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Latest documentary "Oyster Factory" has been officially invited to Locarno International Film Festival 2015! 最新作『牡蠣工場』がロカルノ国際映画祭へ正式招待されました!
Wednesday, September 10, 2008
MENTAL at Pusan Film Festival
I'm excited to announce that my newly completed observational documentary MENTAL (Original title: SEISHIN, 2008, 135 minutes, color) has been officially invited to the competition of "Wide Angle" section of Pusan International Film Festival to be held from October 2nd until 10th. It's going to be a world premiere. I will attend the festival and my screenings.
http://www.piff.org/eng/html/program/prog_view.asp?idx=13166&target=&c_idx=16&m_entry_year=2008#
MENTAL is a feature-length documentary that observes the complex world of an outpatient mental health clinic in Japan, interwoven with patients, doctors, staff, volunteers, and home-helpers, in cinema-verite style, without using narration, super-imposed titles, or music. The film breaks a major taboo against discussing mental illness prevalent in Japanese society, and captures the candid lives of people coping with suicidal tendencies, poverty, a sense of shame, apprehension, and fear of society.
The film has received some grant from Asian Network of Documentary (AND) fund managed by Pusan International Film Festival. I will attend the award ceremony to be held during the festival.
The official website for MENTAL will be uploaded soon.
If you have any questions, please e-mail me at soda@laboratoryx.us.
Thank you!
Kazuhiro Soda
SCREENING SCHEDULE AT PUSAN FILM FESTIVAL
Friday, Oct 3 at 8 PM
Monday, Oct 6 at 1:30 PM
COMMENTS ON MENTAL
This observational film by Soda really questions the conventional boundary that separates the mentally ill and healthy people.
- Naomi Kawase, Film Director
The uncontrollable nature of our SEISHIN, or mind, is depicted in its raw form.
- Yuna Chikushi, Artist
Watching MENTAL, I smiled every 5 minutes, and cried 3 times. Without a doubt, it is a masterpiece. It is meant for people who can't help revering the human soul that is formless and mysterious.
- Dr. Shuhei Oyama, Psychiatrist
The handling of the subjects in this documentary requires tremendous sensitivity from the filmmaker. Even using the style of cinema verite, the director successfully presented his subjects without exploitation.
- AND Fund, Pusan International Film Festival
『選挙』に続く観察映画第2弾として監督した『精神』(英語題名:MENTAL、2008年、135分、カラー) が、10月2日から10日まで行われる釜山国際映画祭に正式招待されることが決定しましたのでお知らせします。ワイドアングル・セクションのコンペ部門に出品されます。今回が世界で初めての上映になります。私も2日に現地入りし、舞台挨拶等を行います。
http://www.piff.org/eng/html/program/prog_view.asp?idx=13166&target=&c_idx=16&m_entry_year=2008#
『精神』は、岡山県にある精神科の診療所を舞台にした長編ドキュメンタリー映画。『選挙』同様、ナレーションやテロップによる説明、音楽を一切使わないスタイルで、心の病を患う当事者、医者、スタッフ、作業所、ホームヘルパー、ボランティア等が織りなす複雑な世界を描きました。心の病に関するタブーに敢えて挑戦し、自殺願望や幻覚や生活苦に悩む当事者の素顔に虚心坦懐に迫ったつもりです。
同作は、アジアのドキュメンタリー制作と流通を支援する、2008年釜山国際映画祭AND(Asian Network of Documentary)助成金を授与され、製作されました。来る釜山国際映画祭では、その授与式も開催されます。
http://and.piff.org/eng/html/projects/documentary_view.asp?section=AND&column=&searchString=&this_year=2008&gotoPage=1&idx=76
『精神』公式サイトは近日中に完成予定です。
お問い合わせ等はメールにていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
想田和弘
soda@laboratoryx.us
<釜山での『精神』上映日程>
10月3日(金) 20時〜
10月6日(月) 13時30分〜
<『精神』に寄せられたコメント>
精神病患者と健常者の境がわからない。その境のありように疑いを持つのは、想田観察映画の特性だ。
ー 河瀬直美(映画監督)
精神とは心、若しくは心の持ち方とあるけども、その収拾のつかなさがそのまま映し出されている。様々な対象を身に遠く近く感じつつ、時折横切る野良猫が風穴のようにも見えてくる。
ー 筑紫ゆうな(アーティスト)
同じ題材を扱った映画のうちこの映画は三指に入る。いや正確に言えば二指である。一本はワイズマンによって四十年前に作られた。どちらも限りない人間の精神の地平線を目指した傑作だと断言できる。ワイズマンの映画同様一度見たら決して夢に見ることはあっても忘れることは出来ない。しかしワイズマンの映画には感心し笑うことしかできなかったが、この映画のなかでは5分おきににやっと笑い、三度涙を禁じえなかった。あえて言うが、この映画は精神を病んだもののために作られたものではない。まして人の精神を裁く者のためにも作られてもいない。ただ人間の無形の心とその不思議に対し畏敬の念を禁じえないもののために捧げられた映画なのである。
ー 大山修平(精神科医)
Tuesday, September 09, 2008
観察映画の日々
7月から、平田オリザ氏と青年団の撮影が続いている。
比較的順調に進んでいるのであるが、にもかかわらず、つくづく撮影とは難しいものだと、思い知らされる毎日である。
僕の観察映画の方法は、構成表と呼ばれる台本を書かずに、行き当たりばったりで撮影することにその基本がある。だからといって、次に起きるであろうことを全く予想せずにカメラを回すことは不可能である。
例えば今回の撮影なら、何時からどこどこでXXの稽古がある、というくらいの情報がなければ、僕はその場に居合わすことすらできない。だから、最低限の予測は必要である。かといって、あまり事前に予測しすぎると、目の前で起きている予想外の面白さに気づくのが遅れ、撮り損なってしまう。例えば、これから稽古を撮るんだと身構えていると、稽古以外の興味深い事件が目の前で起きても、一瞬反応が遅れる。それで事件の始まり部分を撮り逃がし、あとで地団駄を踏む憂き目にあう。
これがナレーションのある普通のドキュメンタリーなら、たとえ事件の発端を撮れなかったとしても、言葉でいくらでも説明できるので問題ない。しかし観察映画ではナレーションを使わないのが大前提なので、最初を逃したら途中から撮ってもシーンの文脈が分かりづらくなり、結局使えないのが常である。
予測しないのも駄目。予測しすぎても駄目。それは、野球のバッティングにも似ている。ヒットを打つために、次の球種やコースを読むのは大事だけれど、山をかけすぎると予想外の球に空振りさせられる。そして天を仰ぐことになる。取り返しのつかない過ちを激しく後悔しながら。だから、凡打が続いた後にクリーンヒットが出たときには、計り知れない快感を覚える。
ちなみに、野球と違って映画には編集作業という強力な武器があるので、僕はヒットばかりをつなぎ合わせて作品に仕立て上げる。あたかも凡打など打たなかったかのような顔をして。それが映画のマジックである。
比較的順調に進んでいるのであるが、にもかかわらず、つくづく撮影とは難しいものだと、思い知らされる毎日である。
僕の観察映画の方法は、構成表と呼ばれる台本を書かずに、行き当たりばったりで撮影することにその基本がある。だからといって、次に起きるであろうことを全く予想せずにカメラを回すことは不可能である。
例えば今回の撮影なら、何時からどこどこでXXの稽古がある、というくらいの情報がなければ、僕はその場に居合わすことすらできない。だから、最低限の予測は必要である。かといって、あまり事前に予測しすぎると、目の前で起きている予想外の面白さに気づくのが遅れ、撮り損なってしまう。例えば、これから稽古を撮るんだと身構えていると、稽古以外の興味深い事件が目の前で起きても、一瞬反応が遅れる。それで事件の始まり部分を撮り逃がし、あとで地団駄を踏む憂き目にあう。
これがナレーションのある普通のドキュメンタリーなら、たとえ事件の発端を撮れなかったとしても、言葉でいくらでも説明できるので問題ない。しかし観察映画ではナレーションを使わないのが大前提なので、最初を逃したら途中から撮ってもシーンの文脈が分かりづらくなり、結局使えないのが常である。
予測しないのも駄目。予測しすぎても駄目。それは、野球のバッティングにも似ている。ヒットを打つために、次の球種やコースを読むのは大事だけれど、山をかけすぎると予想外の球に空振りさせられる。そして天を仰ぐことになる。取り返しのつかない過ちを激しく後悔しながら。だから、凡打が続いた後にクリーンヒットが出たときには、計り知れない快感を覚える。
ちなみに、野球と違って映画には編集作業という強力な武器があるので、僕はヒットばかりをつなぎ合わせて作品に仕立て上げる。あたかも凡打など打たなかったかのような顔をして。それが映画のマジックである。
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ドキュメンタリー論
Monday, September 08, 2008
働く日本人
日本に住んでる人は感じないのかもしれないけれど、たまに帰ってくると、日本人はなんてよく働くんだろうと感心させられる。いや、外国の人だって働く人は働くんだけど、日本人は報酬の高そうな人も低そうな人も、同じように一生懸命働くという印象がある。
例えば昨晩入ったうどん屋の店員さん。全部で20人くらいしか座れない小さなお店だけど、満員だとかなり忙しい。注文を聞いたり、料理を運んだり、会計をしたり、領収書を切ったり、盛りつけしたり、後片付けをしたり、料理を作る以外の仕事を彼女がすべて独りでこなしている。僕はカウンターに座ったので、彼女の一挙手一投足を観察できるのであるが、高度なマルチ・タスクをてきぱきと効率よく、パニックにも陥らずに、しかも丁寧にやってのける姿は感動的でさえあった。でも、店構えや値段から察するに、たぶん彼女はそう高い時給はもらっていないと思う。そして彼女のような働き手は、この国では別に珍しくもなんともない。
これがアメリカだったら、人は時給に応じた仕事しかしないのが普通だ。つまり時給700円の人は700円分しか仕事をしようとしないし、それが当然であるという姿勢。昨晩のうどん屋がアメリカにあったとしたら、あと二人は雇わないと普通に機能しないと思う。あるいは、「あと二人雇え」と現場が文句を言い、それが叶わなければ3人分の時給を要求するか、さっさと辞めていく。また、昨晩の店員さんのように仕事の出来る人は、すぐにもっと責任の重いポジションを与えられ昇給する。要するに純粋な資本主義では、仕事の内容と報酬の額は、基本的に一致するのである。
日本の場合は違う。報酬が低い人も、高い人と同じくらいの仕事の量と質を要求される。逆に言うと、いくら現場で一生懸命働いても、それがなかなか地位や給料に反映されない。雇う側や、お客さんにとっては天国のような仕組みだけれど、現場の労働者にかかる負担は並大抵ではない。
ここまで考えて、ニートと呼ばれる働きたくない人達が問題になっているのは、こういう風土に原因があるのではないかと思い至った。安い報酬でも一生懸命、長時間働くことを要求され、なかなか昇進も叶わない。もうすでにある程度の地位にある人ならいいのかもしれないけど、これから働き始めようという人には相当に厳しい現実だ。だから最初から働く気が失せてしまうのではないか。
まあ、だからといってアメリカ式が理想的かというと全然そうでもないから、難しい。時給が安いんだからと言わんばかりの横柄な態度で、全く働く気を感じさせない末端の労働者を毎日目にしていると、カネがすべてのこの社会は絶対におかしいと思わされる。
なかなかうまくはいかないものですね。
例えば昨晩入ったうどん屋の店員さん。全部で20人くらいしか座れない小さなお店だけど、満員だとかなり忙しい。注文を聞いたり、料理を運んだり、会計をしたり、領収書を切ったり、盛りつけしたり、後片付けをしたり、料理を作る以外の仕事を彼女がすべて独りでこなしている。僕はカウンターに座ったので、彼女の一挙手一投足を観察できるのであるが、高度なマルチ・タスクをてきぱきと効率よく、パニックにも陥らずに、しかも丁寧にやってのける姿は感動的でさえあった。でも、店構えや値段から察するに、たぶん彼女はそう高い時給はもらっていないと思う。そして彼女のような働き手は、この国では別に珍しくもなんともない。
これがアメリカだったら、人は時給に応じた仕事しかしないのが普通だ。つまり時給700円の人は700円分しか仕事をしようとしないし、それが当然であるという姿勢。昨晩のうどん屋がアメリカにあったとしたら、あと二人は雇わないと普通に機能しないと思う。あるいは、「あと二人雇え」と現場が文句を言い、それが叶わなければ3人分の時給を要求するか、さっさと辞めていく。また、昨晩の店員さんのように仕事の出来る人は、すぐにもっと責任の重いポジションを与えられ昇給する。要するに純粋な資本主義では、仕事の内容と報酬の額は、基本的に一致するのである。
日本の場合は違う。報酬が低い人も、高い人と同じくらいの仕事の量と質を要求される。逆に言うと、いくら現場で一生懸命働いても、それがなかなか地位や給料に反映されない。雇う側や、お客さんにとっては天国のような仕組みだけれど、現場の労働者にかかる負担は並大抵ではない。
ここまで考えて、ニートと呼ばれる働きたくない人達が問題になっているのは、こういう風土に原因があるのではないかと思い至った。安い報酬でも一生懸命、長時間働くことを要求され、なかなか昇進も叶わない。もうすでにある程度の地位にある人ならいいのかもしれないけど、これから働き始めようという人には相当に厳しい現実だ。だから最初から働く気が失せてしまうのではないか。
まあ、だからといってアメリカ式が理想的かというと全然そうでもないから、難しい。時給が安いんだからと言わんばかりの横柄な態度で、全く働く気を感じさせない末端の労働者を毎日目にしていると、カネがすべてのこの社会は絶対におかしいと思わされる。
なかなかうまくはいかないものですね。
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エッセイ
Saturday, September 06, 2008
あれから一年
ドキュメンタリー映画監督の佐藤真さんが亡くなって、一年が経った。
佐藤さんとの出会いは奇縁である。というのも、佐藤さんの奥さんと僕の姉貴が同じ産院で出産したのがきっかけで、個人的に知り合った。ドキュメンタリー映画など観ない姉貴が「同室の人の旦那さんも映画撮る人みたいだよ」というので、「なんて名前?」と聞いたら、「さとうまことさんっていうみたい」というので、絶句した覚えがある。僕にとって『阿賀に生きる』の記憶は鮮烈だったからである。
しかし、僕が本当に深い影響を受けたのは、後に出版された佐藤さんの名著『ドキュメンタリー映画の地平』である。ちょうどテレビ・ドキュメンタリーの仕事に行き詰まりを感じていた僕は、この本を読んだのがきっかけで、自主制作で主体的にドキュメンタリー映画を撮りたいと思い始めた。そして『選挙』を撮った。『選挙』は佐藤さんに気に入ってもらい、世に出る後押しをしてもらった。その佐藤さんに突然逝かれてしまったことは、本当にショックだった。
でも、佐藤真の肉体は失われても、佐藤真という存在は僕の身辺から消えていない。
実は、今年5月、平田オリザさんに撮影の申し込みに行ったとき、このプロジェクトを本当にやるのかどうか、言い出しっぺのくせに100%確信が持てずにいた。いや、この企画に限らず、『選挙』のときも、『精神』のときも、やるかどうかの迷いはあった。ドキュメンタリー映画を撮るということは、相当なコミットメントだから、迷うのは当たり前なのである。
ところが、平田さんにお会いした際、「実は佐藤真さんが想田さんと同じような趣旨の映画を企画してたんですよ」と切り出されたとき、僕は強い衝撃を受けると同時に、これは決定的だと思った。ここにも奇縁が生きていた。やらねばならぬ映画だと思った。
というわけで、佐藤真は死んでいないのです。
佐藤真監督の懐古上映も実施中。
■ユーロスペース:2008年9月6日(土)〜9月12日(金)
■アテネ・フランセ文化センター:2008年9月16日(火)〜9月20日(土)、9月24日(水)〜9月27日(土)、9月29日(月)〜30日(火)
http://www.cine.co.jp/php/detail.php?siglo_info_seq=108
佐藤さんとの出会いは奇縁である。というのも、佐藤さんの奥さんと僕の姉貴が同じ産院で出産したのがきっかけで、個人的に知り合った。ドキュメンタリー映画など観ない姉貴が「同室の人の旦那さんも映画撮る人みたいだよ」というので、「なんて名前?」と聞いたら、「さとうまことさんっていうみたい」というので、絶句した覚えがある。僕にとって『阿賀に生きる』の記憶は鮮烈だったからである。
しかし、僕が本当に深い影響を受けたのは、後に出版された佐藤さんの名著『ドキュメンタリー映画の地平』である。ちょうどテレビ・ドキュメンタリーの仕事に行き詰まりを感じていた僕は、この本を読んだのがきっかけで、自主制作で主体的にドキュメンタリー映画を撮りたいと思い始めた。そして『選挙』を撮った。『選挙』は佐藤さんに気に入ってもらい、世に出る後押しをしてもらった。その佐藤さんに突然逝かれてしまったことは、本当にショックだった。
でも、佐藤真の肉体は失われても、佐藤真という存在は僕の身辺から消えていない。
実は、今年5月、平田オリザさんに撮影の申し込みに行ったとき、このプロジェクトを本当にやるのかどうか、言い出しっぺのくせに100%確信が持てずにいた。いや、この企画に限らず、『選挙』のときも、『精神』のときも、やるかどうかの迷いはあった。ドキュメンタリー映画を撮るということは、相当なコミットメントだから、迷うのは当たり前なのである。
ところが、平田さんにお会いした際、「実は佐藤真さんが想田さんと同じような趣旨の映画を企画してたんですよ」と切り出されたとき、僕は強い衝撃を受けると同時に、これは決定的だと思った。ここにも奇縁が生きていた。やらねばならぬ映画だと思った。
というわけで、佐藤真は死んでいないのです。
佐藤真監督の懐古上映も実施中。
■ユーロスペース:2008年9月6日(土)〜9月12日(金)
■アテネ・フランセ文化センター:2008年9月16日(火)〜9月20日(土)、9月24日(水)〜9月27日(土)、9月29日(月)〜30日(火)
http://www.cine.co.jp/php/detail.php?siglo_info_seq=108
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エッセイ
Friday, September 05, 2008
広島の横町で
青年団の撮影で広島に来ている。
今日は夜10時頃撮影が終わり、広島駅前のホテルに帰ってから近場で夕飯を食おうとレストランを探した。ところが広島の夜は案外早く、どこも早々と店じまいをしている。
何軒もの店に断られ途方にくれ、ふらふらと小便臭い暗い横道にさまよい入っていったら、赤提灯を下げた店が一軒、営業していた。店内をのぞくと、お好み焼き用の巨大な鉄板が付いたカウンターにサラリーマンがワラワラと陣取り、にぎやかに宴会をしている。店主らしいオジさんが僕に気づき「にいちゃん、ひとり?いいよ」と言うので、カウンターの席に着いた。
「にいちゃん」と呼ばれたのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。無礼だなとムッとする気持ち半分、他人同士の垣根を軽々と一発で超えられた快感半分の複雑な気持ちで、席に着いた。「じゃ、野菜とソバが入ったお好み焼きを肉ぬきでお願いします」と注文すると、「にいちゃん、肉嫌いなん?」と怪訝な顔ですかさず聞かれ、その複雑な感じは否応無く増幅した。
「にいちゃん」と呼ばれたのが初めてなら、実は広島でお好み焼きを食べるのも初めてである。広島には『選挙』のプロモーションで一日だけ訪れたことがあったが、あのときは忙し過ぎてお好み焼きどころではなかった。店主が目の前の鉄板で僕の「野菜ソバお好み焼き」を作ってくれるのだが、その作り方の独特で魅力的な様子に思わず目を見張った。「広島風」のお好み焼きは何度も食べたことがあったのだけれど、これが「風」と「本物」の違いか、などと感心しながら出来上がりを待った。
その妙な視線を感じたのか、僕の食べ方があまりに下手クソだったのか、お好み焼きが出来上がって僕が食べ始めると、店主はすぐにこう言いながら食べ方を指南した。「にいちゃん、食べるの初めて?それじゃグチャグチャになる。こうやって切るんじゃ(広島弁はいい加減です)」。
すると隣に座っていたサラリーマンが、「いや、そうじゃない。こうじゃ」とか店主の説にケチをつけ、実演し始める。それにまた店主が応酬する。たちまち狭い店内はお好み焼きの食べ方で喧々諤々の議論になってしまった。
どう食おうとオレの勝手だろう、放っておいてくれ、という気もしたのだが、僕はその展開が妙に懐かしい感じがした。ムッとするより、快感が勝った。そして広島が好きになった。。
よくよく観察してみれば、店主はお客さん一人一人とよほどの顔なじみらしく、会社の上司の悪口を言い合う会話にも普通に入って自分の意見を言ったりしている。それに、生ビールの追加を貰おうと店の「にいちゃん」を探したら、暇だったのか、お客と一緒に席について飲み食いしながらだべっている。ここはお店というより、社交場なのだ。
近代はこういう煩わしくも魅惑的な場をどんどん削ぎ落として来た。ニューヨークにも、東京にも、こういう空間は滅多にない。広島の小便臭い横町でそれに不意に出会い、僕はこの店を天然記念物に指定して欲しいと不覚にも願うのであった。
今日は夜10時頃撮影が終わり、広島駅前のホテルに帰ってから近場で夕飯を食おうとレストランを探した。ところが広島の夜は案外早く、どこも早々と店じまいをしている。
何軒もの店に断られ途方にくれ、ふらふらと小便臭い暗い横道にさまよい入っていったら、赤提灯を下げた店が一軒、営業していた。店内をのぞくと、お好み焼き用の巨大な鉄板が付いたカウンターにサラリーマンがワラワラと陣取り、にぎやかに宴会をしている。店主らしいオジさんが僕に気づき「にいちゃん、ひとり?いいよ」と言うので、カウンターの席に着いた。
「にいちゃん」と呼ばれたのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。無礼だなとムッとする気持ち半分、他人同士の垣根を軽々と一発で超えられた快感半分の複雑な気持ちで、席に着いた。「じゃ、野菜とソバが入ったお好み焼きを肉ぬきでお願いします」と注文すると、「にいちゃん、肉嫌いなん?」と怪訝な顔ですかさず聞かれ、その複雑な感じは否応無く増幅した。
「にいちゃん」と呼ばれたのが初めてなら、実は広島でお好み焼きを食べるのも初めてである。広島には『選挙』のプロモーションで一日だけ訪れたことがあったが、あのときは忙し過ぎてお好み焼きどころではなかった。店主が目の前の鉄板で僕の「野菜ソバお好み焼き」を作ってくれるのだが、その作り方の独特で魅力的な様子に思わず目を見張った。「広島風」のお好み焼きは何度も食べたことがあったのだけれど、これが「風」と「本物」の違いか、などと感心しながら出来上がりを待った。
その妙な視線を感じたのか、僕の食べ方があまりに下手クソだったのか、お好み焼きが出来上がって僕が食べ始めると、店主はすぐにこう言いながら食べ方を指南した。「にいちゃん、食べるの初めて?それじゃグチャグチャになる。こうやって切るんじゃ(広島弁はいい加減です)」。
すると隣に座っていたサラリーマンが、「いや、そうじゃない。こうじゃ」とか店主の説にケチをつけ、実演し始める。それにまた店主が応酬する。たちまち狭い店内はお好み焼きの食べ方で喧々諤々の議論になってしまった。
どう食おうとオレの勝手だろう、放っておいてくれ、という気もしたのだが、僕はその展開が妙に懐かしい感じがした。ムッとするより、快感が勝った。そして広島が好きになった。。
よくよく観察してみれば、店主はお客さん一人一人とよほどの顔なじみらしく、会社の上司の悪口を言い合う会話にも普通に入って自分の意見を言ったりしている。それに、生ビールの追加を貰おうと店の「にいちゃん」を探したら、暇だったのか、お客と一緒に席について飲み食いしながらだべっている。ここはお店というより、社交場なのだ。
近代はこういう煩わしくも魅惑的な場をどんどん削ぎ落として来た。ニューヨークにも、東京にも、こういう空間は滅多にない。広島の小便臭い横町でそれに不意に出会い、僕はこの店を天然記念物に指定して欲しいと不覚にも願うのであった。
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エッセイ
Wednesday, September 03, 2008
『選挙』@ポレポレ東中野
お知らせです。9月9日(火)12:20〜、東京のポレポレ東中野で『選挙』の上映があります。2003−08年に日本で公開されたドキュメンタリー映画の話題作を集めた「Jドキュメント」の一環です。
http://www.mmjp.or.jp/pole2/5years-jdoc.html
http://www.mmjp.or.jp/pole2/5years-jdoc.html
Monday, September 01, 2008
MENTAL poster
The poster of MENTAL for outside Japan has been done. It is designed by an artist Yoshio Itagaki, my long time friend. He also designed CAMPAIGN's poster.
『精神』海外向けポスターが仕上がりました。デザインはアーティストの板垣由雄氏。長年の友人でもあります。『選挙』のポスターも、この人のデザイン。
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