参院選、一部に光明も見られるが、全体的には1930年代ドイツを連想する流れに日本は進んでいるように感じ戦慄が走る。ただし、現代日本のそれは熱狂を伴わない、しらけムードの、無関心・無気力なファシズムである。だから危機感の温度も低い。しかしこれはかなり危機的状況である。
自民党の改憲案は発表されてから1年以上になる。その民主主義を否定する内容を「知らない」では済まされない。だけど大半の国民は知らない。人々が無関心・無気力なまま、ずるずるとファシズムの台頭に手を貸し参加していく。世界史に恐らくそんな例がないだけに、人々の危機意識も高まりにくい。
たしかにマスメディアは酷い。大事なことを伝えない。しかし、情報がないわけではない。自分から取りに行こうと思えば、ネットだろうと、書籍だろうと、講演会だろうと、いくらでも情報源はある。でも大半の主権者は無関心・無気力であり、それを取りにいかない。だからこその選挙結果である。
タル・ベーラ監督『ニーチェの馬』という人類の終末を描いた映画がある。人間が無気力になってずるずると滅んでいくさまを描いている。それがやけにリアルなのだ。実は『選挙2』の編集しながら、あの映画のことを思い出していた。今回の選挙結果も、あの映画を連想させる。その連想に凍りつく。
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Latest documentary "Oyster Factory" has been officially invited to Locarno International Film Festival 2015! 最新作『牡蠣工場』がロカルノ国際映画祭へ正式招待されました!
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Monday, July 22, 2013
Tuesday, June 18, 2013
日本の不思議な選挙制度ベスト3
日本の不思議な選挙制度ベスト1は、選挙ポスター。あれ、みんな当たり前のように受け入れてる、税金も支出された公職選挙法上の制度ですけど、よく考えると不思議です。ポスターは候補者についての重要な情報を何も伝えない。顔写真と名前とスローガンを見比べて、どう選べっていうんでしょうか。
日本の不思議な選挙制度ベスト2は、選挙カー。これも同じ理由で摩訶不思議。名前の連呼をする選挙カーが、どう、投票先を選ぶことの助けになるんでしょうか。あのガソリン代には公費が使われてます。公職選挙で基礎付けられた正式な制度です。なんであんなものがあるの?
日本の不思議な選挙制度ベスト3は、世界一高い供託金。もしかするとこれが一番重要。比例では600万、選挙区で300万もの供託金が義務づけられてますが、これでは金持ちしか立候補できず、事実上の制限選挙です。憲法44条に反しているとの指摘もあります。アメリカやドイツやフランスやイギリスではゼロ。
最近、一票の格差など選挙権の公平さの問題は論じ始められたけど、被選挙権の問題は全然議論されない。これはおかしい。日本の供託金制度が導入されたのは1925年。男子普通選挙が導入されたのと同時。治安維持法も同じ年。それが戦後もずーっと続いてるんですね。既成政党に断然有利な制度。
選挙制度は、その制度で勝った人たちが設計するので、変わりにくい。だって、自分たちが勝ったゲームの規則を変えてしまったら、今度は負けるかもしれない。だから非民主的で不条理な制度が永遠に変わらない。供託金の件は、違憲訴訟を起こして司法の側から圧力をかける手がありますが。
Monday, June 17, 2013
「おまかせ民主主義」の正体は「消費者民主主義」である。
今日は毎日新聞から参院選について取材を受けた。「低投票率が予想されるがなぜか」と聞かれたので、政治家は政治サービスの提供者で、有権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も有権者も誤ってイメージしていることが原因ではないか、と答えた。
有権者が自らを政治サービスの消費者としてイメージすると、「つまらぬものは買わぬ」という態度になる。低投票率は「買いたい物がないから投票しないのは当然」という態度なのではないか、と。これ、内田先生が教育現場について仰ってることの応用です。でも有権者は消費者ではないですよ、断じて。
国王に主権(=判断し、決断し、責任を取る権限)があったのを、民衆一人ひとりに主権を移すことで近代の民主主義は始まった。つまり民主主義では、民衆=主権者とは国王の代わりに政治を行う主体だ。政治サービスの消費者ではない。消費者には責任は伴わないが、主権者には責任が伴う。
この点が、消費者と主権者では決定的に異なるはずだ。ところが消費資本主義的価値観が蔓延する中、ゆっくりと誤解が定着した。政治家も主権者も、消費モデルで政治をイメージするようになってしまった。だから政治家は国民をお客様扱いする。同時に、軽蔑している。単なる消費者だと思ってるから。
だから政治サービスを買ってもらうには、売れそうな刺激的な商品を分かり易く並べ、誇大広告も辞さない。政治家の政策がマーケティングめいているのも当然なのだ。一方の消費者化した有権者も、政策や問題を自分の力で吟味しようとはしない。それは売る側の責任だと思ってるから。
首相をコロコロ変えたりするのも、「頻繁にモデルチェンジすれば売れるのではないか」というのと同じ発想だ。だが繰り返しになるが、民主主義を消費モデルでイメージすることは、重大な過ちだ。ここで壮大なボタンの掛け違いをしているから、民主主義の空洞化ないし劣化が進んでいるようにみえる。
最近「おまかせ民主主義」という言葉が定着してきたが、その正体は、ずばり「消費者民主主義」なのだと思う。消費者はサービスを消費するだけ。つまりお任せ。不具合があれば文句言うだけ。何も生み出さない。税金と票という対価を払う以外、貢献しない。いや、気に入らなければ票さえ投じない。
民主主義の原点は、「みんなのことは、みんなで議論し主張や利害をすりあわせ、みんなで決めよう」であったはずだ。しかし主権者が消費者化してしまうと、そんな発想からは遠くなる。消費者の態度は、「お客様を煩わさないで。面倒だから誰かが決めてよ、気にいったら買ってやるから」になる。
(ツイートをまとめました)
有権者が自らを政治サービスの消費者としてイメージすると、「つまらぬものは買わぬ」という態度になる。低投票率は「買いたい物がないから投票しないのは当然」という態度なのではないか、と。これ、内田先生が教育現場について仰ってることの応用です。でも有権者は消費者ではないですよ、断じて。
国王に主権(=判断し、決断し、責任を取る権限)があったのを、民衆一人ひとりに主権を移すことで近代の民主主義は始まった。つまり民主主義では、民衆=主権者とは国王の代わりに政治を行う主体だ。政治サービスの消費者ではない。消費者には責任は伴わないが、主権者には責任が伴う。
この点が、消費者と主権者では決定的に異なるはずだ。ところが消費資本主義的価値観が蔓延する中、ゆっくりと誤解が定着した。政治家も主権者も、消費モデルで政治をイメージするようになってしまった。だから政治家は国民をお客様扱いする。同時に、軽蔑している。単なる消費者だと思ってるから。
だから政治サービスを買ってもらうには、売れそうな刺激的な商品を分かり易く並べ、誇大広告も辞さない。政治家の政策がマーケティングめいているのも当然なのだ。一方の消費者化した有権者も、政策や問題を自分の力で吟味しようとはしない。それは売る側の責任だと思ってるから。
首相をコロコロ変えたりするのも、「頻繁にモデルチェンジすれば売れるのではないか」というのと同じ発想だ。だが繰り返しになるが、民主主義を消費モデルでイメージすることは、重大な過ちだ。ここで壮大なボタンの掛け違いをしているから、民主主義の空洞化ないし劣化が進んでいるようにみえる。
最近「おまかせ民主主義」という言葉が定着してきたが、その正体は、ずばり「消費者民主主義」なのだと思う。消費者はサービスを消費するだけ。つまりお任せ。不具合があれば文句言うだけ。何も生み出さない。税金と票という対価を払う以外、貢献しない。いや、気に入らなければ票さえ投じない。
民主主義の原点は、「みんなのことは、みんなで議論し主張や利害をすりあわせ、みんなで決めよう」であったはずだ。しかし主権者が消費者化してしまうと、そんな発想からは遠くなる。消費者の態度は、「お客様を煩わさないで。面倒だから誰かが決めてよ、気にいったら買ってやるから」になる。
(ツイートをまとめました)
Saturday, June 15, 2013
選挙前の『選挙』『選挙2』の使い方
新宿で「憲法!崖っぷち!ひみつ作戦会議」に参戦。参加者の危機感の強さからか、「選挙前に何をすべきか」と度々問われ、いろいろ答えたが、一つ重要な「できること」を忘れてた。
拙作『選挙』や『選挙2』を友人や家族と見ることだ笑。手前味噌で恐縮だが、選挙や日本社会について考えるには実は良い材料だと思う。
『選挙』や『選挙2』含め、僕は政治的な目標のために映画を作っていない。映画は映画だ。だから今日も「何ができるか」と問われたとき「映画を観よ」と言えなかったのだと思う。だけど社会運動的な観点から観れば、結構「使える」と思う。ニッポンの民主主義について見つめ直す機会になるから。
『選挙』や『選挙2』を友人や家族と観たら、帰り道に語り合っていただけると嬉しい。何らかの発見や気づきがあるのではないかと思う。映画館での上映が予定されていない地域では、自主上映会と感想を語り合う会を開くのも面白いと思う。自主上映の方法→http://senkyo2.com/
ということで、みなさんお誘い合わせの上、『選挙』『選挙2』をご覧下さい笑。
渋谷のイメージフォーラムでは、『選挙』は6/29から一週間、朝だけ上映(他に各地で自主上映会も続々企画)。
『選挙2』は7/6から連日3回上映。大阪、大分、沖縄、神戸、名古屋、金沢、富山、広島、尾道、愛媛、福岡、京都、横浜、岡山などでも同時・順次公開されます。
拙作『選挙』や『選挙2』を友人や家族と見ることだ笑。手前味噌で恐縮だが、選挙や日本社会について考えるには実は良い材料だと思う。
『選挙』や『選挙2』含め、僕は政治的な目標のために映画を作っていない。映画は映画だ。だから今日も「何ができるか」と問われたとき「映画を観よ」と言えなかったのだと思う。だけど社会運動的な観点から観れば、結構「使える」と思う。ニッポンの民主主義について見つめ直す機会になるから。
『選挙』や『選挙2』を友人や家族と観たら、帰り道に語り合っていただけると嬉しい。何らかの発見や気づきがあるのではないかと思う。映画館での上映が予定されていない地域では、自主上映会と感想を語り合う会を開くのも面白いと思う。自主上映の方法→http://senkyo2.com/
ということで、みなさんお誘い合わせの上、『選挙』『選挙2』をご覧下さい笑。
渋谷のイメージフォーラムでは、『選挙』は6/29から一週間、朝だけ上映(他に各地で自主上映会も続々企画)。
『選挙2』は7/6から連日3回上映。大阪、大分、沖縄、神戸、名古屋、金沢、富山、広島、尾道、愛媛、福岡、京都、横浜、岡山などでも同時・順次公開されます。
Monday, April 15, 2013
橋下徹の96条改定論の欺瞞
橋下徹が96条改定についてトンチンカンな連投ツイート。「絶対に憲法改正が不可能な96条」というが、嘘を言ってはいけない。両院の2/3以上での発議と国民投票の過半数で憲法は改定できる。改定できないのは、そこまでの国民的な合意がないから。「国民の判断を信じる」というなら正々堂々と合意を作ればよい。
橋下は「96条改正は憲法観の問題ではない」とも言うが、詭弁を使ってはいけない。96条の改正要件が厳しいのは、「憲法とは権力を縛るもの」という立憲主義的憲法観を具現化するため。このハードルを緩くすることは立憲主義を弱める行為。つまり96条は「憲法とは何か」という憲法観そのものの問題。
96条で改正要件が厳しく設定されてるのは、橋下みたいな権力者が現れて好き放題に憲法を変えられたら民主主義が終了してしまうから。つまり96条は権力暴走を防ぐ安全装置。それを橋下が解除しようというのは、実は自然な話だ。彼は暴走したい人間なので。
橋下の詭弁に騙されて96条の改正要件のハードルを下げたらどうなるか。橋下が大阪で条例を好き勝手に変えるように、権力者が自分らの都合の悪い事情に出くわすたびに改憲発議をするようになる。1/2なら普通の法律改正と同じだから改憲発議は頻発する。そのたびに国民投票することになる。
そしてそのたびに、憲法の条文は改定の危機に晒される。これでは立憲主義は危うくなる。そうした事態を防ぐためにこそ、96条の改正要件は厳しく設定されているのだ。そういう筋論や理念を全部無視して、単なる形式論に貶めようとするのは橋下徹のいつもの手口。
絶対に騙されてはならない。
(ツイートをまとめました)
橋下は「96条改正は憲法観の問題ではない」とも言うが、詭弁を使ってはいけない。96条の改正要件が厳しいのは、「憲法とは権力を縛るもの」という立憲主義的憲法観を具現化するため。このハードルを緩くすることは立憲主義を弱める行為。つまり96条は「憲法とは何か」という憲法観そのものの問題。
96条で改正要件が厳しく設定されてるのは、橋下みたいな権力者が現れて好き放題に憲法を変えられたら民主主義が終了してしまうから。つまり96条は権力暴走を防ぐ安全装置。それを橋下が解除しようというのは、実は自然な話だ。彼は暴走したい人間なので。
橋下の詭弁に騙されて96条の改正要件のハードルを下げたらどうなるか。橋下が大阪で条例を好き勝手に変えるように、権力者が自分らの都合の悪い事情に出くわすたびに改憲発議をするようになる。1/2なら普通の法律改正と同じだから改憲発議は頻発する。そのたびに国民投票することになる。
そしてそのたびに、憲法の条文は改定の危機に晒される。これでは立憲主義は危うくなる。そうした事態を防ぐためにこそ、96条の改正要件は厳しく設定されているのだ。そういう筋論や理念を全部無視して、単なる形式論に貶めようとするのは橋下徹のいつもの手口。
絶対に騙されてはならない。
(ツイートをまとめました)
Wednesday, April 03, 2013
言葉が「支配」するもの 橋下支持の「謎」を追う
数日前、橋下徹大阪市長率いる日本維新の会が、綱領を発表した。その「基本となる考え方」の第1番目には、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」とある。この夏の参院選では、改憲勢力として自民と合わせ参議院の3分の2を獲ることを目標としているという。
橋下氏の人気には一時の勢いはないと言われているものの、日本維新の会が日本の政治のキャスティングボードを握る可能性はある。僕はそのことに危惧を抱いている。
岩波書店『世界』の編集部から許可を得て、去年の7月号に寄稿した拙稿の全文を掲載する。
ーーー
想田和弘(映画作家)
『世界』編集部から、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」というお題をいただき、原稿の依頼を受けました。
僕は大阪出身でもなければ、府民でもありません。日本に住んでさえいません。1993年からニューヨークに住み、あまり売れているとはいえないドキュメンタリー映画ばかりを細々と作っています。仕事上でも、橋下氏を直接取材したこともなければ、お会いしたこともありません。ある意味、「橋下問題」とはかなり遠いところにいる人間です。
そんな僕にそういう依頼がきたのは、僕がここ数か月、「橋下問題」を気にかけ、ウォッチし、毎日のようにツイッター上で橋下氏の発言や行動を分析したり、批判したりしているからでしょう。そして、橋下氏を支持する人々や、批判する人々と、かなり盛んに意見交換しているからではないかと思います。
でも、正直申し上げて、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」という疑問に対する明確な答えを、僕は持っていません。その最大の理由は、明白です。僕が橋下徹氏に政治家として可能性や魅力を感じないばかりか、危険だとさえ思っているので、支持する人の気持ちが分からないのです。
もちろん、橋下人気の背景に、既成政党の無能・無策ぶりや、行き詰まった経済や福祉制度、原発政策などに対する、人々の鬱積した不満や怒りがあるのは明白でしょう。現状があまりに酷過ぎて、誰かを救世主に仕立てたくなる気持ちも分からないではありません。しかし、威勢はよいけど強権的で大した実績もなく、遵法意識が低く、発言内容がコロコロ変わり、ビジョンも稚拙といわざるをえない橋下氏を、なぜ救い主であると信じられるのか。僕は理解に苦しむのです。
では、橋下氏を支持する人に聞けば、それが明解になるのでしょうか。僕は、橋下氏を支持する人々とネットを中心にずいぶんやり取りし、彼らの発言をかなりたくさん読み込んできました。しかし、今のところ残念ながら、腑に落ちる、共感できるような見解には出会えていません。むしろ、読めば読むほど、議論すればするほど、謎は深まるばかりなのです。
とはいえ、そうした作業を進めるうちに、橋下氏を支持する言説に、ひとつの気になる傾向があることに気づきました。そしてその傾向には、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」というお題について考えるための、重要な糸口があるような気がしてならないのです。
その、ひとつの「気になる傾向」とは何か。
それは、多くの橋下支持者は、橋下氏が使う言葉を九官鳥のようにそっくりそのまま使用するということです。例えば、今年2月に起きた大阪市職員に対する「強制アンケート調査」の一件では、アンケート調査の当事者である大阪市役所労働組合のブログに、以下のような書き込みが寄せられていました。
「普通は社長に反抗すればクビ。大阪市の社長は市民が決めた橋下さん。市長や知事を決めたのは大阪府民、大阪市民です。あなたたちの給料は市民からでてます。大阪市民が橋下さんに全て託したんやから橋下さんに従いなさいよ」
「業務命令というなら従いましょう。嫌なら辞めましょう」
「市長が調査に乗り出すと憲法違反を持ち出して公然と批判。調査の原因である自分達がこれまで勤務時間内にやってきたことは完全に棚上げ。既得権益ってこうやって守るんですよというお手本みたいな行動ですね。勉強になります」
「違憲と思うなら裁判でもすればいい。回答しなかったら処分されるまで。もっとわめいて大騒ぎすればいい。大騒ぎすればするほどいい意味でも悪い意味でも注目を浴びるから。今まで絶対的身分保障の名の下に好き放題してきたことも白日の下にさらされる。私は大阪市民!じっと見ているぞ!」
橋下市長の発言によく触れている人なら、これらの発言が、語彙も論理も文体も、橋下氏とそっくりだということに気づくでしょう。
「大阪市の社長は市民が決めた橋下さん」というのは、橋下氏が「民意」を持ち出して自らを正当化したり、市役所を「民間会社」になぞらえて語るときによく使うレトリックですし、「業務命令」「既得権益」「身分保障」などの語彙も、氏が好んで使うキーワードです。「嫌なら辞めろ」というのも、橋下氏の口からよく発せられるフレーズです。これらの文章の主語などを少しだけ書き換えて橋下氏のツイッターに転載したとしても、たぶんそのまま橋下氏の発言として通用してしまうほど、酷似しています。
つい最近話題になった「毎日放送記者の糾弾事件」でも、同様のことが観察できました。橋下氏が記者会見で、教職員の君が代起立斉唱強制問題について質問した毎日放送の記者を「逆質問」で糾弾した、あの一件です。
同事件では、その一部始終を記録した動画がユーチューブで広まり、橋下氏の尻馬に乗って記者を侮辱する言葉がネット上に溢れ返りましたが、彼らが多用したのは、「とんちんかん」「勉強不足」「新喜劇」といった言葉でした。動画を実際にご覧になった方なら分かると思いますが、これらはすべて、橋下氏自身が動画の中で発した言葉です。彼らは、「他人を罵る」という極めて個人的な作業にも、自ら言葉を紡ぐことなく、橋下氏の言葉をそっくりそのまま借用したのです。
これはいったい、何を意味するのでしょうか。
思考は、言葉です。思考の支配は、言葉を支配することによって成し遂げられます。橋下氏の言葉を進んで使う人々は、橋下氏の言葉によって思考を支配されているといえるのではないでしょうか。そして、思考を支配されているがゆえに、行動も支配されているのではないでしょうか。
これは何も目新しい現象ではありません。
僕が今ある種の戦慄を覚えながら思い出しているのは、2001年9月11日に起きた、あの事件です。
あの日以来、ジョージ・W・ブッシュ米大統領や米政府高官は、「War on Terrorism(テロとの戦い)」というキャッチフレーズをことあるごとに使い始めました。するとどうでしょう。まずその言葉をアメリカのテレビのアナウンサーやコメンテイター、新聞記者たちが競うように使い始め、瞬く間に大多数のアメリカ人が口にし始めました。それはまるでアメリカ中の人々が、一斉にブッシュ大統領にのりうつられたような不吉な光景でした。そして、「War on Terrorism」という言葉に支配され、怯え憤ったアメリカ社会は、合計90万人とも推計される犠牲者が出ることになる、二つの無意味な戦争に突き進んでいったのです。
いや、アメリカ社会だけではありません。僕は太平洋を隔てた日本の報道機関や政治家、一般市民までもが「テロとの戦い」という翻訳語を当たり前のように使っているのを聞いて、とても奇妙に感じたのを憶えています。
「テロとの戦い」というスローガンは、明らかにアメリカ側から世界を眺めた、決して政治的に中立ではない言葉です。少なくとも、それを合い言葉に爆撃されたアフガニスタンの一般市民は、米軍の行為を「テロとの戦い」と呼ぶことには釈然としないでしょう。たぶん、彼らにとっての現実を正確に差し示すフレーズは、「米軍による軍事侵略」といった言葉であるはずです。
しかし、日本人の大半は、米国が打ち出した「テロとの戦い」という言葉を、おそらくほとんど無意識に採用した。同時に、それがかたどる政治的な枠組みに思考や世界観を支配されたのです。そして、行動までを支配された。日本政府が「国際貢献」というもう一つのキャッチフレーズとともに、米軍支援のために自衛隊を差し出したことは、みなさんの記憶にも新しいことでしょう。
そう考えると、同様の例はいくらでも見つかることに気づかされます。いや、社会が大きく動かされる際には、人々がそれによって思考を支配されるような、キーワードとなる言葉が必ずあるともいえるでしょう。
最近日本社会を席巻した言葉の例を挙げれば、「構造改革」「抵抗勢力」「規制緩和」「政権交代」「政治主導」…。
大事なポイントは、これらの言葉は為政者が民衆を羽交い締めにして、無理矢理言わせたものではない、ということです。それらは、たしかに政治家たちによって考案され、社会に投じられた言葉かもしれません。しかし、それらを進んで唱和したのは、わたしたち民衆なのです。
いや、もちろん、唱和するのを拒んだ人も多数いたでしょう。僕自身のことを申し上げれば、「政権交代」以外の言葉は唱える気になりませんでした。けれども、唱える人の勢いや数がそうでない人を上回っていたからこそ、社会全体がそれらの言葉に動かされたことは否めないのです。
では、なぜ大多数の人は、好き好んでそれらの言葉を合唱したのか。
僕は、それらの言葉がそのときどきで、ある種の「リアリティ」を持って人々の心に響くと同時に、感情を動かしたからだと思います。
例えば、「テロとの戦い」という言葉が2000年代前半に特に効力を持ちえたのは、9月11日の事件が起きたからにほかなりません。それは、「もしブッシュ大統領が9月10日に同じ言葉を発していたら」と想像すれば容易に分かります。おそらくアメリカ人のほとんどがピンとこなくて、「はあ?」と首を傾げたことでしょう。アメリカ人が9月11日以降、「テロとの戦い」に首を傾げるどころか、それを合い言葉に戦争を始めたのは、「祖国がテロリストの魔の手に晒されている」という信憑が(それが正確な状況把握かどうかは別にして)十分成り立ち、恐れと怒りという感情に支配されていたからなのです。
去年から日本の社会で急速に人々のスローガンとなりつつある「脱原発」という言葉もそうですね。僕は80年代から「脱原発派」の一人ですが、2011年3月10日までは、「脱原発」という言葉を日本で発しても、「ああ、左翼がまた非現実的なことを言ってるな」というレッテルを貼られ、軽蔑の眼差しで見られる場合がほとんどでした。ところがどうでしょう。福島で破滅的な原発事故が起きて以来、この言葉は急激に市民権と力を得ました。言葉そのものは、昔からずっと「脱原発」であるにもかかわらず、まるでそれが別の言葉に生まれ変わったかのように、突然「化けた」のです。そしてその豹変ぶりは、別に脱原発派が急に運動や宣伝がうまくなったことに起因しているわけではありません。原発事故による甚大な被害が実際に起き、急激にリアリティを得て日本人の感情を動かした。だからこそ、「脱原発」という言葉は一夜にして、多くの人々が唱和するスローガンに変貌したのです。
ここで、橋下徹市長の問題に戻ります。
なぜ、橋下氏の支持者は、橋下氏が発する言葉を自ら進んで唱和するのか。
これまでの議論から、おそらく橋下氏が発する言葉が、「テロとの戦い」「脱原発」などの言葉と同様に、ある一定のリアリティを持って人々の心に響いているからだと推論できます。そして、大勢の人々が単純なキーワードによって思考を支配されるような現象は、別に橋下氏周辺に特有なわけではなくて、世界的に頻繁に観察できる「病態」であることが分かります。
とはいえ、「だから橋下徹という政治家を特別視する必要はない」という結論に至るのは早計でしょう。
橋下氏が大阪府知事選に当選し、政治家としてデビューしたのは2008年。わずか4年前です。国会議員でいえば、橋下氏は未だに「一年生議員」のようなものです。その彼が、いまでは大阪府市を制圧し、国政進出を狙い、一部では首相候補とさえささやかれている。
この急速な勢力の伸びは、決して尋常ではありません。このような躍進が可能になったのは、橋下氏が発する言葉に特別な「感染力」があるからこそだと、僕は見ています。
事実、橋下徹という政治家は、いま日本に存在する他のどの政治家よりも、キャッチフレーズやコピーとなる言葉を数多く発しているように思われます。
その例を挙げましょう。
「民意」「選挙で選ばれた代表」「決定できる政治」「既得権益」「二重行政」「大阪都構想」「対案を出せ」「文句があるならお前がやってみろ」「身分保障の公務員」「公務員は上司の命令に従え」「税金で飯を食う官僚」「トップ」「職務命令」「自称インテリ」「学者論議」「マネージメント」「リセット」などなど…。
これらは、橋下氏が好んで繰り返し使う言葉やフレーズです。そして橋下氏の支持者たちが、あたかも橋下氏になりきったかのように、プロパガンダ・マシーンよろしく連呼している言葉です。みなさんも、少なくともこのうちのいくつかは聞き覚えがあるのではないでしょうか。
もちろん、これらのほとんどは、橋下氏が一から作り上げた言葉ではありません。むしろ、ありふれた言葉です。しかしこの際、オリジナリティがあるかどうかは、あまり重要ではありません。重要なのは、橋下氏がこれらの言葉を繰り返し発することによって、事実上の専売特許にしてしまっていることです。そして、彼の支持者たちがこれらの「橋下市長の言葉」を、声高に輪唱している。その事実こそが、問題なのです(そういえば、「維新」という言葉も周知の通り橋下氏のオリジナルではありませんが、いまや「維新」といえば「大阪維新の会」を差す場合が多くなってしまいました)。
僕は野田総理が好んで使う言葉をいますぐ思い出そうとしても、ひと言も思いつくことができません。そして、野田総理の言葉を彼の支持者が合唱する現場を、一度も目撃したことがありません。つまり一国の総理が使う言葉よりも、一地方自治体の首長が使う言葉の方が、世の中に伝染し唱和されている。そういう、かなり特殊な事態がいま日本に生じつつあるのだと思います。
では、なぜ橋下徹の言葉には「感染力」があるのか。
橋下氏お得意のフレーズを並べてみると、人々が社会に対して抱いている不満や懸念を掬い上げるようなものであることに気づかされます。しかもそこに、人々の(理性ではなく)感情を煽り立てる何かを感じます。
例えば「民意」という言葉の裏には、「われわれ民衆の意志が政治に反映されていない」という漠然とした不満が匂いますし、「決定できる政治」というコピーの背景には、「今の政治は何も決定できず無能だ」という恨み節が存在します。「身分保障の公務員」というフレーズの背後にも、「身分保障なんて、俺たち派遣社員には関係ねえよ、チクショー」といった怨念のような感情が基調低音のように鳴り響いています。
逆に言うと、橋下徹という政治家は、そのような人々の感情の鉱脈のありかを察知し、言葉で探り当てることに長けているのです。そしてそこにこそ、彼の言葉の感染力の強さの秘密があるのだと思います。
例えば彼が「民主主義」という言葉よりも「民意」という言葉を愛用するのは、前者が政治制度をクールに描写する言葉であるのに対して、後者が有権者の感情に直結している言葉だからではないでしょうか。
いや、もちろん「民主主義」という言葉も、軍国主義の時代が終わり、新しい時代が始まる予感に満ち満ちていた敗戦直後の日本人にとっては、きわめてダイレクトに感情にアクセスできた言葉であったのではないかと推察されます。だからこそ、「民主主義」という言葉は当時の日本で強力なスローガンとして機能し、社会全体を180度引っくり返す力を持ちえたのだと思います。
しかし、物心ついた頃から民主主義があたり前の、21世紀に生きる現代人、特に若い世代にとってはどうでしょうか。「民主主義」という言葉は、単に政治制度を指し示すか、使い古された、お題目的な言葉に変質してしまっているような気がします。無論だからといって、民主主義そのものの価値が下落したわけでは決してありません。けれども、少なくとも若い世代の多くが「民意」という言葉の方に、より自己を投影し、当事者となり、感情移入しやすいように感じるとしても、そう不思議ではないのです。
そして、橋下氏はこのことをたぶん極めて冷徹に理解し、意識的に操作している。それを僕がなかば確信させられたのは、今年の5月10日の橋下氏自身のツイートによってです。彼は放射性廃棄物の処理方法に関する池田信夫氏のツイートに答えて、次のように述べています。
池田「「海洋投棄はけしからん」という感情論が多いが、1万mの日本海溝に沈める技術は確立しており、地層処分より安全」
橋下「こういう技術論を国民コンセンサスに高めるには膨大な政治エネルギーが必要。それをやらずに論を言うのは言うだけの世界。民主主義は感情統治」
僕はこの短いつぶやきにこそ、橋下氏が考える政治のイメージが集約されているように思います。つまり彼は、「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」と言っているのです。
こうした橋下氏独特の民主主義観は、僕を次のような推論に導きます。
橋下氏は、人々の「感情を統治」するためにこそ、言葉を発しているのではないか。そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治」されているのではないか。
そう考えると、橋下氏がしばしば論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコロ変わったりしても、ほとんど政治的なダメージを受けない(支持者が離れない)ことにも納得がいきます。そうした論理的ほころびは、彼を支持しない者(感情を統治されていない者)にとっては重大な瑕疵に見えますが、感情を支配された人々にとっては、大して問題になりません。なぜなら、いくら論理的には矛盾しても、感情的な流れにおいては完璧につじつまが合っているからです。
先述した「毎日放送記者の糾弾事件」はその好例です。この30分近くにわたる女性の記者と橋下市長とのやりとりでは、記者は一貫して、「君が代起立斉唱条例」を立案した張本人である橋下氏に対して、府立高校校長によるいわゆる「口元チェック」の是非を問い質しています。
記者としては当たり前の発想です。橋下氏が条例を作ったからこそ、教育委員会が起立斉唱命令を出し、校長が「口元チェック」をした。だから、立案者の橋下氏にそのことについて質問する。極めて自然なロジックです。ところが、橋下氏は「自分は条例を作っただけであり、命令を出したのは教育委員会だから、その問いに答えるのは自分の仕事ではない。だから教育委員会に聞け」と言いはり、記者を「勉強不足だ」と責めたてます。
冷静に考えれば、橋下氏の言うことは論理的に破綻しています。直接命令を出したのは教育委員会かもしれませんが、その元になる条例を作ったのは橋下氏なのですから、彼には記者の質問に答える責任があるはずです。少なくとも、質問をする記者が「とんちんかん」などと口汚くなじられる筋合いはありません。
しかし、動画を観た多くの人々が、橋下氏に対して拍手喝采を送りました。なぜなら、橋下氏が繰り出す言葉には、一貫して「ふざけんなよ、マスゴミのオンナ記者!」という感情が込められていたからです。論理的には矛盾していても、感情的には一本筋が通っていたのです。
だから日頃からマスコミに不満を抱いていたり、ミソジニー(女性嫌悪)的な暗い思いを抱いていたり、あるいは単に誰かをいじめたい気分に駆られていた人々は、彼の演出する感情に波長を合わせ易かったし、合わせることができた。そして彼が発した「とんちんかん」などという言葉をそのまま借用して、自らの感情をネット上などでぶちまけた。これは、橋下氏の目指している「感情を統治する民主主義」が典型的に機能した例だと言えるでしょう。
とはいえ、橋下氏の言葉がいくら感情を喚起し、したがって強い感染力があるとしても、それを流通させる手段がなければ、世の中に広く伝播することはできません。しかしこの点でも、橋下氏は非常に抜け目のない戦略家であると言わざるをえません。
実際、ツイッター上で橋下批判に本腰を入れてまもなく、僕は本当に驚かされました。例えばある日、君が代問題で橋下氏が物議をかもしたニュースについて1日かけてあれこれ論じていると、翌日には職員の入れ墨の件がニュースとして浮上するのでそれについて僕も論じる。ところが次の日には、橋下氏が知識人の誰かをツイッター上で罵倒して、それが問題になる。そして次の日は文楽潰しの問題、次の日は原発、次の日は維新八策…という具合に、ほとんど毎日、日替わり定食のように、何かしら問題、つまりニュースが起きるのです。
これを逐一取り上げると、どうなるか。僕は毎日毎日、橋下さんのことばかりを論評するはめになります。実際、実に忌々しいことですが、僕はここ数か月、「映画作家」というよりも、「橋下評論家」のようになっています。そしてこれこそが、僕だけではなく、関西のマスメディアが多かれ少なかれ陥っている状況なのです。
事実、橋下氏は毎朝30分間もの「ぶら下がり取材」と、週に1回2時間にも及ぶ記者会見を行っています。そして関西テレビ報道局デスクの迫川緑氏からシンポジウムの壇上で聞いた話によると、橋下氏は会見を短く切り上げたりせずに、記者の方が根負けするくらい、とことん最後まで付き合うそうです。
しかも橋下氏は毎日のように新しいネタを提供する。それもたいていは、物議をかもすような過激なネタです。テレビ局としては取り上げざるをえません。しかし迫川氏によれば、ネタがあまりに多すぎるので詳しい取材が追いつかず、とりあえず橋下氏のコメントを主体としたニュースを流す。気がつけば、30分のニュース番組に橋下氏が何度も登場する。そういうサイクルになりがちだそうです。つまり公共の電波で流れるニュース番組が、知らず知らずのうちに「橋下徹ショー」になっているわけです。
だからといって、メディアは橋下関連の報道をやめることができるでしょうか。彼の政治姿勢や政策が大阪市民や、ゆくゆくは日本国民に重大な影響を与えかねない以上、報道機関には報じる責任があります。しかし報じれば報じるほど、橋下氏の言葉は世の中に伝染して影響力を増し、だからこそ更に報じなくてはならなくなる。そういうジレンマと悪循環が生じているのです。
ついでに申し添えておくならば、取材者の立場からすれば、これは同時に「ネタに困っても大阪市役所に行きさえすれば、新しいニュースがある」という状況でもあります。ニュースを常に探し求めている者にとっては、これはある種の楽園です(僕もかつてテレビ・ニュースの現場をかじったことがあるので、実感としてそう思います)。つまり橋下氏は、報道機関にとって「おいしいネタ元」になりつつある。そうなれば記者たちも、できれば橋下氏と仲良くしていたいでしょう。険悪になれば、最高の「情報ソース兼タレント」へのアクセスを失いかねないからです。彼に対して報道機関が厳しい批判を加えにくい背景には、ときおり見せしめのように行われる「記者のつるし上げ」の恐怖もあるでしょうが、そういう現場の心理も働いていると思うのです。
さて、そろそろ紙幅も尽きてまいりましたので、最後に、橋下氏の批判勢力側の言葉の問題について触れたいと思います。
僕はこの数か月、橋下氏を支持する人々と議論しながら、ある種の虚しさを感じ続けてきました。それは馬の耳に念仏を唱えているような、そういう空虚さです。自分の言葉が、驚くほどまったく相手に響かないのです。
しかし橋下氏の言葉の感染力とその原因について考察してみると、僕を含めた批判勢力が繰り出す言葉が、氏の支持者に対して「のれんに腕押し」状態であることにも、理由があるのだなという気がしています。
というのも、僕らが繰り出す言葉も、実はだいたい語彙が決まっているのです。
「民主主義への挑戦」「独裁」「ヒトラー」「マッカーシー」「戦前への回帰」「憲法違反」「思想良心の自由」「人権を守れ」「恐怖政治」「強権政治」などなど…。
こうした言葉は、それらを好んで発する人間にとっては、強い感情を喚起しうる強力な言葉です。これらの言葉を橋下氏やその支持者に投げかけるとき、僕らはまるで最強のミサイルを撃ち込むかのように、「どうだ、参ったか〜」という気持ちで発するのです(『世界』を愛読する方の多くはそうではないでしょうか)。実際、たぶん1970年代くらいまでは、例えば「思想良心の自由」という言葉は、まるで水戸黄門の印籠のように、それを発しさえすれば誰もが条件反射的にひれ伏してしまうような、強力な殺し文句でありえたのではないか。(といっても僕は1970年に生まれたので、実際のところはよく分かりませんが)。
しかし時代は変わり、橋下氏とその支持者に「思想良心の自由を守れ」とか「恐怖政治だ」などという言葉を浴びせても、彼らはびくともしません。「だからなに?」という調子で、面白いくらいに効き目がありません。コミュニケーションが成立しないのです。そして、様々な世論調査で橋下氏の支持率が過半数である以上、かなり多くの日本人が、僕らが繰り出す「黄門様の印籠」には反応しなくなっていると推定できるでしょう。
おそらく彼らにとっては、これらの言葉はすでにリアリティを失い、賞味期限が切れてしまっているのです。したがって感情を動かしたりはしないのです。彼らは、例えば君が代の問題を語る際にも、「思想良心の自由を守れ」よりも、「公務員は上司の命令に従え」というフレーズの方に、よほど心を動かすのです。僕個人としては、極めて由々しき事態であると思います。
とはいえ、彼らを責めてばかりもいられません。
考えてみれば、実は僕らにも戦後民主主義的な殺し文句に感染し、むやみに頼りすぎ、何も考えずに唱和してきた側面があるのではないでしょうか。つまり橋下氏の支持者たちと、同型の怠慢をおかしてきた可能性はないでしょうか。そして橋下氏の支持者たちは、僕らが繰り出す言葉からそのような臭いを敏感に嗅ぎ取っているからこそ、コミュニケーションを無意識に拒絶している。僕にはそんな気がしてなりません。
もちろん、民主主義的な価値そのものを捨て去る必要はありません。むしろ、ある意味形骸化してしまった民主主義的諸価値を丹念に点検し、ほころびをつくろい、栄養を与え、鍛え直していく必要があるのです。
そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業にもなるでしょう。
橋下氏や彼を支持する人々をコミュニケーションの場に引きずり出し、真に有益な言葉を交わし合うためには、おそらくそういう営みが必要不可欠なのだと思います。
(岩波書店『世界』2012年7月号)
Sunday, March 24, 2013
堀潤アナの排除と公共放送
NHKが組織として堀潤アナの排除に向かったことは、番組キャンセルなどの事実から動かしようがない。そしてその背景に原発問題と氏の発言や行動があることは、一連の経緯からしてたぶん間違いないだろう。堀アナの存在はNHKの評価を上げていたと思うが、これで一気に下がると思う。
堀さんがNHKの報道姿勢を批判したり原発問題の映画を作ったりしても、それをNHKの公式見解だと思う人はいない。仮に堀さんが原発に批判的な姿勢で番組を作ったとしても、その姿勢がおかしいと思う局内の作り手は異なる番組を作ればよい。要は堀アナはNHKを揺るがす存在ではなかったはずだ。いや、揺るがすどころか組織の活性化に貢献していたと思う。
そういう堀さんを「NHKを揺るがす存在」として誤って認定し免疫機能を発揮してしまうところに、NHKの本当の病態があるように思う。免疫機能で排除すべきは堀さんではなく、彼を排除しようとした細胞であるはずだ。あべこべだ。
しかしこの病態は今に始まったことではない。僕のささやかな番組制作経験では、局側との試写では僕が面白いと思う場面ほど物言いがつき、削られそうになることが多かった。面白いってことは物議を醸しかねないってことだ。しかしそれが最も嫌われた。面白いことより、平穏であることが好まれた。
今回の堀さん排除の動きは、組織として「平穏であること」を望んだ結果なのだと思う。皮肉なのは、実はその排除の行為は全く平穏ではなく、公共放送としてのNHKにとって大きなリスクを孕んでいるということだ。そしてたぶん排除した側は、そのリスクの大きさに気がついていないということだ。
なぜそんな倒錯が起きるのか。NHKの組織を構成する人々が、「公共」の意味をはき違えていることに根本の原因があるように思う。
NHKの公共性は、政府や党や業界から独立し自由な報道を行うことによって担保される。つまり堀アナのような人が活躍できることが、NHKの公共性そのものである。ところがNHK上層部は「公共=政府見解に寄り添うこと」だと勘違いしているようだ。でないと、堀さんを排除したりはしないはずだ。
普通に考えれば分かる筈なのだが、本来「公共性」の重要な要素は、包容力であるはずだ。なぜなら、世の中にはいろんな考えの、いろんな事情を持った、いろんな人がいる。そのすべてを包摂するのが「公共」だからである。つまり異分子を排除するような動きは、まったくもって、反・公共なのである。
街の広場は公共の場である。誰でも入れるのが基本だ。それが「公共」の概念だからだ。ところが広場の入り口で入れる者と入れない者を選別し始めたらどうか。当然、広場の公共性は薄まる。
NHKは受信料で運営される公共放送である。だから本来、誰でも入れる広場を目指すべきなのである。
(ツイートをまとめました)
堀さんがNHKの報道姿勢を批判したり原発問題の映画を作ったりしても、それをNHKの公式見解だと思う人はいない。仮に堀さんが原発に批判的な姿勢で番組を作ったとしても、その姿勢がおかしいと思う局内の作り手は異なる番組を作ればよい。要は堀アナはNHKを揺るがす存在ではなかったはずだ。いや、揺るがすどころか組織の活性化に貢献していたと思う。
そういう堀さんを「NHKを揺るがす存在」として誤って認定し免疫機能を発揮してしまうところに、NHKの本当の病態があるように思う。免疫機能で排除すべきは堀さんではなく、彼を排除しようとした細胞であるはずだ。あべこべだ。
しかしこの病態は今に始まったことではない。僕のささやかな番組制作経験では、局側との試写では僕が面白いと思う場面ほど物言いがつき、削られそうになることが多かった。面白いってことは物議を醸しかねないってことだ。しかしそれが最も嫌われた。面白いことより、平穏であることが好まれた。
今回の堀さん排除の動きは、組織として「平穏であること」を望んだ結果なのだと思う。皮肉なのは、実はその排除の行為は全く平穏ではなく、公共放送としてのNHKにとって大きなリスクを孕んでいるということだ。そしてたぶん排除した側は、そのリスクの大きさに気がついていないということだ。
なぜそんな倒錯が起きるのか。NHKの組織を構成する人々が、「公共」の意味をはき違えていることに根本の原因があるように思う。
NHKの公共性は、政府や党や業界から独立し自由な報道を行うことによって担保される。つまり堀アナのような人が活躍できることが、NHKの公共性そのものである。ところがNHK上層部は「公共=政府見解に寄り添うこと」だと勘違いしているようだ。でないと、堀さんを排除したりはしないはずだ。
普通に考えれば分かる筈なのだが、本来「公共性」の重要な要素は、包容力であるはずだ。なぜなら、世の中にはいろんな考えの、いろんな事情を持った、いろんな人がいる。そのすべてを包摂するのが「公共」だからである。つまり異分子を排除するような動きは、まったくもって、反・公共なのである。
街の広場は公共の場である。誰でも入れるのが基本だ。それが「公共」の概念だからだ。ところが広場の入り口で入れる者と入れない者を選別し始めたらどうか。当然、広場の公共性は薄まる。
NHKは受信料で運営される公共放送である。だから本来、誰でも入れる広場を目指すべきなのである。
(ツイートをまとめました)
Saturday, March 16, 2013
TPPと農業と新自由主義
くどいようですけど、北海道の農業の7割が廃業に追い込まれ、沖縄のコメやサトウキビが100%全滅し、日本の農林水産物全体の4割が壊滅する(つまり農家や漁師や林業の4割が失業する)という試算が出ているのに、それでもTPPを推進する「国益」って、いったいなんですか?
「道の試算では関税撤廃の例外が実現しなかった場合、道内農家の7割が営農を続けられなくなる」(北海道新聞)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/449610.html
「県内の農水産業も壊滅的な打撃を受けることになる。県の試算によると、農産物のサトウキビ、乳製品、コメは輸入品などに100%取って代わられる。産業そのものが消滅してしまう事態である。パイナップルや牛肉、豚肉も生産減少率が80~70%と高い。水産物ではカツオ・マグロ、車エビ、イカなどが90%。産業として立ちゆかなくなる恐れが出てくる。農産物と水産物を合わせると、生産減少率は53・1%(580億円)となる。波及効果まで勘案すると、影響額は1422億円に上る。県内のサトウキビ生産農家約1万7千戸、工場従事者約1300人の雇用に深刻な影響を及ぼす。特にサトウキビが基幹産業の離島は経済活動が成り立たなくなり、島が存続するかどうかの岐路に立たされると言っても過言ではない。」(沖縄タイムス)
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-03-16_46591
「海外から安い輸入品が増えるため、農林水産物の生産額が現在の約4割に相当する3.0兆円減るが、輸出増加や消費拡大が補うとした。」(毎日新聞)
http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20130316k0000m010058000c&inb=sns
TPPで農林水産物の生産力、今の四割減だよ、四割減!
みんな、ホントに分かってんの?!「攻めの農業」で農業を復活させるというなら、なんで四割も減るんだよ。完全に矛盾している。
自国の農林水産業の生産力が四割も減ると試算を自ら出しながら、なおかつTPPに参加する首相。それを支持してしまうメディアや日本人。
これ、単純に考えて農地の4割が荒廃するってことです。
そしてそれをみんなで許容しちゃうってことです。
日本という国は、自国で食べ物を作ることを放棄した、っていうことです。
想像しにくいかもしれないけど、TPPに入れば、政府の試算ですら少なくとも国産品の4割は店頭から消えるんだよ。
日本人はそのことをイメージできているのだろうか?
たぶん、「農林水産業は四割減るけど、輸出増加等で全体的には0.66%(!)GDPが増える」という説明を聞いて、「ああ、全体的には微増するのか、それならいいや」と数字だけ見て納得しちゃう人が多いのだろう。
数字だけで判断すると本質を見誤ることの見本のような例。
そもそも、TPP推進派などの新自由主義者が金科玉条のように言う「自由競争」ってのも、物凄くいかがわしい。だってその自由競争とやらの結果としてリーマンショックが起きたときに、自由に好き勝手やってた会社は潰れたんですか?
潰れたのはリーマンだけでしょう。他は税金で救済ですよ。
僕はあれを見て唖然としたよ。だって全然自由競争じゃないじゃん。
どころか、普段連中がダニみたいに毛嫌いしている「税金に寄生している貧乏人」の何倍の税金を使ったのか。しかも経営者はボーナスを何億円ももらう。
あんなのの、どこが自由競争なんですか。
いいですか、資本家の連中が「自由競争」と言うとき、その弱肉強食的な圧力に晒されるのは、彼らではないんですよ。彼らはその枠外にある。困ったら税金で助けてもらえるんだから。
本当に弱肉強食的な圧力に晒されるのは、99%の一般人です。それを1%が「自由競争」と呼んでいるんですよ。
そもそも、TPPがその典型例であるように、「自由競争」とやらのルールは1%が決める。99%はルールを決めるプロセスには入れてもらえない。
それで「自由に競争しようぜ」って言ったって、誰が有利かなんて最初から分かってるだろ!
興味深いのは、新自由主義的な政治家は「既得権益」という言葉を使って労組や公務員、生活保護者(!)などを攻撃するくせに、絶対に1%の富裕層へは矛先を向けないことです。なぜなら、新自由主義者は1%の究極の「既得権益」のために働いているからですよ。
それにしても、こないだの衆院選で当選した自民党議員295人のうち、205人はTPPに反対を公約してたわけで。それなのにこうなっちゃったってことは、ホントに選びようがないってことだよな。
こうなると、次の選挙では「反TPPの候補に投票しよう」ってことすら虚しくて言えなくなる。だってそうでしょう。反対議員を205人も当選させ、しかもそれで自民が与党になったっていうのに、結果は「TPP参加」なんだからさ。
つまりブレーキを踏んだらアクセルだったってことです。
「道の試算では関税撤廃の例外が実現しなかった場合、道内農家の7割が営農を続けられなくなる」(北海道新聞)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/449610.html
「県内の農水産業も壊滅的な打撃を受けることになる。県の試算によると、農産物のサトウキビ、乳製品、コメは輸入品などに100%取って代わられる。産業そのものが消滅してしまう事態である。パイナップルや牛肉、豚肉も生産減少率が80~70%と高い。水産物ではカツオ・マグロ、車エビ、イカなどが90%。産業として立ちゆかなくなる恐れが出てくる。農産物と水産物を合わせると、生産減少率は53・1%(580億円)となる。波及効果まで勘案すると、影響額は1422億円に上る。県内のサトウキビ生産農家約1万7千戸、工場従事者約1300人の雇用に深刻な影響を及ぼす。特にサトウキビが基幹産業の離島は経済活動が成り立たなくなり、島が存続するかどうかの岐路に立たされると言っても過言ではない。」(沖縄タイムス)
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-03-16_46591
「海外から安い輸入品が増えるため、農林水産物の生産額が現在の約4割に相当する3.0兆円減るが、輸出増加や消費拡大が補うとした。」(毎日新聞)
http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20130316k0000m010058000c&inb=sns
TPPで農林水産物の生産力、今の四割減だよ、四割減!
みんな、ホントに分かってんの?!「攻めの農業」で農業を復活させるというなら、なんで四割も減るんだよ。完全に矛盾している。
自国の農林水産業の生産力が四割も減ると試算を自ら出しながら、なおかつTPPに参加する首相。それを支持してしまうメディアや日本人。
これ、単純に考えて農地の4割が荒廃するってことです。
そしてそれをみんなで許容しちゃうってことです。
日本という国は、自国で食べ物を作ることを放棄した、っていうことです。
想像しにくいかもしれないけど、TPPに入れば、政府の試算ですら少なくとも国産品の4割は店頭から消えるんだよ。
日本人はそのことをイメージできているのだろうか?
たぶん、「農林水産業は四割減るけど、輸出増加等で全体的には0.66%(!)GDPが増える」という説明を聞いて、「ああ、全体的には微増するのか、それならいいや」と数字だけ見て納得しちゃう人が多いのだろう。
数字だけで判断すると本質を見誤ることの見本のような例。
そもそも、TPP推進派などの新自由主義者が金科玉条のように言う「自由競争」ってのも、物凄くいかがわしい。だってその自由競争とやらの結果としてリーマンショックが起きたときに、自由に好き勝手やってた会社は潰れたんですか?
潰れたのはリーマンだけでしょう。他は税金で救済ですよ。
僕はあれを見て唖然としたよ。だって全然自由競争じゃないじゃん。
どころか、普段連中がダニみたいに毛嫌いしている「税金に寄生している貧乏人」の何倍の税金を使ったのか。しかも経営者はボーナスを何億円ももらう。
あんなのの、どこが自由競争なんですか。
いいですか、資本家の連中が「自由競争」と言うとき、その弱肉強食的な圧力に晒されるのは、彼らではないんですよ。彼らはその枠外にある。困ったら税金で助けてもらえるんだから。
本当に弱肉強食的な圧力に晒されるのは、99%の一般人です。それを1%が「自由競争」と呼んでいるんですよ。
そもそも、TPPがその典型例であるように、「自由競争」とやらのルールは1%が決める。99%はルールを決めるプロセスには入れてもらえない。
それで「自由に競争しようぜ」って言ったって、誰が有利かなんて最初から分かってるだろ!
興味深いのは、新自由主義的な政治家は「既得権益」という言葉を使って労組や公務員、生活保護者(!)などを攻撃するくせに、絶対に1%の富裕層へは矛先を向けないことです。なぜなら、新自由主義者は1%の究極の「既得権益」のために働いているからですよ。
それにしても、こないだの衆院選で当選した自民党議員295人のうち、205人はTPPに反対を公約してたわけで。それなのにこうなっちゃったってことは、ホントに選びようがないってことだよな。
こうなると、次の選挙では「反TPPの候補に投票しよう」ってことすら虚しくて言えなくなる。だってそうでしょう。反対議員を205人も当選させ、しかもそれで自民が与党になったっていうのに、結果は「TPP参加」なんだからさ。
つまりブレーキを踏んだらアクセルだったってことです。
Saturday, March 09, 2013
TPPと資本主義と民主主義 <その2>
つまり、誰でも加入できる公的保険を導入しようとしたオバマの医療改革が保険業界などからの激しい抵抗にあって骨抜きにされたのは、資本主義が民主主義を屈服させた現象としてとらえるべきなんだ。原発事故が起きても脱原発が進まないのも、同じ現象。
そう考えると、ゴリゴリの新自由主義者である橋下徹が民主主義の破壊者であることは自然だし、与野党問わず新自由主義者が政治家や政府に多数(首相すらも!)紛れ込んでいる状況は、民主主義がトロイの木馬を抱えているようなもので、きわめてマズい状況なのである。
この流れでいくと、たぶん国家も解体もしくは弱体化していく。なぜなら、これまで民主主義は国家という制度を使って発展・成熟してきたわけだけど、民主主義を新自由主義者が攻撃し骨抜きにしていけば、国家もその巻き添えを食わざるを得ないからだ。おそらく。
少なくともTPPはその流れにある。グローバル資本は民主主義が邪魔なので、その器である国家の法律や権限や裁量や境界線を切り崩そうとしている。これを徹底させていけば文字通り国家は亡くなる。その作業を担おうとしているのが、国家主義者であるはずの安倍晋三であることは、なんとも皮肉だ。
つまり今や国家は、国内では政治システムに入り込んだ新自由主義者(=資本の代弁者)から侵蝕され、外からも国際協定などで攻撃を受けている。いや、正確には資本主義の敵は民主主義なので本当は国家などどうでもよいのだが、民主主義を実行する枠組みが国家なので国家を弱体化させようとしている。
最悪なのは、新自由主義者たちが、国家の機能のうち人々を抑圧する機能だけを残し、資本の傭兵のように使い始めるであろうこと。いや、たぶん確実にそうなっていく。
米国ではカネを出せば逮捕権のある非番警官を雇える。以前、アメリカの不動産王が、所有する古いビルを建て替えるため、住民を追い出そうとして対立した事件を取材したことがある。そのとき大家は警官を雇って警備させ、住民側に逮捕者が多数出た。
すでに資本による権力の乗っ取りは進行している。
でもいま進行中の状況は、資本主義が強権を発動して民主主義をねじ伏せようとしているわけではない。そういう局面もたまにあるけど、基本は違う。むしろ人々は進んで民主主義を捨てようとしている。
ここのところを勘違いすると理解が浅くなる。民主主義を浸食している力は、民主主義の外部にあるのではない。民主主義とは人々によって構成されているわけだが、その人々自身が、資本主義の価値観に染められ、民主主義を放棄しようとしている。
その点を理解することが肝心だ。
例えば、各社のこれまでの世論調査ではTPPに賛成と反対が、拮抗しているか、賛成が上回る結果が出ている。世論調査自体が操作的だというのを考慮しても、賛成の人がこれだけいることは見逃せない。賛成する人にとっても、明らかに不利な国際協定であるにも関わらず、である。
もちろんその背景には、TPP=貿易協定と宣伝するメディアを単純に信じ、その本当の不利益を人々が知らないからだという面もあるだろう。でも、それでもTPPが国内の農業を破壊するであろうことは、たぶんみんな承知している。承知した上で賛成している。なぜか?儲かると思っているからだ。
いや、もちろん、ほとんどの人はTPPで儲かるわけがない。むしろ収奪される側である。だけど、 賛成する人は「儲かるんじゃないか」というスケベ心を抱いている。ここが肝心だ。このスケベ心のせいで、不利な契約書に判を捺そうとしている。
そしてこのスケベ心を醸造する背景には、資本主義的価値観が人々の骨の髄まで浸透している事実がある。橋下大阪市長による様々な新自由主義的横暴を社会が止められないのも、まさにその理由によるものだし、原発やTPPが一定の支持を得てしまうのも同根の現象だ。
そのことについては、少し詳しくこのインタビューで述べた。
http://www.magazine9.jp/interv/souda/index1.php
福祉の切り崩しも、文楽つぶしも、TPPも原発も、同じ現象の多様な発露として観た方がよい。
こう書くと「想田は資本主義を否定している」と短絡する人がいる。しかし僕は資本主義的なシステムを社会の基本に据えることには反対していない。それは上記のインタビューでも述べた。
僕が異議を唱えているのは、資本主義的尺度ですべてを測ることなのだ。
Thursday, March 07, 2013
TPPと資本主義と民主主義
「東京新聞」の報道によると、TPPに一旦交渉に参加したら自分の意志でやめれないらしい。それに、既に決まった条件は飲むしかないらしい。
これ、帰れない「ぼったくりバー」みたいだな。
こんなのになんで好き好んで参加すんの??
いったん交渉に参加したら日本の意志で抜けられない、詳しい内容すら不明の国際協定に、日本国民の判断を仰がず、首相が勝手に参加してしまうことは、憲法の国民主権に反すると思うんだけど、どうでしょう?
っていうか、交渉に参加を表明したら最後、日本の意志では抜けられないという極悪な条件を極秘にするって、その時点でTPPは非常にいかがわしいし、首相がその事実を日本国民に極秘にしているならば、首相も極めていかがわしい。
会社であれば、社の利益に反する背任行為でしょうに。
そもそも、交渉内容が極秘でリークでしか伝わってこないTPPという国際協定について、国民はどうやって判断すればよいというのか。「内容が分からないから参加しない」という判断以外ありえないだろう。
それとも皆さんは普段、「内容は極秘だけど悪いようにしないから押印して」って言われて契約書に判を捺すのだろうか?
ISDS条項が各国の憲法よりも上位に位置し、国民主権を侵すことはかなり知られてきた。しかし、各国の国民に交渉内容を極秘にしながら交渉が進められている国際協定であるTPPは、その交渉の仕方そのものが、国民主権に反している。
つまりTPPとは、企業が国民に優越する「企業主権」なのだ。
後世の歴史家は、TPPなどの現象を記述する際に「国民主権を大原則として発展してきた近代民主国家は、この頃から事実上の企業主権へと移行していった」と書くのではないだろうか。それをもしかしたら「表面上は民主主義にのっとって極秘裏に進められた無血革命」と呼ぶかもしれない。
国民主権が無力化された「企業主権」の世の中では、「国民」は解体されて「消費者」や「労働力」になる。実際、そういう変化はもう起きている。現在進行形の変化である。
TPPの草案に、企業の代表である顧問600名はアクセスできても、国民の代表であるアメリカの議員が閲覧できないのは、まさに「企業主権」そのもの。
http://yamachanblog.under.moo.jp/?eid=512
東西の冷戦構造の中で、西側では民主主義と資本主義を混同する言説がまかり通っていたが、そのすり込みは今頃になってボディブローのように効いている。みんなが混同している間に、だましだまし、資本主義が民主主義を飲み込みつつある。
資本主義にとって、民主主義はときに邪魔だからだ。
つまり、いま起きていることは、こうだ。
共産主義と言う強大な敵がいた時代には、資本主義は民主主義を味方にして手を組んだ。しかし共産主義が弱体化し敵でなくなったいま、資本主義は儲けるために民主主義が邪魔になりつつある。だから今度は民主主義を弱体化しようとしている。
「資本主義」の対立軸には、いままで「共産主義」や「社会主義」を想定してきたが、現代においては、それが対立するのは「民主主義」なのである。
民主主義が、資本主義をどのように邪魔するのか。たとえば、公的保険を作ってすべての人に健康保険を享受できる権利を与えようというのは、個人の生存権を重んじる民主主義の発想だが、健康保険に参入して儲けたい保険業界という資本主義勢力には邪魔でしかない。
あるいは、環境基準。資本主義は、本音では環境なんておかまい無しに工場を安く作って汚染水垂れ流しでバンバン生産したいだろうが、民主主義では個人の生存権を重視するので、環境基準を設けて企業の活動に一定の制限を課して縛る。邪魔だ。
あるいは、労働基準。資本主義勢力にとっては、労働力なんて安ければ安いほど良い。しかし、例えば時給50円だったら労働者の人権、生存権など守れない。だから民主主義では労働法を作り企業の活動を制限し、個人の人権を守ろうとする。これも資本主義にとっては、すんごく邪魔。
つまり、資本主義による民主主義への攻撃は、これまでもネチネチと進行してきて民主主義はいま病んで重症なんだが、TPPは民主主義が入院している病院を、今度はバズーカ砲で奇襲攻撃しようとしているわけだ。
これで民主主義は即死するかもしれないし、運良く生き延びても弱体化は避けられない。それは日本だけでなく、攻撃を仕掛けているようにみえている、アメリカだって同じなのである。
人類の歴史は、いまひとつの曲がり角に差し掛かっているのかもしれない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2013030702000237.html?ref=rank
これ、帰れない「ぼったくりバー」みたいだな。
こんなのになんで好き好んで参加すんの??
いったん交渉に参加したら日本の意志で抜けられない、詳しい内容すら不明の国際協定に、日本国民の判断を仰がず、首相が勝手に参加してしまうことは、憲法の国民主権に反すると思うんだけど、どうでしょう?
っていうか、交渉に参加を表明したら最後、日本の意志では抜けられないという極悪な条件を極秘にするって、その時点でTPPは非常にいかがわしいし、首相がその事実を日本国民に極秘にしているならば、首相も極めていかがわしい。
会社であれば、社の利益に反する背任行為でしょうに。
そもそも、交渉内容が極秘でリークでしか伝わってこないTPPという国際協定について、国民はどうやって判断すればよいというのか。「内容が分からないから参加しない」という判断以外ありえないだろう。
それとも皆さんは普段、「内容は極秘だけど悪いようにしないから押印して」って言われて契約書に判を捺すのだろうか?
ISDS条項が各国の憲法よりも上位に位置し、国民主権を侵すことはかなり知られてきた。しかし、各国の国民に交渉内容を極秘にしながら交渉が進められている国際協定であるTPPは、その交渉の仕方そのものが、国民主権に反している。
つまりTPPとは、企業が国民に優越する「企業主権」なのだ。
後世の歴史家は、TPPなどの現象を記述する際に「国民主権を大原則として発展してきた近代民主国家は、この頃から事実上の企業主権へと移行していった」と書くのではないだろうか。それをもしかしたら「表面上は民主主義にのっとって極秘裏に進められた無血革命」と呼ぶかもしれない。
国民主権が無力化された「企業主権」の世の中では、「国民」は解体されて「消費者」や「労働力」になる。実際、そういう変化はもう起きている。現在進行形の変化である。
TPPの草案に、企業の代表である顧問600名はアクセスできても、国民の代表であるアメリカの議員が閲覧できないのは、まさに「企業主権」そのもの。
http://yamachanblog.under.moo.jp/?eid=512
東西の冷戦構造の中で、西側では民主主義と資本主義を混同する言説がまかり通っていたが、そのすり込みは今頃になってボディブローのように効いている。みんなが混同している間に、だましだまし、資本主義が民主主義を飲み込みつつある。
資本主義にとって、民主主義はときに邪魔だからだ。
つまり、いま起きていることは、こうだ。
共産主義と言う強大な敵がいた時代には、資本主義は民主主義を味方にして手を組んだ。しかし共産主義が弱体化し敵でなくなったいま、資本主義は儲けるために民主主義が邪魔になりつつある。だから今度は民主主義を弱体化しようとしている。
「資本主義」の対立軸には、いままで「共産主義」や「社会主義」を想定してきたが、現代においては、それが対立するのは「民主主義」なのである。
民主主義が、資本主義をどのように邪魔するのか。たとえば、公的保険を作ってすべての人に健康保険を享受できる権利を与えようというのは、個人の生存権を重んじる民主主義の発想だが、健康保険に参入して儲けたい保険業界という資本主義勢力には邪魔でしかない。
あるいは、環境基準。資本主義は、本音では環境なんておかまい無しに工場を安く作って汚染水垂れ流しでバンバン生産したいだろうが、民主主義では個人の生存権を重視するので、環境基準を設けて企業の活動に一定の制限を課して縛る。邪魔だ。
あるいは、労働基準。資本主義勢力にとっては、労働力なんて安ければ安いほど良い。しかし、例えば時給50円だったら労働者の人権、生存権など守れない。だから民主主義では労働法を作り企業の活動を制限し、個人の人権を守ろうとする。これも資本主義にとっては、すんごく邪魔。
つまり、資本主義による民主主義への攻撃は、これまでもネチネチと進行してきて民主主義はいま病んで重症なんだが、TPPは民主主義が入院している病院を、今度はバズーカ砲で奇襲攻撃しようとしているわけだ。
これで民主主義は即死するかもしれないし、運良く生き延びても弱体化は避けられない。それは日本だけでなく、攻撃を仕掛けているようにみえている、アメリカだって同じなのである。
人類の歴史は、いまひとつの曲がり角に差し掛かっているのかもしれない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2013030702000237.html?ref=rank
「東京新聞」TPP参加に極秘条件 後発国、再交渉できず
2013年3月7日
環太平洋連携協定(TPP)への交渉参加問題で、二〇一一年十一月に後れて交渉参加を表明したカナダとメキシコが、米国など既に交渉を始めていた九カ国から「交渉を打ち切る権利は九カ国のみにある」「既に現在の参加国間で合意した条文は原則として受け入れ、再交渉は要求できない」などと、極めて不利な追加条件を承諾した上で参加を認められていた。複数の外交関係筋への取材で七日分かった。
各国は今年中の交渉妥結を目指しており、日本が後れて参加した場合もカナダなどと同様に交渉権を著しく制限されるのは必至だ。
関係筋によると、カナダ、メキシコ両政府は交渉条件をのんだ念書(レター)を極秘扱いしている。交渉全体を遅らせないために、後から参加する国には不利な条件を要求する内容だ。後から入る国は参加表明した後に、先発の国とレターを取り交わす。
カナダなどは交渉終結権を手放したことによって、新たなルールづくりの協議で先発九カ国が交渉をまとめようとした際に、拒否権を持てなくなる。
交渉参加に前向きな安倍晋三首相は、「『聖域なき関税撤廃』が前提ではないことが明確になった」と繰り返しているが、政府はカナダとメキシコが突きつけられた厳しい条件を明らかにしていない。日本がこうした条件をのんで参加した場合、「聖域」の確保が保証されない懸念が生じる。
カナダ、メキシコも一部の農産品を関税で守りたい立場で、日本と置かれた状況は似ている。国内農家の反対を押し切り、対等な交渉権を手放してまでTPPの交渉参加に踏み切ったのは、貿易相手国として魅力的な日本の参加とアジア市場の開拓を見据えているからとみられる。
先にTPPに参加した米国など九カ国は交渉を期限どおり有利に進めるため、カナダなど後発の参加国を「最恵国待遇」が受けられない、不利な立場の扱いにしたとみられる。
<TPP交渉参加国> 2006年、「P4」と呼ばれたシンガポールとニュージーランド、チリ、ブルネイによる4カ国の経済連携協定(EPA)が発効。これに米国、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアが10年に加わり、9カ国に拡大した。その後、カナダとメキシコも参加を表明し、12年10月の協議から11カ国で交渉している。
Wednesday, February 13, 2013
キアロスタミ特集@リンカーンセンター
リンカーンセンターでキアロスタミ特集やってる。で、『クローズ・アップ』を久々に観て来たんだが、全編興奮しっぱなし。やはり映画史に残る大傑作である。事件の本物の当事者をキャストに再現をやっちゃうって、悪魔的な思いつきだが天才過ぎる。
特集2本目は『そして人生は続く』を10年ぶりくらいに観た。オンボロ車で地震の被災地に人探しに行く図は、人生のメタファー。被災地を撮ってるのに、終始あっけらかんと楽観的なのは、紋切り型に決してはまらないキアロスタミならではの凄さ。
目の前にある状況をそのまま借りてフィクションの中に落とし込んでいくことにかけて、キアロスタミ以上に上手い監督を知らない。ドキュメンタリーを撮ることで技量と感性を磨いたのだろう。
それにしても、まだ瓦礫も片付いていない被災地で、あんな映画を撮ってしまうキアロスタミも、撮影に協力する地元の人たちも、ホント凄い。日本だったら、「不謹慎」という言葉が撮る側にも撮られる側にも浮かんで、絶対に実現しなかったと思う。
しかし、出来た映画は全く不謹慎ではないどころか、当時のイランの様子を後世に伝える優れた記録であると同時に、「生きること」の本質的で普遍的な部分を鮮やかにとらえているわけで、やはり芸術の力とは信じてよいものなのである。
http://www.filmlinc.com/films/series/a-close-up-of-abbas-kiarostami
特集2本目は『そして人生は続く』を10年ぶりくらいに観た。オンボロ車で地震の被災地に人探しに行く図は、人生のメタファー。被災地を撮ってるのに、終始あっけらかんと楽観的なのは、紋切り型に決してはまらないキアロスタミならではの凄さ。
目の前にある状況をそのまま借りてフィクションの中に落とし込んでいくことにかけて、キアロスタミ以上に上手い監督を知らない。ドキュメンタリーを撮ることで技量と感性を磨いたのだろう。
それにしても、まだ瓦礫も片付いていない被災地で、あんな映画を撮ってしまうキアロスタミも、撮影に協力する地元の人たちも、ホント凄い。日本だったら、「不謹慎」という言葉が撮る側にも撮られる側にも浮かんで、絶対に実現しなかったと思う。
しかし、出来た映画は全く不謹慎ではないどころか、当時のイランの様子を後世に伝える優れた記録であると同時に、「生きること」の本質的で普遍的な部分を鮮やかにとらえているわけで、やはり芸術の力とは信じてよいものなのである。
http://www.filmlinc.com/films/series/a-close-up-of-abbas-kiarostami
Monday, January 14, 2013
保坂展人『闘う区長』
保坂展人世田谷区長の『闘う区長』(集英社新書)を読んでいるのだが、非常に面白い。元社民党だし「革新」のイメージが強い人だが、「行政では継続性も大事なので95%は現状を引き継ぎ自分が変えるのは5%だけ」という方針を最初から打ち出している。橋下徹みたいな単なる壊し屋ではない。
それでも、東電の値上げや情報開示を巡るバトルなどは文字通り「闘って」いる。東電以外のPPSからの電力購入を行い区役所の電気料金を数千万円浮かせ、それを真似する自治体が続出して一種のPPSブームを起こしたことなどは、まさに「世田谷区から日本を変える」ような政治行動だと思った。
よく「日本は国の規模が大きすぎるので、小さい国のようには改革がなかなか進まない」という声が聞かれるが、世田谷区は人口88万人。まさに「小国」に匹敵する規模なので、日本全体を変えようとするよりも、ずっとやりやすい。『闘う区長』を読みながら、そのことを具体的に実感させられる。
とはいえ、日本という国は世田谷区のような自治体が多数集積してできているわけで、よい方に変わる自治体がたくさんできれば、結果的に日本全体が変わることになる。「日本を変える」というと、どうしても「国政を変える」に短絡しがちだけど、実は逆からのアプローチの方が効果的なんだと思った。
つまり「○○から日本を変える」という、よくあるスローガンは、実は正しいということだ。問題は、それが正しい道筋だと本当に信じて唱えている政治家は、実は少ないということ。橋下徹なども、大阪から日本を変えると言いながら、国を変えないと大阪が変わらないなどと矛盾したことを言っている。
興味深いのは、PPSからの電力購入のように画期的な政策を行うと、我も我もと真似する自治体がどんどん出て来ることだ。どの自治体も改善策を探している。だから効果的なモデルを示す自治体があれば、ヒット商品を真似する企業が続出するのと同じで、ぱっと広まる。この伝播力を侮ってはならない。
保坂区長の「95%は引き継ぎ、5%だけ変える」という方針は、彼を後押しした市民派や環境派の人々の多くにとっては、もしかしたら物足りないかもしれない。しかし、急激に変えようとすると、それだけ抵抗も大きい。世田谷区議会は自公が多数派だし。長い目で見守ることが大事だと思う。
http://www.amazon.co.jp/dp/408720667X
それでも、東電の値上げや情報開示を巡るバトルなどは文字通り「闘って」いる。東電以外のPPSからの電力購入を行い区役所の電気料金を数千万円浮かせ、それを真似する自治体が続出して一種のPPSブームを起こしたことなどは、まさに「世田谷区から日本を変える」ような政治行動だと思った。
よく「日本は国の規模が大きすぎるので、小さい国のようには改革がなかなか進まない」という声が聞かれるが、世田谷区は人口88万人。まさに「小国」に匹敵する規模なので、日本全体を変えようとするよりも、ずっとやりやすい。『闘う区長』を読みながら、そのことを具体的に実感させられる。
とはいえ、日本という国は世田谷区のような自治体が多数集積してできているわけで、よい方に変わる自治体がたくさんできれば、結果的に日本全体が変わることになる。「日本を変える」というと、どうしても「国政を変える」に短絡しがちだけど、実は逆からのアプローチの方が効果的なんだと思った。
つまり「○○から日本を変える」という、よくあるスローガンは、実は正しいということだ。問題は、それが正しい道筋だと本当に信じて唱えている政治家は、実は少ないということ。橋下徹なども、大阪から日本を変えると言いながら、国を変えないと大阪が変わらないなどと矛盾したことを言っている。
興味深いのは、PPSからの電力購入のように画期的な政策を行うと、我も我もと真似する自治体がどんどん出て来ることだ。どの自治体も改善策を探している。だから効果的なモデルを示す自治体があれば、ヒット商品を真似する企業が続出するのと同じで、ぱっと広まる。この伝播力を侮ってはならない。
保坂区長の「95%は引き継ぎ、5%だけ変える」という方針は、彼を後押しした市民派や環境派の人々の多くにとっては、もしかしたら物足りないかもしれない。しかし、急激に変えようとすると、それだけ抵抗も大きい。世田谷区議会は自公が多数派だし。長い目で見守ることが大事だと思う。
http://www.amazon.co.jp/dp/408720667X
Monday, December 31, 2012
ベアテ・シロタ・ゴードンさんについて
ベアテ・シロタ・ゴードンさんが亡くなった。僕が駆け出しのTVディレクターだった頃、アメリカのTVにConstitution Writerという肩書きで出演されてたのを観てビックリした。日本国憲法の草案を書いた人がそこにいるってことが衝撃だった。
すぐさま撮影を申し込み、『ニューヨーカーズ』というNHK衛星第1の番組で取り上げさせてもらった。20分の軽めのミニ・ドキュメンタリー・シリーズに無理矢理押し込んだので、編集段階でNHKと物凄く揉めた。尺も短いし十分なことはできなかったけれど、僕にとっては入魂の一作である。
ベアテさんの父親はレオ・シロタという世界的なピアニスト。ベアテさんは子供のころ家族で日本に住んでいた。だがアメリカに留学中に太平洋戦争が勃発。ベアテさんは、日本に残してきた音信不通の両親に会いたい一心で、敗戦後GHQにスタッフとして志願した。それが唯一、日本に入る手段だった。
GHQの一員として来日したベアテさんは、やがて日本国憲法の草案を書くチームに配属された。当時彼女は22歳。唯一の女性。戦前の日本で女性が虐げられているのを目の当たりにしていたため、女性の権利を憲法に盛り込もうと奮闘した。それは両性の本質的平等を定めた憲法第24条として結実した。
日本語が堪能なベアテさんは、GHQ草案を日本語に訳す作業や、日本政府との折衝での通訳としても活躍した。草案は1つ1つ日本側と協議され、両性の本質的平等を定めた第24条については日本側から「日本文化に合わない」と激しい抵抗を受けたそうだ。
紛糾の末、最後はケーディス大佐が「この条文はベアテが書いた。彼女に免じて受け入れないか?」と日本側に提案した。ベアテさんと緊密な交流があった日本側は、結局はそのひと言が決め手になって受け入れたそうだ。因みに両性の本質的平等という概念は、合衆国憲法にもない先進的なアイデアである。
「日本国憲法はアメリカに押し付けられた憲法だから改憲が必要だ」という声が高まっているが、僕は押し付けられて良かったと思っている。少なくとも「婚姻における両性の本質的平等」は無理にでもネジ込んでもらって良かった。あれがなかったら、日本の女性は今よりも不利な立場に置かれただろう。
そもそも、GHQが草案を書くことになったのも、最初に日本側が出して来た新憲法案が大日本帝国憲法とほぼ同じだったからである。GHQが日本の草案をそのまま受け入れていたら、戦後の日本の民主主義はあり得なかった。
無論、GHQに圧力を受けず、最初から日本政府が自主的に民主的な憲法を書けたのなら、それほど素晴らしいことはないだろう。だが、押し付けられた日本国憲法と、自主的に書いた「大日本帝国憲法モドキ」のどちらが望ましいかといえば、圧倒的に前者であろう。
ベアテさんのご冥福をお祈りするとともに、「日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい」という遺言を、重く受け止めている。
すぐさま撮影を申し込み、『ニューヨーカーズ』というNHK衛星第1の番組で取り上げさせてもらった。20分の軽めのミニ・ドキュメンタリー・シリーズに無理矢理押し込んだので、編集段階でNHKと物凄く揉めた。尺も短いし十分なことはできなかったけれど、僕にとっては入魂の一作である。
ベアテさんの父親はレオ・シロタという世界的なピアニスト。ベアテさんは子供のころ家族で日本に住んでいた。だがアメリカに留学中に太平洋戦争が勃発。ベアテさんは、日本に残してきた音信不通の両親に会いたい一心で、敗戦後GHQにスタッフとして志願した。それが唯一、日本に入る手段だった。
GHQの一員として来日したベアテさんは、やがて日本国憲法の草案を書くチームに配属された。当時彼女は22歳。唯一の女性。戦前の日本で女性が虐げられているのを目の当たりにしていたため、女性の権利を憲法に盛り込もうと奮闘した。それは両性の本質的平等を定めた憲法第24条として結実した。
日本語が堪能なベアテさんは、GHQ草案を日本語に訳す作業や、日本政府との折衝での通訳としても活躍した。草案は1つ1つ日本側と協議され、両性の本質的平等を定めた第24条については日本側から「日本文化に合わない」と激しい抵抗を受けたそうだ。
紛糾の末、最後はケーディス大佐が「この条文はベアテが書いた。彼女に免じて受け入れないか?」と日本側に提案した。ベアテさんと緊密な交流があった日本側は、結局はそのひと言が決め手になって受け入れたそうだ。因みに両性の本質的平等という概念は、合衆国憲法にもない先進的なアイデアである。
「日本国憲法はアメリカに押し付けられた憲法だから改憲が必要だ」という声が高まっているが、僕は押し付けられて良かったと思っている。少なくとも「婚姻における両性の本質的平等」は無理にでもネジ込んでもらって良かった。あれがなかったら、日本の女性は今よりも不利な立場に置かれただろう。
そもそも、GHQが草案を書くことになったのも、最初に日本側が出して来た新憲法案が大日本帝国憲法とほぼ同じだったからである。GHQが日本の草案をそのまま受け入れていたら、戦後の日本の民主主義はあり得なかった。
無論、GHQに圧力を受けず、最初から日本政府が自主的に民主的な憲法を書けたのなら、それほど素晴らしいことはないだろう。だが、押し付けられた日本国憲法と、自主的に書いた「大日本帝国憲法モドキ」のどちらが望ましいかといえば、圧倒的に前者であろう。
ベアテさんのご冥福をお祈りするとともに、「日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい」という遺言を、重く受け止めている。
![]() |
| 1999年、『ニューヨーカーズ』撮影時に映したスナップ。左から、あの伝説的舞踏家の大野一雄さん、ベアテ・シロタ・ゴードンさん、そして僕。 まだ29歳か30歳。大野さんをNYのダンス界に最初に紹介したのは、ベアテさんだった。撮影期間中にちょうど大野さんがNYに公演でこられていて、他界したベアテさんのお母さんのために踊ってくださった。今考えると奇跡的な番組だ。 |
Monday, December 10, 2012
自民党改憲案は「憲法の破棄」である。
自民党の改憲案について、何が一番問題なのか、僕なりの見解を下に記したい。
天賦人権説とは、平たく言えば、男も女も異性愛者も同性愛者も健康な人も病気の人も障害のある人もない人も子供も老人も右翼も左翼もアナーキストも、生まれながらに人権がある、というもの。
自民党は改憲案でそれを公式に否定し、義務とセットにした。つまり義務が果たせない人間には人権がない、と。
[自民改憲案]第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
更に自民党改憲案は、人権を制限するものとして現行憲法にある「公共の福祉」を書き換え、「公益及び公の秩序」とした。
「公共の福祉」とは、Aさんの人権が制限されるのはBさんの人権と衝突する場合のみ、という考え方。それに対し「公益及び公の秩序」とは社会や国の利益と秩序を指す。
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.html
言葉を言い換えただけじゃないかと疑う人は、自民党改憲案のQ&Aを読むんでください。
「「公共の福祉」という文言を「公益及 び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」
http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf
自民党改憲案のQ&Aには次のような言い訳も載っている。
「なお「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、 当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません」。
しかし、他人への迷惑を心配するなら、まさに「公共の福祉」で制約すればよい。明らかなごまかしである。
つまり自民党の改憲案では、平たく言うと国家の利益や秩序のために個人の人権を制約できることになる。政府が考える「国益」に反する行動や集会や映画や演劇や論文や詩や研究や教育や法律は、憲法の名の下にすべて違法化できる。改憲案の起草者はそのことに極めて自覚的であり、確信犯である。
したがってこの条文が意味するところは、もはや明らかだろう。
[自民改憲案]第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。 2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
この条文の意味も明確だろう。
[自民改憲案]第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
個人の財産すら、国が国益を理由に自由に没収できる。
[自民改憲案]第二十九条 財産権は、保障する。 2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。
自民改憲案では、拷問及び残虐な刑罰も「絶対に」禁じるわけではない。
[現行憲法]第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
→
[自民改憲案]第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する。
自民改憲案では、次の条文も丸ごと削除された。
[現行憲法] 第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
極めつけはコレ。
[現行憲法]第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
→
[自民改憲案]第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
憲法が縛る対象が、権力者ではなく国民になっている。これは立憲主義の明確な否定であり、憲法が憲法ではなくなっている。
つまり、自民党改憲案は「憲法改定」などという生易しいものではない、それは「憲法破棄」と呼べるものなのである。
自民党改憲案の全文(PDF)
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf
自民党は改憲案でそれを公式に否定し、義務とセットにした。つまり義務が果たせない人間には人権がない、と。
[自民改憲案]第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
更に自民党改憲案は、人権を制限するものとして現行憲法にある「公共の福祉」を書き換え、「公益及び公の秩序」とした。
「公共の福祉」とは、Aさんの人権が制限されるのはBさんの人権と衝突する場合のみ、という考え方。それに対し「公益及び公の秩序」とは社会や国の利益と秩序を指す。
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.html
言葉を言い換えただけじゃないかと疑う人は、自民党改憲案のQ&Aを読むんでください。
「「公共の福祉」という文言を「公益及 び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」
http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf
自民党改憲案のQ&Aには次のような言い訳も載っている。
「なお「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、 当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません」。
しかし、他人への迷惑を心配するなら、まさに「公共の福祉」で制約すればよい。明らかなごまかしである。
つまり自民党の改憲案では、平たく言うと国家の利益や秩序のために個人の人権を制約できることになる。政府が考える「国益」に反する行動や集会や映画や演劇や論文や詩や研究や教育や法律は、憲法の名の下にすべて違法化できる。改憲案の起草者はそのことに極めて自覚的であり、確信犯である。
したがってこの条文が意味するところは、もはや明らかだろう。
[自民改憲案]第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。 2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
この条文の意味も明確だろう。
[自民改憲案]第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
個人の財産すら、国が国益を理由に自由に没収できる。
[自民改憲案]第二十九条 財産権は、保障する。 2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。
自民改憲案では、拷問及び残虐な刑罰も「絶対に」禁じるわけではない。
[現行憲法]第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
→
[自民改憲案]第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する。
自民改憲案では、次の条文も丸ごと削除された。
[現行憲法] 第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
極めつけはコレ。
[現行憲法]第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
→
[自民改憲案]第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
憲法が縛る対象が、権力者ではなく国民になっている。これは立憲主義の明確な否定であり、憲法が憲法ではなくなっている。
つまり、自民党改憲案は「憲法改定」などという生易しいものではない、それは「憲法破棄」と呼べるものなのである。
自民党改憲案の全文(PDF)
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf
Sunday, December 09, 2012
モジモジ先生の逮捕と自民党の改憲案が示唆するもの
モジモジ先生が逮捕されたことがTLで騒がれているが、伝えられる状況が正しければ、現行憲法では起訴までは不可能。だが、自民改憲案の下では、先生が瓦礫に反対しただけで「公益及び公の秩序」を乱した罪で逮捕・起訴・懲役も可能だ。普段僕らは意識しないが、我々は憲法によって守られている。
自民党の改憲案のように「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に書き換えられてしまうと、どうなるか。治安維持法のような法律が合憲とされる。するとどうなるか。小林多喜二がそうされたように、政府を批判する「思想犯」は堂々と逮捕・勾留され、拷問され、合法的に殺されかねない。
自民改憲案の下で治安維持法のような法律ができれば、僕のこのブログだって「公益及び公の秩序」を乱すものと認定され、逮捕・勾留・起訴されるだろう。そして有罪になる。僕はそんな世の中はまっぴらご免なので、こうして細々とポストしている。
橋下による大阪市職員に対する思想調査だって、現行の日本国憲法の下では明らかに憲法違反だから破棄されたが、自民党の改憲案が通ってしまえば、合憲だ。何の問題もない。抗議すらできない。抗議したら逮捕されるから。
恐ろしいのは、自民党は既にそのような改憲案を作っていて、その上で、今回の衆院選で過半数を獲ろうとしていることだ。これに維新の会でも加われば、下手をすれば衆院の3分の2を占める。すると改憲も具体的な政治課題になりかねない。改憲への世間のアレルギーも薄い。状況は楽観できない。
(ツイートを再構成してまとめました)
自民党の改憲案のように「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に書き換えられてしまうと、どうなるか。治安維持法のような法律が合憲とされる。するとどうなるか。小林多喜二がそうされたように、政府を批判する「思想犯」は堂々と逮捕・勾留され、拷問され、合法的に殺されかねない。
自民改憲案の下で治安維持法のような法律ができれば、僕のこのブログだって「公益及び公の秩序」を乱すものと認定され、逮捕・勾留・起訴されるだろう。そして有罪になる。僕はそんな世の中はまっぴらご免なので、こうして細々とポストしている。
橋下による大阪市職員に対する思想調査だって、現行の日本国憲法の下では明らかに憲法違反だから破棄されたが、自民党の改憲案が通ってしまえば、合憲だ。何の問題もない。抗議すらできない。抗議したら逮捕されるから。
恐ろしいのは、自民党は既にそのような改憲案を作っていて、その上で、今回の衆院選で過半数を獲ろうとしていることだ。これに維新の会でも加われば、下手をすれば衆院の3分の2を占める。すると改憲も具体的な政治課題になりかねない。改憲への世間のアレルギーも薄い。状況は楽観できない。
(ツイートを再構成してまとめました)
Tuesday, December 04, 2012
衆院選と自民党
約4か月ぶりに、ニューヨークに戻りました。と思ったら日本では衆院選が始まりましたね。
自民党が支持率でトップを維持していることが気がかりです。なぜなら、安倍晋三総裁は原発推進と改憲を掲げているからです。
安倍氏「原発新設も」自民総裁 規制委基準満たせば
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012120102000094.html
改憲を次期衆院選の争点に 消極的な議員は退場を、自民・安倍総裁
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120930/stt12093019260008-n1.htm
しかも、改憲の内容は事実上の「基本的人権の剥奪」というとんでもないものを含んでいます。
http://togetter.com/li/296331
民主党にがっかりして、今度は自民党に、と考える気持ちは分からないではありません。しかし思い出して欲しいのですが、3年前、自民党があまりにダメだから、政権交代が起きたのです。そして、自民党が野党時代に反省して良くなっているのならいいのですが、実際には、地震国日本を原発だらけにした反省もなければ、思想的には極右化傾向も強いという点で、劣化すらしているように見えます。
そんな自民党が衆院選の支持率でリードしている。この現実が、非常に気がかりです。
自民党が支持率でトップを維持していることが気がかりです。なぜなら、安倍晋三総裁は原発推進と改憲を掲げているからです。
安倍氏「原発新設も」自民総裁 規制委基準満たせば
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012120102000094.html
改憲を次期衆院選の争点に 消極的な議員は退場を、自民・安倍総裁
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120930/stt12093019260008-n1.htm
しかも、改憲の内容は事実上の「基本的人権の剥奪」というとんでもないものを含んでいます。
http://togetter.com/li/296331
民主党にがっかりして、今度は自民党に、と考える気持ちは分からないではありません。しかし思い出して欲しいのですが、3年前、自民党があまりにダメだから、政権交代が起きたのです。そして、自民党が野党時代に反省して良くなっているのならいいのですが、実際には、地震国日本を原発だらけにした反省もなければ、思想的には極右化傾向も強いという点で、劣化すらしているように見えます。
そんな自民党が衆院選の支持率でリードしている。この現実が、非常に気がかりです。
Wednesday, November 28, 2012
Theatre 1&2 won the Young Jury's prize in Nantes 『演劇1・2』、ナントで「若い審査員賞」受賞!
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| Photo by Festival des 3 Continents |
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| Photo by Festival des 3 Continents |
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| Photo by Festival des 3 Continents |
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| photo by Sayaka Atlan |
【2012年度(第34回)ナント三大陸映画祭】コンペティション部門にて、『演劇1』『演劇2』が「若い審査員賞」を受賞いたしました。「若い審査員賞」は、映画を学んでいる学生シネフィルを中心とした、18歳から23歳の7人で構成される審査員団によって選ばれる賞です。ナント三大陸映画祭は、ホウ・シャオ・シェンやキアロスタミを見出したことなどで知られています。
僕のコメント「若い世代の映画離れが進むのを年々目の当たりにしつつ、一人の映画を愛する者としてなんとかしなければ、と思っていた矢先の「若い審査員賞」受賞なので、本当に嬉しいです。最近の若者は集中力が続かないなんて、誰が言ったのでしょうか(笑)。作り手が本気で作ったものは、若い世代にも本気で受け止めてもらえる証拠だと解釈しました。これからも容赦せず、力いっぱいの豪速球を投げつづけたいと思います」
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Thursday, November 22, 2012
宇都宮健児氏を支持します
僕はこれまで、特定の候補者や政党に対して支持を公に表明したりすることは控えてきたのですが、近年の日本の政治の危機的状況に鑑み、はっきりと声を上げていく、一市民としての責任があるとの思いを強めています。そこで敢えて表明します。
都知事選に立候補予定の宇都宮健児氏を支持します。以下、「人にやさしい東京をつくる会」に寄せた僕のコメントです。
多重債務者の救済、反貧困、そして今回の都知事選への立候補。
弁護士・宇都宮健児氏は、カネにならず損だけれども、私たちの社会にどうしても必要な役目を黙々と引き受ける方だとお見受けする。
これで、脱原発を望む人にも、教育や福祉の立て直しを望む人にも、表現の自由や人権を守り育てたいと願う人にも、石原前都知事の暴政にノーを突き付けたい人にも、貴重な受け皿ができた。
ありがたい。
選挙の候補者に対してこんなに素直な感謝の念を抱くのは珍しい。海外在住のため都知事選へ投票できないのが悔やしい。
できるなら、1億票くらい投じたい。
多重債務者の救済、反貧困、そして今回の都知事選への立候補。
弁護士・宇都宮健児氏は、カネにならず損だけれども、私たちの社会にどうしても必要な役目を黙々と引き受ける方だとお見受けする。
これで、脱原発を望む人にも、教育や福祉の立て直しを望む人にも、表現の自由や人権を守り育てたいと願う人にも、石原前都知事の暴政にノーを突き付けたい人にも、貴重な受け皿ができた。
ありがたい。
選挙の候補者に対してこんなに素直な感謝の念を抱くのは珍しい。海外在住のため都知事選へ投票できないのが悔やしい。
できるなら、1億票くらい投じたい。
想田和弘(映画作家)
Tuesday, November 20, 2012
日本維新の会の台頭と「戦争とファシズム映画祭」
石原と橋下が野合した政党が一定の支持率を獲得している。大阪で11/30から12/2まで開く「戦争とファシズム映画祭」を開催する意味が強まっている。「血を流す覚悟」を語るのは、合計9時間半の超大作戦争映画『人間の條件』を観てからにしてほしい。
「戦争とファシズム映画祭」のスタッフは、僕も含めて全員ボランティア。湯浅誠さんに誘われて、ささやかながら自分にできることは?と考えて企画し、赤字分を湯浅さんのAIBOが補ってくるからこそ実現した。大勢の皆さんに参加して欲しい。
「戦争とファシズム映画祭」のスタッフは、僕も含めて全員ボランティア。湯浅誠さんに誘われて、ささやかながら自分にできることは?と考えて企画し、赤字分を湯浅さんのAIBOが補ってくるからこそ実現した。大勢の皆さんに参加して欲しい。
以下、それぞれの映画についての僕のコメント。
『人間の條件』の全編9時間半が上映される機会は、極めて貴重。DVDも絶版。レンタルもほとんど出ていない。たぶんこんな映画は今や世界中の誰にも作れない。万障繰り合わせて観て下さい。11/30(金)には主演の仲代達矢さんも来て下さいます。
『カーネーションの卵』は、大人たちの戦争を子供たちの視点で描く。静謐な映像が美しい。アゴスティ監督の作品を観る機会は貴重。DVDも出てない。トークでは、ご自身の祖父も危うくファシストに銃殺されそうになったという翻訳家の野村雅夫氏と語り合う。
反体制的な映画を撮った罪で20年間の映画制作禁止と禁固6年を言い渡されたパナヒ監督の『これは映画ではない』。今や日本の表現者にとっても、彼の受難は全く人ごとではない。衝撃のラストショットも見所。トークにはイランの専門家・鈴木均氏。
教師を独裁者に見立ててルールや振る舞いを変えていくことで、制御不可能なファシズムの熱狂が形成されていく過程を描いた『THE WAVE』。ドイツが舞台なのに、大阪の状況と似ていることが多くてびっくり。ゲストにはナチズムに詳しい池田浩士氏。
オーソン・ウェルズが「ノアの方舟に映画を1本だけ載せるとしたら、この映画を選ぶ」と言った名作『大いなる幻影』。1937年に作られたが、全く古くならないどころか、今こそ意味を持つ作品。トークゲストは昔右翼団体に所属した経験もある雨宮処凛さん。
太平洋戦争中に日本軍が支配したパプア・ニューギニアの女性たちの生々しい証言。一方で「慰安所などなかった」と言う元日本軍の男性。正視したくない過去を否認する元日本軍男性の言葉が、橋下発言などとシンクロする。ゲストに本作の監督・関口祐加氏。
1974年製作のベトナム戦争についての傑作ドキュメンタリーだが、今観るとイラクやアフガンを連想してしまう。反戦運動に火をつけ『地獄の黙示録』や『プラトーン』にも影響。ゲストは「たね蒔きジャーナル」存続運動にも関わった放送作家の石井彰氏。
『ゆきゆきて、神軍』は、カメラを武器に積極的に対象へ介入していく、原一男流アクション・ドキュメンタリーの真骨頂。マイケル・ムーアのアポ無し突撃スタイルにも影響を与えた超問題作。原一男監督ご本人がゲスト。35ミリで観れるのはめっちゃ貴重!
併映短編作品『大阪!なくなる?ツアー』シリーズも充実している。橋下市長から“ムダ”と名指しされ、廃止の検討が進められている公共施設。でも本当になくしてしまっていいの?大阪生まれの大学生とフランスからの留学生が若い好奇心で訪ねてみた。
『人間の條件』の全編9時間半が上映される機会は、極めて貴重。DVDも絶版。レンタルもほとんど出ていない。たぶんこんな映画は今や世界中の誰にも作れない。万障繰り合わせて観て下さい。11/30(金)には主演の仲代達矢さんも来て下さいます。
『カーネーションの卵』は、大人たちの戦争を子供たちの視点で描く。静謐な映像が美しい。アゴスティ監督の作品を観る機会は貴重。DVDも出てない。トークでは、ご自身の祖父も危うくファシストに銃殺されそうになったという翻訳家の野村雅夫氏と語り合う。
反体制的な映画を撮った罪で20年間の映画制作禁止と禁固6年を言い渡されたパナヒ監督の『これは映画ではない』。今や日本の表現者にとっても、彼の受難は全く人ごとではない。衝撃のラストショットも見所。トークにはイランの専門家・鈴木均氏。
教師を独裁者に見立ててルールや振る舞いを変えていくことで、制御不可能なファシズムの熱狂が形成されていく過程を描いた『THE WAVE』。ドイツが舞台なのに、大阪の状況と似ていることが多くてびっくり。ゲストにはナチズムに詳しい池田浩士氏。
オーソン・ウェルズが「ノアの方舟に映画を1本だけ載せるとしたら、この映画を選ぶ」と言った名作『大いなる幻影』。1937年に作られたが、全く古くならないどころか、今こそ意味を持つ作品。トークゲストは昔右翼団体に所属した経験もある雨宮処凛さん。
太平洋戦争中に日本軍が支配したパプア・ニューギニアの女性たちの生々しい証言。一方で「慰安所などなかった」と言う元日本軍の男性。正視したくない過去を否認する元日本軍男性の言葉が、橋下発言などとシンクロする。ゲストに本作の監督・関口祐加氏。
1974年製作のベトナム戦争についての傑作ドキュメンタリーだが、今観るとイラクやアフガンを連想してしまう。反戦運動に火をつけ『地獄の黙示録』や『プラトーン』にも影響。ゲストは「たね蒔きジャーナル」存続運動にも関わった放送作家の石井彰氏。
『ゆきゆきて、神軍』は、カメラを武器に積極的に対象へ介入していく、原一男流アクション・ドキュメンタリーの真骨頂。マイケル・ムーアのアポ無し突撃スタイルにも影響を与えた超問題作。原一男監督ご本人がゲスト。35ミリで観れるのはめっちゃ貴重!
併映短編作品『大阪!なくなる?ツアー』シリーズも充実している。橋下市長から“ムダ”と名指しされ、廃止の検討が進められている公共施設。でも本当になくしてしまっていいの?大阪生まれの大学生とフランスからの留学生が若い好奇心で訪ねてみた。
Sunday, October 28, 2012
橋下クンとライオンキングと文楽
朝からまたしても橋下クンの無知でトンチンカンなツイートがTLに流れてきた。文楽とライオンキングのアーツマネジメントを同じ土俵で比べちゃうのは、たぶん彼が文楽とライオンキングしか観たことないから。芸術のことなんて何にも知らないくせに偉そうなことばかり。
「学者は政治の実務を何も知らないくせに空論を振り回す」と言って批判するくせに、自分は芸術のことなんて何も知らないくせに、空論を振り回すどころか、現場に介入しまくる。そのブーメランぶりに本人も支持者も気づいていない。まあ、芸術の問題に限らず、いつもそうだけどね。
そもそも、ライオンキングが文楽を参考にできたのだとしたら、それは文楽が伝統を守ってきたから。もし橋下クンが勧めるように文楽がライオンキングみたいなポップカルチャーに擦り寄って変質していたら、ライオンキング自体も存在し得なかったってこと。なぜそんな簡単なことが分からんのか分からん。
平田オリザのロボット演劇も文楽の人形の動かし方を参考にして作られた。英大夫さん曰く、あのマーサ・グラハムも文楽のファンだった。古典と言うのは、最先端の芸術家が常に参照できる知恵と蓄積の宝庫なんです。その宝庫そのものが、現代のポップカルチャーに擦り寄ってしまったら意味がないでしょ。
ライオンキングを絶賛するなら、なぜそれを生み出すことに多大な貢献をした文楽を守らないのか。ライオンキングのチケットが10万枚売れるのも、ある意味、文楽のお陰だろうに。橋下クンの主張は、支離滅裂すぎるんだよ。
古典っていうのは、現代の最先端の芸術家にとっては、栄養分を大量に含んだ土壌のようなものなんです。それなしには美しい花など咲かせない。映画の世界でも、チャップリンやオーソン・ウェルズや小津を観ずに作品作ってる作家なんていませんよ。
橋下クンの主張は、黒澤明の映画に影響を受けてルーカスが作った『スター・ウォーズ』に魅了され、「『スター・ウォーズ』の観客動員数は凄い。黒澤はルーカスを見習え」と言っているようなもの。アホ臭過ぎて普通だったらスルーしたいよ。だけど彼は権力者だからいちいち反論してます。
「学者は政治の実務を何も知らないくせに空論を振り回す」と言って批判するくせに、自分は芸術のことなんて何も知らないくせに、空論を振り回すどころか、現場に介入しまくる。そのブーメランぶりに本人も支持者も気づいていない。まあ、芸術の問題に限らず、いつもそうだけどね。
そもそも、ライオンキングが文楽を参考にできたのだとしたら、それは文楽が伝統を守ってきたから。もし橋下クンが勧めるように文楽がライオンキングみたいなポップカルチャーに擦り寄って変質していたら、ライオンキング自体も存在し得なかったってこと。なぜそんな簡単なことが分からんのか分からん。
平田オリザのロボット演劇も文楽の人形の動かし方を参考にして作られた。英大夫さん曰く、あのマーサ・グラハムも文楽のファンだった。古典と言うのは、最先端の芸術家が常に参照できる知恵と蓄積の宝庫なんです。その宝庫そのものが、現代のポップカルチャーに擦り寄ってしまったら意味がないでしょ。
ライオンキングを絶賛するなら、なぜそれを生み出すことに多大な貢献をした文楽を守らないのか。ライオンキングのチケットが10万枚売れるのも、ある意味、文楽のお陰だろうに。橋下クンの主張は、支離滅裂すぎるんだよ。
古典っていうのは、現代の最先端の芸術家にとっては、栄養分を大量に含んだ土壌のようなものなんです。それなしには美しい花など咲かせない。映画の世界でも、チャップリンやオーソン・ウェルズや小津を観ずに作品作ってる作家なんていませんよ。
橋下クンの主張は、黒澤明の映画に影響を受けてルーカスが作った『スター・ウォーズ』に魅了され、「『スター・ウォーズ』の観客動員数は凄い。黒澤はルーカスを見習え」と言っているようなもの。アホ臭過ぎて普通だったらスルーしたいよ。だけど彼は権力者だからいちいち反論してます。
(ツイートをまとめました)
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