Opens June 13, 2009

In the United States, doctors prescribe psychotropic drugs as commonly as cold tablets and memorists detail their breakdowns and addictions in best-selling books. In Japan, however, the mentally ill often try to hide their condition from employers, family and friends, while seeking treatment only as a last resort.

They fear, rightly in many cases, the stigma of being labeled "weak," "strange" or "crazy" in a conformist society with a culture of shame. Suicide starts to look like the only, tacitly approved, way out.

Soda, a New York-based documentary filmmaker who has screened "Seishin" at film festivals in Busan, Berlin and elsewhere, picking up several prizes along the way, opens a rare window into their lives, but less as an impassioned advocate than as a fly-on-the-wall observer.

In condensing hundreds of hours of footage shot at a mental-health clinic in Okayama in 2005 and 2007, Soda added no editorializing titles, narration or music. He also let his subjects, as much as possible, speak for themselves, minus the digital masking considered de rigeur for television interviews.

One problem with this minimalistic approach is that we have to piece together even basic information from on-the-fly comments, rather than answers to specific questions. The mysteries of how, when and why Dr. Masatomo Yamamoto, the elderly psychiatrist who is the film's hero, came to run his clinic, which many of his patients regard as a second home, are never quite explained.

Also, Soda's camera can be ruthless in exposing the vulnerabilities, character flaws and even crimes of his subjects. In one chilling scene, a schizophrenic woman confesses to killing her baby in a black fit of frustration — and one wonders at the consequences for her, both social and legal.

But this dedication to showing the bad as well as the good creates more trust between the filmmaker and audience than propagandizing, which can present the mentally ill as saintly victims. True, Soda could have told his story more concisely — his 135-minute film is at least half an hour too long — but by the end I knew his subjects and their world in the raw and in the round, as though I'd spent a few weeks hanging around the clinic.

"Seishin" 's central figure is Yamamoto, now 73, who started the Chorale Okayama clinic in 1997 as a sort of postretirement project. He has since added a milk-delivery and restaurant business, staffed by patients, as well as opening a shelter where patients can stay temporarily. His aim, with the support of a dedicated staff, has been to create a community where the mentally ill can develop the self confidence, survival skills and human connections they need to ease their transition into the larger society.

In his dealing with patients, Yamamoto initially comes across more as the crusty neighborhood sensei (teacher) than the crusading reformer: Doctor-patient conversations are short and drugs are doled out by the fistful. But Yamamoto's methods, such as his habit of tossing his patients' questions back in their faces ("What do think you should you do?") and drawing little diagrams to illustrate his points (a straight line for the stages of life in the West and a circle for the East), have a Zen-like wisdom.

He has not, however, created a happy little utopia — many of his patients are suicidal, socially isolated and living on public assistance. One middle-aged woman tells how, the night before, she ended up in the hospital after overdosing on her medications. She shows her wrists, crisscrossed with scars. Her face tear-strained, she speaks of wanting to die. Several other patients confess to similar thoughts, and after filming was completed, two carried fatally through.

Yamamoto is also no miracle worker, restoring patients to health with a pithy word or two. One, a heavy-set, quick-witted raconteur whose monologues are punctuated by punning gags and party tricks, tells how he had his first breakdown as a high-school student prepping 18 hours a day for his college entrance exams. Instead of answering the questions on his semester tests, he assigned ratings to his teachers, grading them on a scale of 1 to 100. After being tagged as "strange" for this incident, he was referred to Dr. Yamamoto, and has been seeing him for 25 years.

"He's like a god to me," he says. But God can't erase that long-ago trauma or restore the lost time.

What Yamamoto and his staff do provide, though, is a vital lifeline that gives patients the support they need to recover — or simply make it through the day.

But, now, as Soda also shows, the patients are faced with government-mandated cutbacks in services and hikes in payments. They hold meetings and voice their objections, but compared with other, better funded and connected constituencies, they are all but powerless.

"Seishin," which Image Forum theater in Shibuya will screen in an English-subtitled print daily at 6 p.m., and which will later open around the country, ought to be seen by, not only Diet members voting on health-care legislation, but anyone interested in how minds can become sick — and be cured. As Soda so eloquently shows, the mentally ill aren't marginal "others," but like people we see around us every day at work and at home. Even in the mirror.

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FILM INTERVIEW
Soda takes a pop at taboos

By MIZUHO AOKI
Staff writer

Kazuhiro Soda made his name with his first documentary film "Campaign," which follows the director's former classmate Kazuhiko Yamauchi as he campaigns for a city-council seat in Kawasaki, Kanagawa Prefecture. The film was screened at the Berlin Film Festival in 2007, broadcast on TV in around 200 countries and last month, in May, won the prestigious Peabody Award, which is often referred to as the Pulitzer Prize for radio and broadcasting.

His second feature documentary, "Seishin" ("Mental"), breaks a taboo and opens — as the director puts it — "an invisible curtain" between the so-called "healthy" and "the ill."

The day after he finished filming "Campaign," Soda stepped inside Chorale Okayama, an outpatient mental clinic in Okayama Prefecture, to see the world inside the curtain.

"I went to the clinic as an outsider, met many people, heard many stories and left the place. Then I reconstructed my experience into this film the way audiences can relive the time I had there, as if they visited the clinic themselves" says Soda in an interview with The Japan Times.

The Japan-born N.Y.-based director didn't do any research on the subject beforehand. "That's my policy. I tried to observe the reality as it is, with an open mind," he explains. "I went there with my camera ready to roll, asking each person I met for permission to film them."

The process, however, was not easy. The director notes, "eight or nine people out of 10 said no. But luckily, one or two said yes."

All the people who agreed to be in the film expose themselves with surprising candor. They talk frankly about their personal histories and the reason why they are at the clinic; and some of the stories are shocking.

Soda, who just turned 39, reveals, "There were some scenes that I couldn't make up my mind easily about whether I should use them or not." Among them is a scene where a woman reveals her heart-wrenching past and how she ended up killing her baby.

After long and deep consideration, Soda included the scene. The story could not be excluded from the film if the woman was to be portrayed accurately.

However, when the woman found out that the scene was in the film at a special screening held for the patients and the clinic's staff, she got distracted and said that she can no longer walk down the streets. "Though I expected she may react the way she did, I was stunned. But then one of the patients raised her hand and said, 'I've known you for a long time, but I never knew your real pain, and I'm glad that I learned it now. I also raised kids myself so I know how difficult it can be.' Then many spoke up" recalls the filmmaker, continuing, "The woman finally said she's glad that she's in the film, saying, 'For the past 15 years, I thought if I tell the story, everyone will be my enemy. Just to know that there are some people who understand me is enough for me.' "

Still, Soda is anxious as to whether she can remain like that after the film is released in Japan.

"She is vulnerable; a little thing can hurt her" worries Soda, adding, "I'm aware that there could be some kind of attack from society. If something happens I'll have to overcome the problem together with her."

After he completed the film, Soda finally had time to sit with the clinic's hero, Dr. Yamamoto.

"I wanted to ask him so many things during the shooting, but I restrained myself from doing that. I knew, if I asked, the film would be about Dr. Yamamoto — the great doctor and his patients who beg him for help — and I didn't want to depict such a cliched picture" explains Soda.

"Dr. Yamamoto told me that the root of mental illness is that the sufferers are lonely and that to be fully cured they need to connect to another person. No matter how advanced the medicine is, in order to recover fully, they need to know that they are not isolated" says Soda. "I believe that one of the reasons why Dr. Yamamoto uses such an old-fashioned Japanese house as his clinic is to make it a most relaxing environment with tatami mats etc. — a place for them to meet others, become friends and make a community."

Monday, June 01, 2009

「ドキュメンタリー映画の最前線」メルマガに掲載

ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン neoneo 125号(2009.6.1)に、拙文「自作を語る 観察映画『精神』について」が掲載されました。ご一読ください。

ちなみに、ドキュメンタリー好きのみなさん、このメルマガは必読です!

http://www.melma.com/backnumber_98339_4497665/

以下、全文掲載。

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┃02┃□自作を語る
┃ ┃■観察映画『精神』について
┃ ┃■想田 和弘
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岡山市にある精神科診療所「こらーる岡山」で繰り広げられる複雑な世界を描いた拙作『精神』(観察映画第2弾)が、6月13日(土)から東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほか、全国で順次劇場公開される。

前作『選挙』(観察映画第1段)に続き、なぜ僕は自分のドキュメンタリー映画を「観察映画」と呼ぶのか。それには、二重の意味を込めている。一つは、作り手(=僕)による観察。できるだけ先入観を排し、目の前の世界を虚心坦懐に観察して、その結果を映画にする。もう一つは、観客による観察。観客それぞれが映画の中で起きることを主体的に観察し、感じ、解釈できるよう、作品に多義性を残す。そのために、僕は次のような方法論を実践している。

第一に、事前のリサーチや打ち合わせをしない。例えば、『精神』を撮るに当たって、精神疾患について予め勉強しなかった。事前に病気の知識を仕入れてしまうと、その特徴に合うことばかりにカメラを向け、それ以外の側面を見落としかねないからである。対象に関する知識は、往々にして先入観や固定概念となって、現実を「す」の状態で観察することを妨げる。

第二に、構成表やシノプシス等を書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。

第三に、少人数で撮る。基本的には、僕がカメラマンと録音を兼ねる。

第四に、ナレーション、説明テロップ、音楽を放棄する。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう。

第五に、編集作業に時間をかける。予め設定したテーマに合わせて画を切っていくのではなく、撮れた映像素材が語りかけるものに耳を傾け、観察し、その過程で発見した視点を作品として結実させていく。

第六に、観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。

最後に、制作費は自分で出す。もしくは、作品の独立性が保たれ得るような資金を利用する。

これらの方法論から、観察映画がプロパガンダ的な政治主義やテーマ主義を否定するものであることは、明らかであろう。もっと言えば、作品にメッセージは込めない。『精神』でいえば、「精神障害者の地域での生活を支援しよう」とか、逆に「病院に隔離すべき」とか、一切主張することはない。観察映画は、世界を作者の視点で描写することに徹するのであり、映像や音声を「言いたいこと=メッセージ」に従属させないのである。

また、観察映画は客観主義にも組しない。それは、観察の主体=制作者がカメラを通して観たり体験したことを綴る主観的な表現方法である。例えば、客観主義の作品が「東京の人口はX万人」と三人称的に記述するところを、観察映画は「東京に行ったら大勢の人がいた」という具合に一人称で描く。そもそも、僕は客観的なドキュメンタリーなど、原理的に存在し得ないと考えている。

以上のような方針と方法論に加え、『精神』では、人の顔にモザイクをかけないというポリシーを貫いた。そのため、撮影許可を得る作業は難航し、声をかけた10人のうち8、9人には撮影を断られた。

しかし、モザイクをかけると、精神病患者への偏見や固定概念を助長しかねず、先入観を取り外して「よく観る」ことを本義とする観察映画の精神に反する。また、モザイクは「被写体のプライバシーを守る」という大義名分のもとに使われるが、実は作り手や興行側を訴訟やクレームから守るために使われている。結局それは、被写体や観客に対する責任放棄であり、表現を堕落させる。加えて、モザイクで顔を覆うと、被写体の表情を観察することが不可能になり、観察映画になり得ない。だからこの点には最後までこだわった。

総じて、『精神』では、世間と精神科の世界の境界にかけられた見えざるカーテンを、カメラの力で取り払い、じっくりと観察する映画になったと思う。その開け放たれた世界をどう観るのか。それは、観客ひとりひとりにゆだねようと思う。

☆『精神』(2008年、135分、米国/日本)
監督・撮影・録音・編集・製作:想田和弘 製作補佐:柏木規与子 出演:こらーる岡山の皆さん、ほか。配給・宣伝:アステア。6月13日からシアター・イメージフォーラム等全国順次公開。受賞歴:釜山国際映画祭・最優秀ドキュメンタリー賞/ドバイ国際映画祭・最優秀ドキュメンタリー賞/マイアミ国際映画祭・審査員特別賞/香港国際映画祭・優秀ドキュメンタリー賞/ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭・宗教を超えた審査員賞
公式サイト: http://www.laboratoryx.us/mentaljp/

☆6月13日よりシアター・イメージフォーラム(東京)での上映を
皮切りに、各地で順次公開します。詳細は上記のサイトをご覧ください。

■想田 和弘(そうだ・かずひろ):映画作家。1970年栃木県足利市生まれ。ニューヨーク在住。『選挙』(07年)は7月4日から復活ロードショー。『精神』(08年)は釜山国際映画祭等で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞。09年、初の著書『精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける』(中央法規出版)を刊行。