『Atプラス』(第3号)という硬派で面白い雑誌に文章を寄せました。今号のテーマは「アートと活動」だそうです。そこで僕は「ドキュメンタリーにメッセージは必要か?」と題して、ドキュメンタリーとプロパガンダについて書きました。よかったらお読み下さいませ。
http://www.ohtabooks.com/publish/2010/02/06112237.html
以下は、本稿の出だしを抜粋したものです。
ドキュメンタリーにメッセージは必要か?
想田和弘
「この映画に込めたメッセージは何ですか?」
自民党候補者による選挙運動の内幕を追った『選挙』や、岡山市にある精神科診療所の世界を描いた『精神』を公開する過程で、このような質問をジャーナリストや観客から何度も受けてきた。
彼らの質問からは、『選挙』や『精神』のごとき“社会派”のドキュメンタリーには、当然、作者の高邁なる主義主張や啓蒙的なメッセージが込められているハズだろうという、暗黙の前提のようなものが透けてみえる。
いや、もしかしたら、彼らはそれが社会派の映画だからメッセージを期待したわけではないのかもしれない。それが恋愛映画であろうが、小説だろうが、演劇だろうが、舞踊だろうが、およそ表現と名のつくものには作者の「メッセージ=言いたいこと、伝えたいこと」があるはずだと、信じ込んでいるだけなのかもしれない。
いずれにせよ、彼らは目をキラキラさせて、唾をごくりと飲み込んで、あたかも問題の核心に触れるがごとく、作者からの決定的な答えを期待する。「さあ、要するに言いたいことは何ですか?正解は何ですか?」と。
けれども、僕は彼らの期待に応えることができないし、応えたくない。いや、実を言えば、作品がメッセージを発することを注意深く回避しながら映画を作っている。作品にメッセージを込めるのは、危険だとさえ思っている。だから僕の返答は決まっている。
「僕の映画にメッセージはないですよ。言いたいことも、結論もありません」
ドキュメンタリー作家=活動家説
すると質問者は、かすかな狼狽を顔に表す。それまで一歩一歩登ってきた梯子をいきなり外され、身体が宙にふわっと浮いてしまったときのような、頼りない、裏切られたような表情である。
確かにドキュメンタリー映画には、歴史的にも、今日的にも、メッセージ性の強いものが多い。
実際、僕が住むアメリカなどでは特に、ドキュメンタリーの作り手は、作品によって世の中の矛盾や不正、不公平を告発し、“社会的正義”を希求して闘わなければならないと、多くの作り手が考えているようにみえる。ドキュメンタリー作家=活動家説である。
この説を採用する作り手たちは、自らの作品を社会運動の手段として考える。革命家が銃を手に取るように、カメラを武器として使う。したがって、作品の完成度や芸術性などよりも、それがどのようなメッセージを持ち、いかに観客を啓蒙し、目覚めさせ、政治的・社会的目標に近づけるかということが、重要視されるのである。
そのような作品の最大の特徴は、作品に使われるあらゆる映像や音声が、単純で明快なメッセージの正しさを立証し、観客に印象づけるために使われていることである。だから、映画を観終わった観客は、作品の趣旨を一言か二言で総括できてしまうし、作品が訴えかけるものが何であるかは明白すぎて、作者に改めて尋ねる必要もない。
例えば、マイケル・ムーアの『華氏九一一』(〇四年、アメリカ)を観て、「ジョージ・W・ブッシュはやっぱり凄い人だなあ」と思う人は、たぶんほとんどいないだろうし、そういう人が大勢いたとしたら、ムーアは作品の目的を達成できなかったことになる。同作は、ブッシュを徹底的にこき下ろして、大統領選での再選を阻むためにこそ作られた作品だからである。
同様に、アル・ゴアの『不都合な真実』(〇六年、アメリカ)を観て、「地球温暖化とか言ってるけど、この映画を見る限り大丈夫そうじゃん」と思う人は少ないだろうし、モーガン・スパーロックの『スーパーサイズ・ミー』(〇四年、アメリカ)を観て、ビッグ・マックを食べたくなる人は稀だろう。また、ルイ・サホイヤスの『ザ・コーヴ』(〇九年、アメリカ)を観て、和歌山県で行われているイルカ漁を「素晴らしい日本の伝統文化だ」と思う人も、たぶんいない。いや、いたら作者としては困るのである。
これらの作品の最上位には、作り手が考えるところの「メッセージ」や「正しさ」が鎮座している。そして、映像はそれを観客の頭に叩き込み、注入するための道具として、利用されるのである。
…以下は『At プラス』誌でお読み下さい