渡邊直樹さん編集の『宗教と現代がわかる本 2010』(平凡社)に僕のインタビューが載っています。宗教をキーワードに現代を読み解こうとする企画。「宗教と映像メディア」が今回のテーマだということで、まだパラパラとページをめくっただけですが、非常に読み応えがありそうです。
http://heibonshatoday.blogspot.com/2010/03/2010.html
以下、僕のインタビューのほんの一部の抜粋です。
想田和弘インタビュー
聞き手 渡邊直樹
渡邊 想田監督がお撮りになった映画『精神』を拝見しました。患者さんによりそって監督が見つめている時間がずっと流れている。そういう映画って、えてして観ているほうは飽きたりすることがあるんですが、まったく飽きることがなかったです。というのは、「患者さん」という匿名の存在ではなく、一人ひとりの患者さんの名前と人格が菅野さん、藤原さん、美咲さん……。しっかり立っている。それから彼らの話に徹底してつきあう山本先生。そしてそれを想田さんが徹底して見続けている。観ているほうは、患者さんたちがまったくの他者ではない、自分の中にも共感できる部分があることを発見するし、とても濃密な時間を体験させていただきました。
想田 ありがとうございます。一つには、ぼくがカメラを向けることによって、いわゆる健常者と彼らを隔てているカーテンが取り除けるんじゃないかという気持ちが、この映画を撮る中心にあったんです。カーテンというのはつまり、彼らはいままでずっと隠蔽され、隔離されてきていますよね。精神病院の閉鎖病棟に隔離され、あるいはメディアに登場する場合にはモザイクをかけられる。要するに患者さんたちは顔の見えない存在として遠ざけられ、タブー視され、いわゆる一般社会の中では存在すら認められていなかった。それこそ本当に顔が見えないわけだから、モザイクを取り払って顔が見える状態にするというだけで、ぜんぜん違うんじゃないかっていう気がしたんです。つまり人間として描かせてもらうということですね。英語だと「put human faces」というんですけれど、それまで記号でしかなかった存在に、具体的な人間としての顔を持ってもらう。もちろんもともと持っているんだけれども、持っていないかのようにずっとまわりが扱っていたから、そういうふうに扱うことをやめるというだけの話なんですけれど。
渡邊 でも、想田監督ご自身も、カメラがなかったら、ああいうふうに飛び込んでいけなかったのではないですか。
想田 そう、もちろんカメラあっての話です。そこがすごく重要で、撮られている人も、カメラがあるということを前提に振る舞います。映画を観た方から、「これは外向きの顔なんじゃないか」、「本当はもっと辻褄の合わないことを言ったり叫んだり、もっとさらけ出すものなんじゃないのか」というようなことをよく言われます。たしかにそうなのかもしれません。たとえば家族に見せる顔とぼくに見せる顔は絶対違うはずですから。誰と一緒にいるのかによって違う顔が出てくる。それは必ずしも嘘ということではなくて、自然なことですよね。我々は多面的な存在であり、そのときの状況や相対している人によって、自分の持っている多面的な部分からその都度違う側面を出していく。それはその人の一側面でしかない。だから、今回もカメラを持ってお邪魔した人間に対して表わしてこられた表情を映画にさせてもらったということだと思っているんです。
宗教とメディアですか!
ReplyDeleteまだまだ日本ではタブーですね。
ですがそろそろタブーではなくなって
きてますね。
「Tokyo Vice」のジャーナリスト・ジェイク・エーデルスタインは伊丹十三氏の「自殺」についてここまで断言しています。
http://cpj.org/blog/2010/02/erase-it-or-be-erased-life-on-a-japanese-mafia-hit.php
私も「自殺」とワープロの「遺書」おかしいと思っていました。
タブーなんですか。僕は宗教学を専攻していたので、そういう感覚からは遠いです。
ReplyDelete初めまして、いつもブログ拝見しています。
ReplyDelete「精神」も、観させていただきました。
具体的な人間として登場することで、患者さんたちは公共的な「顔」を得ているのだろうなあと思いました。
だからそれはたとえ外向きの顔でも、捏造された顔ではなくて、真実なのだと思います。
これからも、鑑賞者として応援させていただきます。
トークショーも面白かったです。
頑張ってください。
saoriさん
ReplyDeleteありがとうございます。
公共的な「顔」というご指摘、非常に的を得た表現ですね。