『演劇(仮)』の編集、だいぶ佳境に入ってきた。まだ完成までには道のりは長いが、出口がおぼろげながら見えて来た感じがする。そういうときはいつもそうだけど、ちょっと興奮している。
変な話、今日は編集機上で青年団の人々の営みを眺めながら、なんだか泣けてきた。べつに悲しい場面があるわけではない。むしろ逆である。それがなぜか泣ける。
僕は元々オリザさんや青年団のファンなので、彼らについての事前の知識を持っていて、それに縛られていたのかもしれない。そこから少し解放された感じがする。編集作業には何度かブレークスルーの瞬間があるものだけど、その第1波が今日来たってことかもしれない。いや、そうであって欲しい!
ドキュメンタリーを作る際に事前の知識=先入観に縛られてはダメだと、繰り返し述べてきて本まで書いたのに、やっぱり縛られて、苦しくなった。言うは易し、行うは難しである。とはいえ、言うことによって明確に意識しなければ、行うことは更に絶望的に難しいとも思う。
常に忘れちゃならないのは、僕が作っているのはアカデミックなレポートや記録ではなく、あくまでも映画なのだということ。
今日の編集中にブレークスルーらしきものが訪れたのは、なぜ僕が青年団と平田オリザ氏に惹かれてきたのか、その理由が初めて明確に判ったからかもしれない。逆に言うと、今の今までよく判ってなかったんだろうな。そのことに我ながら驚愕する。
NEWS
Latest documentary "Oyster Factory" has been officially invited to Locarno International Film Festival 2015! 最新作『牡蠣工場』がロカルノ国際映画祭へ正式招待されました!
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Tuesday, September 13, 2011
Friday, July 29, 2011
「やわらかい部分」
講談社「本」8月号に掲載された文章です。出版社の許可を得て全文転載します。
「やわらかい部分」
想田和弘
『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)をギリギリで書き上げて飛行機に飛び乗り、イギリスのシェフィールド・ドキュメンタリー映画祭へ参加した。新作ドキュメンタリー映画『Peace』のイギリス初上映が予定され、僕も招待されていたからである。
僕はドキュメンタリーを撮る際に、先入観や固定観念に縛られないため、事前のリサーチや打ち合わせを排し、台本や概要を書かない。目の前の現実を観察しながら、行き当たりばったりでカメラを回すようにしている。また、観客にも映画の世界を自由に観察し、解釈してもらうため、ナレーションや音楽を使わない。そして、そういうドキュメンタリーの方法論やスタイルを「観察映画」と呼んでいる。
拙著では、「観察映画」の源流であるダイレクトシネマ(1960年代にアメリカで勃興した、ナレーションなどを排したドキュメンタリー運動)の歴史から紐解き、なぜ、どのようにして僕は観察映画を作るのか、そしてドキュメンタリーの魅力とはいったい何なのか、全力で書いた。その作業がやっと一段落し、僕は幽霊のごとくフラフラとイギリスへ旅立ったわけである。だから、今回の旅は半ば休暇のつもりだった。
ところが、甘かった。飛行機を降りたら目の前に、車椅子に腰掛けた白髪の老人がいたのである。見覚えのある黒縁眼鏡。ダイレクトシネマの伝説的巨匠アルバート・メイスルズ監督である。僕が勝手に「心の師匠」と決めている人物の一人だ。しかも空港で彼と同じ車に乗り込み、約一時間離れた映画祭会場まで同行することになった。今回のシェフィールド映画祭では、監督は「生涯功労賞」を受賞するそうで、回顧上映と方法論を語る「マスタークラス」が行われる予定だという。これでは僕も息抜きなどしていられない。
アルバート・メイスルズは、1926年にボストンで生まれた。30代の頃、J・F・ケネディの選挙運動を描いたダイレクトシネマの記念碑的名作『大統領予備選挙』(1960年)のカメラマンに抜擢され、ダイレクトシネマ運動の中心的メンバーになる。64年には弟のデーヴィッドと組んでビートルズのアメリカ初訪問を活写した『アメリカのビートルズ』、68年には聖書を売り歩くセールスマンの悲哀を描いた『セールスマン』、70年にはローリング・ストーンズの全米ツアーに密着した『ギミー・シェルター』、76年には後にブロードウェー・ミュージカルにもなった『グレイ・ガーデンズ』などを発表。ここには挙げきれぬほどの傑作の数々を生み出し、かつてあのゴダールに「アメリカで最高のカメラマン」と言わしめた人物である。
ニューヨーク在住のメイスルズ監督には、実はこれまでに三回お会いしているが、車の中で僕は改めて自己紹介し、ダイレクトシネマのスタイルを自分なりにアレンジして「観察映画」を撮っていることを告げた。すると時差ボケで眠そうだった巨匠は、にわかに満面の笑みを浮かべ、こう言った。
「われわれのやり方がベストだろう!」
おお、“the best”と言い切るのか。相対主義が支配的な昨今だけに驚いたが、その言葉には強い確信と誇りが感じられ、心を動かされた。そして彼はこう続けた。
「映画にはdiversion(気晴らし・娯楽)のための作品と、engagement(観客を巻き込む)のための作品がある。私は後者を目指してこれまで映画を作ってきた」
映画を「娯楽」と「芸術」に分ける議論はよく聞くが、diversionの対義語としてengagementを使うのは興味深い。ここで言うengagementとは、「観客に能動的に関わってもらう」というニュアンスだろう。僕がよく「観客にも自分の目で映画の世界を観察して欲しい」と言っているのと同じ趣旨だと思う。
観察映画はダイレクトシネマをお手本としているが、実作者の僕は学者とは違って、作品を観ることによって直に影響されるのであって、作り手の理論や方法論を文献などで研究したわけではない。しかし、ときおり作家のインタビューなどで彼らの言葉に触れると、自分の考え方と酷似していて「やっぱり」と思わされる。後に開かれたマスタークラスでも、メイスルズは「ドキュメンタリーは被写体の体験を描くもの」と発言したが、それも僕が普段「ドキュメンタリーは作り手の体験を描く体験記」と言っているのと基本的には同じことだ。
逆にメイスルズは僕の新作の題名が『Peace』であると聞いて、「それは私が次に撮りたいと思っていた題材だ。なぜ映画作家は戦争ばかりを描くのだろう。われわれは平和の方法を描く必要がある」と興奮気味に言った。ちょっと畏れ多い言い方だが、僕らは国籍も世代も異なるのに、かなりの「似た者同士」なのである。
僕は試しに、メイスルズに方法論のことも訊ねてみたくなった。僕は予定調和を避けるため、事前に台本や概要を書かないが、彼はどうなのだろうか。
「撮影前には何も書かない。もちろん製作資金を集めるために作品の概要を書くことはあるけど、それは自分のためのものではない」
やっぱり。こうなると、拙著でもひとつの焦点となった「ドキュメンタリー作家の加害性」という問題についても、巨匠の見解を聞きたくなる。つまり、ドキュメンタリー作家は、カメラを生身の人間に向け、その心の内側の「やわらかい部分」をすくいとろうとする。そして、それがやわらかければやわらかいほど、被写体が傷つく可能性も高まる。そのことを彼はどう考えているのだろうか。
メイスルズの作品は、被写体と厳しく対峙しない。むしろ共感と愛情をベースにして作られるのが特徴だ。それでも彼の映画には、人間が普段は覆い隠しているような、「やわらかい部分」も必ず映し出されている。例えば、『セールスマン』の中で、いくら頑張っても聖書が売れず、疲れ切った中年セールスマンの顔。『グレイ・ガーデンズ』の中で、赤裸々に映し出された元上流階級の貧しい暮らしぶり。シェフィールド映画祭で初めて観た彼の最新作『モハメッドとラリー』(2009年)では、気力と体力の衰えのため試合で無惨に敗れるモハメッド・アリの姿が映し出されていた。
そうした「やわらかい部分」が見えるお陰で、観客は被写体たちの体験を共有し、深く共感したり、理解したりすることができる。しかし同時にそれは、被写体らを裸にして無防備にする危険な行為でもある(と僕は思う)。そういうジレンマを、メイスルズは感じたりしないのだろうか。
『モハメッドとラリー』上映後の質疑応答の際、僕は思い切って質問した。するとそれまでにこやかだった大御所は、さっと顔色を変え、緊張した面持ちでこう答えた。
「常にそれには細心の注意を払っています。『グレイ・ガーデンズ』のときには、“可哀想な人たちを被写体として利用した”と批評家から激しい批判を受けた。しかし、映画を観た本人たちは“傑作ができたね”と、とても気に入っていた。実際、今まで被写体から編集を変えてくれと言われたことはない。肝心なのは、行き過ぎない(don't go too far)ことです。撮影中、被写体の女性があまりにも個人的な話をし始め、“彼女の顔を映画で晒してはならない”と感じたことがあった。そのとき私は、カメラを被写体の顔から外し、代わりに手を撮りました」
「行かない(踏み込まない)」ではなく「行き過ぎない(踏み込み過ぎない)」というのが、メイスルズらしい。ただ、現実にはどこからが行き過ぎで、どこまでが行き過ぎでないのか、その判断自体が難しいのではないか。特に、作り手が「行き過ぎていない」と信じていても、被写体がそう感じるとは限らない……。僕はそのように自問しながら、シェフィールドを後にした。
“don't go too far”という彼の言葉は、ニューヨークに帰った今も、彼の柔和な笑顔とともに、僕の頭の中でこだまのように反響し続けている。彼の映画を支えてきたのは、実は、彼が自分自身に言い聞かせ続けてきたであろう、その言葉だったのではないか。ふと、そんな気がしてきた。それは僕の今後の映画作りにも、どんな芽が出るか予想のつかない種を宿した。
(そうだ・かずひろ 映画作家)
「やわらかい部分」
想田和弘
『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)をギリギリで書き上げて飛行機に飛び乗り、イギリスのシェフィールド・ドキュメンタリー映画祭へ参加した。新作ドキュメンタリー映画『Peace』のイギリス初上映が予定され、僕も招待されていたからである。
僕はドキュメンタリーを撮る際に、先入観や固定観念に縛られないため、事前のリサーチや打ち合わせを排し、台本や概要を書かない。目の前の現実を観察しながら、行き当たりばったりでカメラを回すようにしている。また、観客にも映画の世界を自由に観察し、解釈してもらうため、ナレーションや音楽を使わない。そして、そういうドキュメンタリーの方法論やスタイルを「観察映画」と呼んでいる。
拙著では、「観察映画」の源流であるダイレクトシネマ(1960年代にアメリカで勃興した、ナレーションなどを排したドキュメンタリー運動)の歴史から紐解き、なぜ、どのようにして僕は観察映画を作るのか、そしてドキュメンタリーの魅力とはいったい何なのか、全力で書いた。その作業がやっと一段落し、僕は幽霊のごとくフラフラとイギリスへ旅立ったわけである。だから、今回の旅は半ば休暇のつもりだった。
ところが、甘かった。飛行機を降りたら目の前に、車椅子に腰掛けた白髪の老人がいたのである。見覚えのある黒縁眼鏡。ダイレクトシネマの伝説的巨匠アルバート・メイスルズ監督である。僕が勝手に「心の師匠」と決めている人物の一人だ。しかも空港で彼と同じ車に乗り込み、約一時間離れた映画祭会場まで同行することになった。今回のシェフィールド映画祭では、監督は「生涯功労賞」を受賞するそうで、回顧上映と方法論を語る「マスタークラス」が行われる予定だという。これでは僕も息抜きなどしていられない。
アルバート・メイスルズは、1926年にボストンで生まれた。30代の頃、J・F・ケネディの選挙運動を描いたダイレクトシネマの記念碑的名作『大統領予備選挙』(1960年)のカメラマンに抜擢され、ダイレクトシネマ運動の中心的メンバーになる。64年には弟のデーヴィッドと組んでビートルズのアメリカ初訪問を活写した『アメリカのビートルズ』、68年には聖書を売り歩くセールスマンの悲哀を描いた『セールスマン』、70年にはローリング・ストーンズの全米ツアーに密着した『ギミー・シェルター』、76年には後にブロードウェー・ミュージカルにもなった『グレイ・ガーデンズ』などを発表。ここには挙げきれぬほどの傑作の数々を生み出し、かつてあのゴダールに「アメリカで最高のカメラマン」と言わしめた人物である。
ニューヨーク在住のメイスルズ監督には、実はこれまでに三回お会いしているが、車の中で僕は改めて自己紹介し、ダイレクトシネマのスタイルを自分なりにアレンジして「観察映画」を撮っていることを告げた。すると時差ボケで眠そうだった巨匠は、にわかに満面の笑みを浮かべ、こう言った。
「われわれのやり方がベストだろう!」
おお、“the best”と言い切るのか。相対主義が支配的な昨今だけに驚いたが、その言葉には強い確信と誇りが感じられ、心を動かされた。そして彼はこう続けた。
「映画にはdiversion(気晴らし・娯楽)のための作品と、engagement(観客を巻き込む)のための作品がある。私は後者を目指してこれまで映画を作ってきた」
映画を「娯楽」と「芸術」に分ける議論はよく聞くが、diversionの対義語としてengagementを使うのは興味深い。ここで言うengagementとは、「観客に能動的に関わってもらう」というニュアンスだろう。僕がよく「観客にも自分の目で映画の世界を観察して欲しい」と言っているのと同じ趣旨だと思う。
観察映画はダイレクトシネマをお手本としているが、実作者の僕は学者とは違って、作品を観ることによって直に影響されるのであって、作り手の理論や方法論を文献などで研究したわけではない。しかし、ときおり作家のインタビューなどで彼らの言葉に触れると、自分の考え方と酷似していて「やっぱり」と思わされる。後に開かれたマスタークラスでも、メイスルズは「ドキュメンタリーは被写体の体験を描くもの」と発言したが、それも僕が普段「ドキュメンタリーは作り手の体験を描く体験記」と言っているのと基本的には同じことだ。
逆にメイスルズは僕の新作の題名が『Peace』であると聞いて、「それは私が次に撮りたいと思っていた題材だ。なぜ映画作家は戦争ばかりを描くのだろう。われわれは平和の方法を描く必要がある」と興奮気味に言った。ちょっと畏れ多い言い方だが、僕らは国籍も世代も異なるのに、かなりの「似た者同士」なのである。
僕は試しに、メイスルズに方法論のことも訊ねてみたくなった。僕は予定調和を避けるため、事前に台本や概要を書かないが、彼はどうなのだろうか。
「撮影前には何も書かない。もちろん製作資金を集めるために作品の概要を書くことはあるけど、それは自分のためのものではない」
やっぱり。こうなると、拙著でもひとつの焦点となった「ドキュメンタリー作家の加害性」という問題についても、巨匠の見解を聞きたくなる。つまり、ドキュメンタリー作家は、カメラを生身の人間に向け、その心の内側の「やわらかい部分」をすくいとろうとする。そして、それがやわらかければやわらかいほど、被写体が傷つく可能性も高まる。そのことを彼はどう考えているのだろうか。
メイスルズの作品は、被写体と厳しく対峙しない。むしろ共感と愛情をベースにして作られるのが特徴だ。それでも彼の映画には、人間が普段は覆い隠しているような、「やわらかい部分」も必ず映し出されている。例えば、『セールスマン』の中で、いくら頑張っても聖書が売れず、疲れ切った中年セールスマンの顔。『グレイ・ガーデンズ』の中で、赤裸々に映し出された元上流階級の貧しい暮らしぶり。シェフィールド映画祭で初めて観た彼の最新作『モハメッドとラリー』(2009年)では、気力と体力の衰えのため試合で無惨に敗れるモハメッド・アリの姿が映し出されていた。
そうした「やわらかい部分」が見えるお陰で、観客は被写体たちの体験を共有し、深く共感したり、理解したりすることができる。しかし同時にそれは、被写体らを裸にして無防備にする危険な行為でもある(と僕は思う)。そういうジレンマを、メイスルズは感じたりしないのだろうか。
『モハメッドとラリー』上映後の質疑応答の際、僕は思い切って質問した。するとそれまでにこやかだった大御所は、さっと顔色を変え、緊張した面持ちでこう答えた。
「常にそれには細心の注意を払っています。『グレイ・ガーデンズ』のときには、“可哀想な人たちを被写体として利用した”と批評家から激しい批判を受けた。しかし、映画を観た本人たちは“傑作ができたね”と、とても気に入っていた。実際、今まで被写体から編集を変えてくれと言われたことはない。肝心なのは、行き過ぎない(don't go too far)ことです。撮影中、被写体の女性があまりにも個人的な話をし始め、“彼女の顔を映画で晒してはならない”と感じたことがあった。そのとき私は、カメラを被写体の顔から外し、代わりに手を撮りました」
「行かない(踏み込まない)」ではなく「行き過ぎない(踏み込み過ぎない)」というのが、メイスルズらしい。ただ、現実にはどこからが行き過ぎで、どこまでが行き過ぎでないのか、その判断自体が難しいのではないか。特に、作り手が「行き過ぎていない」と信じていても、被写体がそう感じるとは限らない……。僕はそのように自問しながら、シェフィールドを後にした。
“don't go too far”という彼の言葉は、ニューヨークに帰った今も、彼の柔和な笑顔とともに、僕の頭の中でこだまのように反響し続けている。彼の映画を支えてきたのは、実は、彼が自分自身に言い聞かせ続けてきたであろう、その言葉だったのではないか。ふと、そんな気がしてきた。それは僕の今後の映画作りにも、どんな芽が出るか予想のつかない種を宿した。
(そうだ・かずひろ 映画作家)
Sunday, November 21, 2010
柳田法相失言について思うこと
柳田法相は国会議員や国民皆が思ってる本音をついしゃべっただけだと思う。国会答弁=虚構だと誰でも思っているし、そういう意味では大臣も国会議員も「俳優」であると、誰もが了解しているわけだ。にもかかわらず、「これは演技です」と宣言した瞬間に、俳優は舞台から退場せねばならなくなる。この共同幻想の維持装置のメカニズムが面白い。
というのも、彼の釈明インタビューとかTVで観てると、すべて「これもあの種の答弁だな」と思えちゃうから恐ろしい。失言により、彼の言葉のリアリティが一挙に崩壊してしまったわけだ。ドキュメンタリー作家としては誠に興味深い現象だ。
国会の虚構のメカニズムを露呈させた柳田法相には意図せぬ功績があると思う。しかし、虚構の担い手=演技者としてのマジックを失った彼が辞任するのは、避けられない事態だといえるだろう。王様が裸であることを、誰もまだ認めたくないからである。
誤解を恐れずに言えば、政治が虚構や演技の力を使うことは、ある程度必要不可欠だと、僕は思う。虚構には人々を動かし統合する力があるからだ。しかし虚構があまりにも現実から離れすぎて形骸化すると、その魔力さえ失う。皆が魔法から醒めてしまうからだ。いま政治に起きている危機は、まさにそういうことなんだと思う。
そう思うのは、ドキュメンタリーをドキュメンタリーとして成立させている心理構造は、政治が使っている虚構の心理構造と本質的には同じだからだ。ドキュメンタリーは必然的に虚と実の間を揺れ動くし、その運動をいかに制御するかが作り手の課題である。あなたが観ている映像も虚構なんだよと観客に示しながらも、映像のリアリティ=魔法は維持するという、矛盾するようで矛盾しない奇妙なバランス。それを僕らは目指しているわけだ。いや、少なくとも僕はそう認識している。
(ツイッターでつぶやいたことを再構成しました)
というのも、彼の釈明インタビューとかTVで観てると、すべて「これもあの種の答弁だな」と思えちゃうから恐ろしい。失言により、彼の言葉のリアリティが一挙に崩壊してしまったわけだ。ドキュメンタリー作家としては誠に興味深い現象だ。
国会の虚構のメカニズムを露呈させた柳田法相には意図せぬ功績があると思う。しかし、虚構の担い手=演技者としてのマジックを失った彼が辞任するのは、避けられない事態だといえるだろう。王様が裸であることを、誰もまだ認めたくないからである。
誤解を恐れずに言えば、政治が虚構や演技の力を使うことは、ある程度必要不可欠だと、僕は思う。虚構には人々を動かし統合する力があるからだ。しかし虚構があまりにも現実から離れすぎて形骸化すると、その魔力さえ失う。皆が魔法から醒めてしまうからだ。いま政治に起きている危機は、まさにそういうことなんだと思う。
そう思うのは、ドキュメンタリーをドキュメンタリーとして成立させている心理構造は、政治が使っている虚構の心理構造と本質的には同じだからだ。ドキュメンタリーは必然的に虚と実の間を揺れ動くし、その運動をいかに制御するかが作り手の課題である。あなたが観ている映像も虚構なんだよと観客に示しながらも、映像のリアリティ=魔法は維持するという、矛盾するようで矛盾しない奇妙なバランス。それを僕らは目指しているわけだ。いや、少なくとも僕はそう認識している。
(ツイッターでつぶやいたことを再構成しました)
Saturday, November 06, 2010
考えの変化について
観察映画はこうである、ドキュメンタリーとはこうだ、と過去に言ったり書いたりしたことに縛られちゃダメだな。方法論やドキュメンタリー論についても思い違いや新しい発見は常に出て来るんだから、過去に自分が言ったことを否定しても良いんだよ。でなければ進歩がない。過去に生きることになる。
万物は刻一刻と変化しているわけで。それに抵抗して、変わらないように努力するのは非生産的ともいえる。むしろ、変化を楽しむ態度でいたいわけだな。変化が止まること=死ぬことなんだから。
よく「ブレるのはダメだ」っていう言い方がされるけど、ブレていいんじゃないかな。唯一、ブレない方がいいとしたら、「自分の考えや見方は常に変化します。つまりブレます」という一点。その態度さえブレなければ、中味はブレて多いに結構なんじゃないか?
変化の一番の障害になるのは、「自分は常に正しくあらねばならない」という思い込み。自分の変化を認めることは、過去の言動を否定する、つまり自分は間違っていたということを認めることになるから。でも間違わない人間なんていないんだよ。自分も間違いだらけ。そこから出発しないと。
こんなことをつぶやくのは、カミさんの太極拳の師匠が、教えるごとに言うことが違うらしいんだよ。グランド・マスターと呼ばれる凄い方なんだけど、「70歳超えても毎日発見と学ぶことがあるから」とニコニコしてるらしいんだな。なるほど、だからこそ彼は達人なんだと思ったね。
僕のドキュメンタリーに対する考え方も、実はどんどん変わってきてるんだよね。例えば、ナレーションやBGMなどあんなに否定する必要なかったな、使い方次第じゃん、なんて思ったりさ。でもそういうときにブレーキをかけたくなる自分もいるんだな。そいつを応援しちゃうと実はヤバいんだ。
だから、「こないだ言ってたことは間違ってた、撤回」といつでも言えるようでありたいな。そう言いつつ、僕が今つぶやいてることも、間違ってるかもしれないんだし(笑)。
(ツイッターでつぶやいたことを再構成しました)
Thursday, November 04, 2010
尖閣諸島「流出ビデオ」について
尖閣諸島付近で中国の漁船と海上保安庁の巡視船が衝突した瞬間を捉えたとされる映像が、YouTubeにアップロードされて話題を呼んでいる。
この映像が本物であるとしたら、それがネットに流出する前に、その一部は国会議員によって視聴されていた。その時の反応が人それぞれであることが興味深い。
例えば、自民党の武部勤氏が「明らかに悪質な事案であることは間違いない。なぜ中国人船長を現行犯逮捕しなかったか。釈放はおかしい。国民に見てもらうべきだ」と言うかと思えば、社民党の福島瑞穂氏は「車が道路でちょっとコツンとぶつかるような、あてて逃げるという映像だ。(挑発行為は)離れてるし、分からなかった」としている。
これだけ読むと、議員たちの解釈が食い違い、まるで黒澤明の「羅生門」の様相を呈しているわけだが、実際の映像とされるものを観て、見方が割れている理由が飲み込めた。
実際のところ、「よく分からない」のだ。
たしかに漁船が巡視船に衝突した様子は映っている。しかし、2、3度見直しても、「故意に」漁船が衝突したのかどうかは、よく分からないのである。
ただし、ビデオを撮った人は恐らく「故意に突っ込んできた」と信じていて、そういう「解説」をしながらカメラを回しているので、それがナレーションのように機能して、視聴者はその解釈に引きずられ易い。けれども、撮っている人は恐らく興奮状態にあるわけだし、従ってその「解説」は極めて主観的なものであるわけで、本当に正確かどうかは分からないはずだ。だから相当差っ引いて考える必要がある。
例えば、1回目に衝突する直前の映像をよく観てみると、漁船の甲板にいる人々は衝突を予期しているようにみえない。何やら作業をしてる人、普通に立ったり歩いたりしてる人、何かを船の外に投げ捨ててる人などが観察される。それが何を意味するのかは分からないけれども、「漁船が故意に衝突した」という解釈とは符号しにくいことも事実だ。
逆に、漁船の船長が泥酔していたという報道もあり、その解釈と矛盾するような要素は今回の「流出ビデオ」には見当たらない。
しかし、だからといって泥酔説が正しいとも限らないわけで、要するに、いまある材料では真相は「よく分からない」のである。
つまり今回の件は、映像を解釈することの難しさを教えていて、ドキュメンタリーの作家としては非常に興味深い。映像は「決定的な真実」を映し出すと思い込んでいる人が多いけれども、実際には、映像は物事の表層しか捉えることができず、本質的にグレーで曖昧なものである。そしてそれをどう「読む」のかは、まさに「羅生門」の世界なのである。
なのに、人々は単に「観る」だけでは踏みとどまれなくて、すぐに勝手な解釈をしたがる。
YouTube上には「故意にぶつけて逃走 過失割合10:0ですね」とか「どうみても中国側が衝突してきてる。テロ行為だろこれ」とか「殺す。絶対殺す。中国人は絶対に許さん」など、極めて予断と先入観に満ちたコメントが大量につけられている。(もし仮に泥酔説が正しいとしたら、彼らが叫ぶべきは「中国人、けしからん」ではなく「飲んだら乗るな」なのであり、本件は国境問題ですらなくなる。状況を正しく把握することがいかに大切か!)
断定するのは、確かに気持ちがいい。しかし、こういうのは明らかに勇み足なのであって、百害あって一利無しである。しかも今回は国境問題なのだから、ちょっと間違えば戦争だって起きかねない。少なくとも、政治家の人々には映像を冷静に観る態度をきちんと身につけていただきたいと、切に願うものである。
Monday, July 12, 2010
観察映画と同じ原理
これは僕が提唱・実践する観察映画と全く同じ原理。
ここで言う「売ろう」と思うことは、観察映画ではカメラを回しながら「いい映画を作ろう」と思うこと。もちろん、その目的は最終的には達成したいわけだが、それは一旦置いといて、とにかく目の前の現実を「観る」ことで、まだ起きてもいない「未来」ではなく「今」に意識を下し、我欲を取り除くのが重要なのだと思う。
「売らない」で売上900%増のアパレルショップ
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1007/12/news007.html
人は見ているようで意外に見ていない。店のスタッフも見落としていることが多い。お客さまを、店の中を、ほかのスタッフの動きを、そして商品の動きまで「徹底的に見る」ことが「気づき」につながり、気づきが行動を変える。お客さまはその変化に、意外と敏感だ。
「売ろうとしているときには、いろんなことが見えなくなってしまう。バッドタイミングの声がけ、自由に見ていただくことができないなど、売りつけようとすると結局、集客ができない店になってしまう。お客さま目線を持ち、選んでいただく気持ちで接すれば、お客さまのニーズに気づき、お客さまに居心地がよいと思っていただけるのです」と北山さんは分析する。
ここで言う「売ろう」と思うことは、観察映画ではカメラを回しながら「いい映画を作ろう」と思うこと。もちろん、その目的は最終的には達成したいわけだが、それは一旦置いといて、とにかく目の前の現実を「観る」ことで、まだ起きてもいない「未来」ではなく「今」に意識を下し、我欲を取り除くのが重要なのだと思う。
「売らない」で売上900%増のアパレルショップ
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1007/12/news007.html
Wednesday, July 07, 2010
『新潮』に寄稿

7/7発売の『新潮』8月号に、「反イルカ猟『ザ・コーヴ』と 「正義」」と題する論考を寄稿しました。その一部を抜粋します。上映中止運動のために議論が「表現の自由」うんぬんにシフトし過ぎている嫌いがありますが、もっと本作の手法や姿勢について論じる必要があると思います。
http://bit.ly/c6lDmn
(抜粋)...ドキュメンタリーの作家が、なぜ現実にカメラを向けるのかといえば、目の前に展開する世界をよく観て、耳を澄まし、吟味・検討し、その作業から何かを学びたいからだ。ドキュメンタリーとは、自分自身の鎧を外して世界へ開いていくための手法であり、その逆、世界を自らが作った安全な庭に閉じ込めるためのものではないはずだ。だから、いくら「イルカ猟は残虐非道に違いない」と信じる作家でも、作品を撮るからにはいったんはその考えを捨て、“転向”の可能性にも身体を開いて無防備になりながら、カメラを回さなければならないのである。
ところが、サホイヤス監督が『ザ・コーヴ』でやったように、先に結論ありきで、それに合う映像やインタビューだけを掻き集めてくるのでは、作り手の意識は閉じたままなので、現実世界から何も学ぶことはできない。また、撮影中にたとえ理解不能な、奇怪な現実に突き当たったとしても、それらが伝えたいメッセージに合わなければ削ぎ落とされ、作品からは排除されてしまう。だから、現実の予想もつかない展開に作り手が圧倒され、固定観念が打ち壊され、荒波に足をすくわれ溺れそうになるような、危険だけれども面白いこと限りない“ドキュメンタリー的驚天動地”は、絶対に起き得ない。要するに、サホイヤス監督は、最初から足の立つ浅瀬で、チャプチャプ水遊びをして泳いでいるつもりになっているようなものであり、そういう、自らの安全圏に閉じこもり、ドキュメンタリー的なリスクをとろうとしない作り手を、僕はドキュメンタリストとは呼びたくないのである。
しかも、攻撃の対象を限定したことで、制作者はますます安全な立ち位置にいる。一番のミソは、作り手が標的にしたのが、......(抜粋終わり)
Friday, May 07, 2010
映画『ザ・コーヴ』を巡る座談会
映画『ザ・コーヴ』を論じるため、『創』6月号(5/7発売)の座談会に出ました。僕はニューヨークからスカイプで。
この問題は、「反日」だとか「盗撮けしからん」だとか、どうも表層的な議論ばかりが先行してよくない。座談会では、捕鯨や食の問題から始まって、ドキュメンタリー論やプロパガンダ論にもなり、かなり突っ込んだ議論が出来たと思います。
ちなみに、森達也さんと綿井健陽さんは映画を高く評価していますが、僕は映画としては評価していません(イルカ猟自体には否定的です)。意見が違って面白かったです。是枝さんは座談会には参加せず、コメントを寄せられたようです。
ドキュメント映画「ザ・コーヴ」の制作手法と上映中止騒動を考える。
森達也×綿井健陽×想田和弘+是枝裕和 司会:篠田博之編集長
http://bit.ly/asQXP3
以下、僕の発言部分のほんの一部を抜粋します。
この問題は、「反日」だとか「盗撮けしからん」だとか、どうも表層的な議論ばかりが先行してよくない。座談会では、捕鯨や食の問題から始まって、ドキュメンタリー論やプロパガンダ論にもなり、かなり突っ込んだ議論が出来たと思います。
ちなみに、森達也さんと綿井健陽さんは映画を高く評価していますが、僕は映画としては評価していません(イルカ猟自体には否定的です)。意見が違って面白かったです。是枝さんは座談会には参加せず、コメントを寄せられたようです。
ドキュメント映画「ザ・コーヴ」の制作手法と上映中止騒動を考える。
森達也×綿井健陽×想田和弘+是枝裕和 司会:篠田博之編集長
http://bit.ly/asQXP3
以下、僕の発言部分のほんの一部を抜粋します。
篠田 アメリカ人にとって、イルカを獲るなんてとんでもないという感覚は一般的なの?
想田 すごく平均的ですよ。だからこれは、アメリカでは非常に安全なトピックです。僕はそこが、あの監督の姑息なところだと思うんです。おそらく彼はベジタリアンで、本当に標的にしたいのは、動物全般を食べることなのだと思います。でもそれでは広範な支持を得られない。それこそ、今の日本人から上がっているのと同じような反発が、アメリカやヨーロッパから来るでしょう。けれどイルカなら、欧米では誰も食べません。だから観客はみんな簡単に正義の側に立てるんです。線を引いて、自分たちはみんなこちらの正義の側、イルカ漁をこらしめようという側に立てる。そしてみんなで「ひどいひどい」と言い立てる。
テレビシリーズが決まったというところからピンときたのですが、エンタテインメントとしてバッシングする、つまり、やっつければやっつけるほど視聴率が上がるという構図を、そこに見てしまった気がします。オウム報道と同じですよ。もちろん、日本から反発があることもわかっているのですが、それは彼らにとって、非常に限定された、遠い国の話です。それこそ、イラクにミサイルを撃ち込むのと同じなんです。自分たちは安全なところにいて、遠くのよくわからない国にミサイルを撃つ。そういう発想を僕は感じました。
僕もベジタリアンなので、監督が狙うことはよくわかります。でも、やるんだったらもっと本質的なところでやってほしい。一般社会で支配的な価値観に挑戦するなら、肉を食べるという問題に行くべきですが、この映画は、そういう試みをしようとしません。
森 ならばこの作品が、イルカではなく牛肉の屠殺やアメリカの食肉業界を告発するドキュメンタリーならば、想田さんの評価は変わるのでしょうか?
想田 うーん……、それほど変わらないと思います。というのも、この映画はドキュメンタリーというよりも、すごくよくできたプロパガンダだと思うんです。アカデミー賞に長編プロパガンダ賞という部門があるとすれば、これは一等賞だと思いますよ(笑)。
森 つまり監督の姑息さは作品の評価とは関係ない。要するにこの作品は、想田さんが規定するドキュメンタリーとは違うということですね。
想田 そうですね。それは、立ち位置が中立じゃないということではありません。偏っていてもいい。むしろ、ドキュメンタリーを撮る人は全員偏っているものですからそれはいいんですが、僕が一番問題にしているのは、「未知に対して開かれていない」ということなのです。先に結論ありきで、その結論に閉じ込めるためにいろんな要素を拾ってきて、結論を強化するためにしか素材を使っていない。作り手にためらいや疑問がない。とにかく、太地町の漁師をこらしめよう、糾弾しよう、そのための材料を集めよう、と。そこが僕には、ドキュメンタリーとして認めがたいんです。
Tuesday, April 20, 2010
映画『精神』釜山国際映画祭上映後 Q & A
パソコンのファイルを整理していたら、映画「精神」をワールドプレミアした釜山映画祭での質疑応答の書き起こしが見つかった。拙著「精神病とモザイク」(中央法規)に盛り込むつもりだったのが、紙幅の関係でほぼ割愛せざるを得なかったのを思い出した。そのまま眠らせておくのはもったいないので、ここに掲載しておきたい。長文ですが、何かのお役に立てれば幸いです。
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映画『精神』釜山国際映画祭 上映後 Q & A (ワールドプレミア)
10/3/2008
司会:ナム・イニョン 通訳:延智美
想田: まずは最後までご覧いただき有り難うございました。そう簡単に最後まで見れる映画ではなく、どっとお疲れになったのではないかと思い、感謝しています。それから、今日、今の映画に出て下さった方、それから協力して下さった方が来ておりますので、ちょっとご紹介したいと思います。ちょっと立って下さい。
(会場、拍手)
皆さんはこの診療所と作業所のスタッフの方です。まず、こういうドキュメンタリーを撮る時には、患者さんに安心してもらう事が大事なんですけれども、そのためにはスタッフの方が僕を受け入れて、100%応援してくれないと、患者さんは繊細なので、撮影をなかなかうまく進められないんですね。そういう意味では、この方々が100%僕を信頼してサポートしてくれたので、なんとか撮影ができたのいうのが実感です。だからすごく感謝してます。それでも、僕が「出てくれますか?」と訊いた10人の当事者のうち、8人から9人は「出たくない」とおっしゃったんですね。それは、それだけこの問題がタブーだということなんです。精神的な病を持っているという事は、今の日本ではなかなか言い出す事ができません。ですから、映画に出て下さった方はもの凄い勇気を持って出て下さったんです。彼らの協力無しには、この映画は出来なかったので、出て下さったみなさんに感謝を申し上げたいと思います。それから釜山映画祭からはお金をいただきまして、そのお金なしにはこの映画が完成できませんでした。本当にありがとうございました。
司会者: 皆さん色々と質問があるかと思いますが、もう遅い時間になっておりますので、すぐに質問を受けたいと思います。
質問者(男性): 一般的に精神の病を患っておられる方々というのは、カーテンの裏に隠れていて、一般の人々とは距離感がある。で、この映画を通じて、一般の人々も同じような面を持っているし、また彼らを通じて学べることがあるという印象を受けて、とても驚きました。で、もっともご質問したいのは、彼らの心をどうやってオープンにさせていったのか、あれだけの話を聞けるには、どうやって彼らを説得し、心を開いてもらうというアプローチがあったのか、どうやってあれだけ彼らと近い距離が持てたのか、ということです。
想田: 先ほど申し上げたように、僕だけの力ではそういう風にいかなくて、やはり周りに協力者がいたというのが大きいと思います。特に山本先生が、撮影に対して不安を抱いた患者さんたちに、安心を届けて下さったんじゃないかなという気がしています。あとは、僕がカメラを持ってずーっと居るもんですから、段々友達になるんですよね。なかには僕に人生の相談をしてくる人もいたりとか、次第に深い交流も出てくるんです。
司会者: 無料相談ですか?
想田: そうです、無料相談です。(場内、笑い)
で、そうしていくうちに撮影が進んでいって。あとは、本当は、皆さん自分の気持ちをおっしゃりたいんだと思うんですよね。普段はあまり言えないことっていうのを、世間に向かって、カメラに向かって、言うんだと。例えば、今までは誰にも自分が病気だってことを言わなかったんだけれども、この映画をきっかけに言うようにする、というような決断をした人もいます。
司会者: 具体的に撮影期間はどれ位かかったんでしょうか?また、登場される方々とはどれくらい緊密に会われていたんでしょうか?
想田: 撮影は2回に渡ってやりました。2005年と2007年の2回の撮影で、合計だいたい一ヶ月位です。僕は患者さんとカメラを持たずに会う事はほとんどないです。必ずカメラを持って、「自分は撮影する人間だ」ということを示しながら、それでも受け入れてくれる方とどんどん撮影が進んでいったと思います。というのは、カメラを回す前に仲良くなって、それからおもむろにカメラを取り出して回すという手法の人もよくいるんですけども、僕はカメラを回している時と回してない時では人間が変わるんですね。だからカメラを回している時の人間を知ってもらうために、最初からカメラを回すというのが僕のやり方です。
司会者: たくさんの方の手が上がっているので、多くの人に回るように簡略に質問をお願いします。
想田: 僕も簡略に答えます。(場内、笑い)
質問者(男性):日本では精神病だということを言うことすら難しい、タブーだ、というお話がありましたが、そういったことを映画で撮ろうとしたきっかけを教えて下さい。
想田: 僕自身、色んなプレッシャーに負けそうになって、一度精神科に駆け込んだ事があります。その時、僕はすぐに回復したんですけれども、「ああ自分も病気になり得るんだな」と実感しました。でも、普段は全然関係ないものとして僕らは生活していて、まるで異星人を見るかのように、精神病患者は自分たちと違うっていう風に分けているような気がします。その状況はなにかおかしいと思ったので、ここは一つドキュメンタリーを撮りたいと。あとは、私の義理の母がこの診療所と一緒に仕事をしていて、たまたまこの診療所を知る事ができた。だからこれはいい機会なので、撮影を開始したということになります。
質問者(女性):この映画を撮られる前と撮られた後では、見方・考え方の変化はあったんでしょうか?映画の中で「カーテンで隔てられている」というような台詞が出てきますけれども、こういった精神疾患のある方々は、個人的に精神的な問題があるんだと思っていたのが、実はもっと社会的な問題もやはりあるんじゃないか、という風に考えが変わっていった点はあるんでしょうか?あと、スタッフの方々におうかがいいしたいんですけど、最初からずっと映画を観ながら、日本では以前秋葉原で無差別殺人などが起きましたけれども、現代社会では結婚しない人も増え、独り暮らしの人も増えている中で、社会的に孤立を感じて鬱病を抱えている人が増えているんではないかと思いますが、そういった方々とたくさん触れていく中で、私は映画を観て、逆に健常者よりもとても思慮深いという印象を患者さん方から受けました。スタッフの方々は、こういった患者さん方と色々接しながら、何が一番彼らを傷つけているのか、また最も彼らを見ていてもどかしい、または残念に思われるような点というのはどういったものなのでしょうか?
想田: この映画を撮る直前まで、僕は自民党という政党の選挙運動を撮っていました。その直後に精神科の人達に会って色々撮っていて、「ああ、こっちの人達の方が自分にずっと近い」と、思いました。自民党の人達は、色々ルールがあるんですが、そのルールに従って選挙運動をしていき、そのルールがどうしてそういう風に存在するのかってことをあんまり考えないんです。でも、患者さん達と話していると、その部分「どうしてなんだ?」というところにすごく引っかかっていて、その疑問をすごく突き詰めているような気がしました。また、撮る前の僕は、患者さんは弱い人たちなんだろうと、何となく思ってました。でも、撮ってみて必ずしも弱いという風には言えないなと、実感しました。もちろん病気で押し潰されそうになって、中には命を絶ってしまう方も居るんですけど、一方、その病気を肥やしにして、より人生を輝かせる要素にしている人もいるなあ、という風に感じました。そういう点は、撮る前、僕は全く予想もしていなかったので、自分で考え方、見方が非常に変わった点です。あとは、病気だからといって、ずうーっと暗く沈んでる訳じゃなくて、楽しいこともあれば冗談も飛ばすし、すごく明るい面もある訳ですね。だから、「病気の患者さん」と言う風に、一色に塗りつぶすのは、映画として非常によくないなあと思いました。実際、映画に登場する人が患者さんなのか患者さんでないのか、かなり曖昧に見える場面も多いんじゃないかと思います。大事なのは、病気かどうかということではなくて、人間として描かしてもらうということだと思います。大体僕はそんなところです。あの、さっきの質問にどなたが答えてくれるのか…?
山本真也: このような重く暗いテーマの映画を、一体どんな人が観にくるのかと思って今日は来ました。見ていると、すごく若い人達が多いことに非常に驚いています。で、今の方の質問に一つ答えるとすると、僕が毎日生活している場所には圧倒的に精神障害者という人の方が多く、健常者の方が少ない世界で、そういう世界にずっと長く居ると、僕自身も、誰もが精神障害者と言われる人達の価値観にどんどん引っぱられる。そりゃあもう誰でもそうだと思うんですよ。だから、彼女が言われたように、彼らの何が残念だと思うかと言われても、僕にはもう分からなくなってる、ということですね。残念と思わなくなっている。彼らは障害を負ってるんだけど、その彼らの日常を残念とはもう見れなくなっている、ということです。だから逆にこういった映画を観る、とりわけ若い人達、こういった世界と縁遠かった若い人達が答えを教えて欲しいっていうくらいの気持ちがします。
質問者(女性):映画をとても印象的に観させていただきました。普段、やはり劇映画に慣れてしまっているせいか、このドキュメンタリーを観ていて所々登場する、ぶら下がっているような落ち葉が気になったんですけども、あれは何か意図して写されたものなのでしょうか?また二つ目の質問は、お名前が分からないんですが、虫歯で困ってらっしゃる患者さんが出てらっしゃいますが、彼の台詞の中に「包帯を巻いてあげることだ」という言葉が出てきますが、この映画を通じて監督は彼らに包帯を巻いてあげたと思いますか、または彼らに包帯を巻いてもらったと思いますか?
想田: あの葉っぱですね。葉っぱは、撮っている時にはさほどなんてことなく、あまり意味なく撮ったんですけれど、編集の時に「ああ、この葉っぱはいいな」と思ったんですね。
(会場笑い)
で、何かのメタファーにもなり得るなと思いました。僕の解釈はあるんですが、それを言うと面白くないので言いませんが、自分の中では意味はあります。映画自体も、僕はメッセージを伝えることではなくて、現実を描く事に徹しようと思っているので、多分観て色んな感想が起きるんじゃないかと思うんです。だから多分人によって違うところに反応する、というか、違うところに違う印象を持つんじゃないかと思うんです。そして、それでいいと思っています。僕としては、ある意味ボールを投げて、それを受け取ってもらうんじゃなくて、打ち返して欲しいと思っています。で、その打ち返した玉が、「あっ、あっちに行った、こっちに行った」っていう風に観てるのが楽しい。それが僕の映画を作る喜びです。あと、包帯のことですが、僕が皆さんに包帯を巻けたかどうかは訊いてみないと分からないんですが、僕の方には巻いてくれたと思います。
質問者(女性):私は釜山の精神障害者達のリハビリを助ける病院に勤務しているスタッフです。そういった意味で、この映画にとても関心を持っていました。この映画に登場されるスタッフの働いている姿とか、また精神障害者の方々の話している様子を見て、非常に多くの部分は共感を持って映画を観終えたんですけれども、こういった映画がもっと世の中に出て行って、精神障害に対する理解が深まって欲しいと言うことを感じました。日本もタブーだという話をされましたけれども、韓国もやはり同じような環境に置かれていて、非常に多くの偏見がまだ残っています。ですから、こういった映画がもっともっと出てきて、そういった方々の力になって欲しいなと思いました。で、質問は、映画の中で診療所は、患者さんたちを診療するだけではなく、職業リハビリにも繋がって行われているような場所でした。それはこの病院ならではの特色なのか、それとも日本ではああいったシステムを持つ病院が普遍化しているのでしょうか?監督は、敢えて映画の撮影にふさわしい特殊な診療所を選んだのでしょうか。
想田: この診療所はあまり一般的ではないと思います。この病院を建てられた山本先生は、それまで県の精神福祉保健センターにずっと勤務されてたんですけれども、希望退職した後、この診療所を自分で立ち上げられました。山本先生は、精神科病院に勤務されていた時にも病棟から鍵をはずす運動の草分け的な存在、パイオニアで、医療スタッフではなく患者さんの側に立っての医療ってものをずっと目指してこられた方です。ですから、この診療所にも普通だと入院させられてしまうような患者さんもいらっしゃるんですけれども、その人達も皆家から通うことを奨励されて家から通っていらっしゃいます。なるべく病院に隔離されるんではなくて、地域で生活できるようにということでああいう仕事場、「作業所」を作っている。一つの理念に基づいてああいう形になっていると。で、それは日本ではそれほど一般的ではなく、かなり珍しいと思います。でも、僕は色んなものをリサーチした上で、その中から選んだという訳ではなく、たまたま僕の義理の母がそこと仕事をしているということで関係があった。そして色々見聞きしているうちに、「ああ、ここは凄く面白いなあ」ということになり撮影を始めたので、それが典型的かどうかということはあまり考えずに撮影を始めました。
質問者(男性):映画の全体を通して観ると、患者の方々も一般の人々と変わらなかったり、また、その患者の方々の為に一生懸命働いているスタッフの方々を見て、とても心があたたまる感じがしました。しかし、私がちょっと理解不足かも知れないのですが、最後の方の場面で、患者さんが電話をしている時ずっと不平不満を言ってますよね。で、カメラは彼のせいで家に帰れないスタッフを追いかけています。そしてその様子で映画が終わっているので、少し当惑したんですけれど、こういった終わり方をしたのは監督の意図があるのでしょうか?
想田: 僕の中であのラストは、「このエンディングしかない」というくらい、強く信じている終わり方です。あの場面で何が起こっているのかは、僕もよく分かっていません。僕の理解をすり抜けることが何か行われている。で、色々想像はするんですけれど、そのどれが当たってるのかもよく分かりません。でも、それこそが、僕がこの題材を扱った時に感じていた印象で、「何か分かったかな」と思うとそれを裏切るようなことを見聞きするんですね。「分かったかなあ」と思った瞬間に、「ああ、やっぱり違った」っていうことの繰り返しだったんです。皆で楽しく詩を読んだシーンで終われば、Feel Good Movieというか、ホッとする映画になるかもしれないんですけれども、それだけではない気がしたんですね。だから最後にもう一回、分からないというか、そういうシーンを入れたいと思いました。そういう意味で、あのシーンを入れることによって、やっと自分の見た印象と映画が合わさったという感じがしています。
質問者(男性):質問は三つあります。精神の病を患っているということで、映像を撮っている時に見辛いという映像もやはりあったと思うんですね。でも、敢えてそういう映像を省略されているというのに何か意図はあるんでしょうか?二つ目に、映画の中で野党の日本共産党のポスターが映し出されているですけれども、何か社会の必要悪のような、この社会に必要な存在だということで患者を提起しているんではないか、というような印象も受けました。その辺の意図もお聞かせ下さい。また三つ目に、山本先生は本当に見ているだけで尊敬の念が湧いてきますが、日本ですごく有名な方なんでしょうか?
想田: 最初の質問の意味がよく分からなかったんですけど。見辛い映像というのはどういうのですか?
同じ質問者:例えば、自殺を試みているとか。
想田: まあ、そういう時にカメラが回ってなかったということだと思います。そういうことはそうないんだと思います。もちろんあるんですけれども。実際、僕が撮り始めてから5人も亡くなっているんですね。そのぐらいやっぱり病気と闘って、その闘いというのは本当に大変だということを実感するんですけれども、その場面に僕が居合わせるってことはなかなか無いと思います。だから、これはまずいとか、これは出さないという形で、僕が自主規制したものは基本的にはないです。あと日本共産党のポスターですけれども、もちろんあそこに入れた僕なりの意図はあります。ただその意図をここで説明すると野暮なんで、皆さん考えて下さい。
(会場、笑い)
あと山本先生ですが、知る人ぞ知る名医ということで、患者さん達の間ではかなり有名だと思います。でも、テレビに出てきて何かをコメントするとか、そういうことはあまりないと思います。
質問者(女性):映画とても楽しく観させていただきました。監督のお話では、日本ではまだ精神病というのがタブーだというお話でしたけれども、実はそういうことで言えば、タブーでもっと厳格な目で見られているのは韓国の方で、はるかにすごい状況に置かれています。で、なぜそんなことを申し上げるかというと、私は現在鬱病を患っています。そのせいで家に5ヶ月間閉じこもって出れない生活が続いていて、ようやく最近リハビリを始めたんですけれど、先生と話し合った結果、今回初めて釜山映画祭に一週間一人で行ってみるということを先生と相談して決めました。そして、その釜山映画祭に参加する中で、私が最も先に前売りを予約した作品が正にこの作品で、それだけ楽しみにしていて、何か私の力になってくれるんではないかと思って来ました。そして、実際に映画を観て、とても励まされました。日本ではタブーだというお話でしたが、韓国ではそれ以上にタブーだということはご存じでいらっしゃったんでしょうか?また二つ目に、韓国が初めての映画公開ということですが、果たして海外の観客にどのように受けとめられるのか、また、韓国の観客にどのように受けとめられるのか、映画を上映するにあたって緊張されませんでしたか?
想田: まず、この映画がお力になれたということだったら、それは本当に嬉しいです。中には、こういう映画を撮ること自体が寧ろ不道徳というか、「病気の人を撮ってそれを世間にさらす」というような批判的な発想もあると思うんですね。ですから、そこは自分としてもすごく迷う部分があるんです。見せていいものなのかどうかとか。でも、僕は患者さんが「出していい」と言ったことを信頼していて、それなのに僕が「出さない」というのはすごく失礼な話だと思うんです。だから、作ったからにはたくさんの人に見てもらいたいと、そういう気持ちでやっています。だから、実際に病気を患っている方がそういう風に感じて下さったことは、自分にとって本当に嬉しいです。あと、韓国の状況については、僕は全く知りません。ですから、どんな反応がくるのか全く予想できませんでした。実は、日本でもまだ、と言うか、今回世界で初めての上映だったので、もちろん僕はすごくドキドキしました。まだ日本でもやっていないんです。だから、日本のお客さんがどういう反応をするのかというのもすごく楽しみだし、ドキドキすることろです。多分、来年映画館で公開することになると思います。
司会者: この映画が多くの人に観ていただけるといいですよね。皆さん拍手で声援をあげて下さい。
(満場の拍手)
質問者(男性):さっきご返答をいただいた部分と重なることかも知れませんが、映画の中で「カーテンを取り払う」という話が出てきますけれども、映画を観るという行為により、その過程でその考えをより逆に深めさせる、または固まらせてしまう側面があるような気がしました。先ほどそういった批判について意識したと話されていましたけれども、人々の考え方や枠とか偏見というものはそう簡単に変わるものではないので、隠されていたものをさらすことによって、逆にそのカーテンを二重三重に強固なものに、または違う色のカーテンに変えてしまう懸念をお持ちでなかったのかということと、もしその懸念があったとしたら、そのためにどんなことを考えられたのでしょうか。
想田: そうですね、僕の意図は「カーテンを取り払う」ということですけども、それが僕の意図と反して、カーテンをより強固にしてしまう可能性は否定できないとは思います。でも、僕は何かを作る時には、恐らく良いことも悪いことも両方起こると思うんですね。で、なるべく良いことの方が起こればいいなと期待しつつ、善意で何かをやることしかできないと思うんです。それは薬に副作用があるみたいなものだと思うんですね。だから、なるべく副作用が無いようにという風に思いつつ作ったわけです。そういう風に念じるしかないと思って作りました。で、気を付けたのは、単純化することを避けるために、なるべく複雑な現実を複雑なまま提示するという方針を貫こうと努力しました。そのために、ショットはなるべく長く使う。短くカットするとどうしても意味が限定されてしまって、見る人に一つのメッセージ性みたいなものを投げかけてしまうので、なるべく長いショットで、お客さんが自分の目で観察できる時間を作るように努力しました。だからワンシーンが普通の映画よりもちょっと長いと思うんです。情報を伝えるだけだったらもっと短く切れると思うんですけども、それはしたくなかったんです。
司会者:今後はどんな作品を作っていかれるお考えですか?
想田: 今、観察映画の第三弾を撮っています。これは平田オリザという劇作家と彼の劇団を観察する映画です。でも、それがどんな映画になるのかは、僕も今はまだ全然分かりません。僕は、テーマを決めずに、自分が分からないから撮るという、そういう姿勢で撮っているので今分かったら変なんです。
司会者:終電の時間が近づいてきて、皆さんハラハラされているようです。ということで、夜通しお話をした
いところなんですけれども、お別れの時間になってしまったようです。昨日の開幕式に参加されたのであれば話を聞かれたと思いますが、昨日韓国を代表する大女優が自殺をしました。韓国では40代の死亡理由の4位が自殺で、20代の1位が自殺だそうです。韓国でも、ようやくそういう話を公にする時期がきているんではないかということを感じます。そういった残念なことがこれ以上起きてほしくないという気持ちで映画を観られた方も多いとかと思うんですけれども、最後に監督の方から何か一言お願い致します。
想田: そうですね、僕が凄くお世話になっていた映画監督の人が去年自殺されたりとか、友達が自殺したりとか、僕の周りでもすごく身近な問題だと思います。この映画が、こういう問題について皆さんが考える材料に少しでもなってくれたらいいなあと思ってます。最後に、さっき紹介し忘れたんですけれど、僕の妻もこの映画の撮影時には大体立ち会って、僕の代わりに患者さんの話を聞いたりということもやってくれました。僕は一人でカメラを回しながら撮るので、本来なら患者さんはカメラの方を向いている筈なんですね。でも、たまに斜めの方を向いている人がいると思うんですけど、それは僕の妻に話しかけているんです。
(場内笑い)
で、妻は今そこでカメラを回してます。さっき紹介するのを忘れてごめん。
(場内笑い)
皆さん、どうも有り難うございました。
(場内、拍手)
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映画『精神』釜山国際映画祭 上映後 Q & A (ワールドプレミア)
10/3/2008
司会:ナム・イニョン 通訳:延智美
想田: まずは最後までご覧いただき有り難うございました。そう簡単に最後まで見れる映画ではなく、どっとお疲れになったのではないかと思い、感謝しています。それから、今日、今の映画に出て下さった方、それから協力して下さった方が来ておりますので、ちょっとご紹介したいと思います。ちょっと立って下さい。
(会場、拍手)
皆さんはこの診療所と作業所のスタッフの方です。まず、こういうドキュメンタリーを撮る時には、患者さんに安心してもらう事が大事なんですけれども、そのためにはスタッフの方が僕を受け入れて、100%応援してくれないと、患者さんは繊細なので、撮影をなかなかうまく進められないんですね。そういう意味では、この方々が100%僕を信頼してサポートしてくれたので、なんとか撮影ができたのいうのが実感です。だからすごく感謝してます。それでも、僕が「出てくれますか?」と訊いた10人の当事者のうち、8人から9人は「出たくない」とおっしゃったんですね。それは、それだけこの問題がタブーだということなんです。精神的な病を持っているという事は、今の日本ではなかなか言い出す事ができません。ですから、映画に出て下さった方はもの凄い勇気を持って出て下さったんです。彼らの協力無しには、この映画は出来なかったので、出て下さったみなさんに感謝を申し上げたいと思います。それから釜山映画祭からはお金をいただきまして、そのお金なしにはこの映画が完成できませんでした。本当にありがとうございました。
司会者: 皆さん色々と質問があるかと思いますが、もう遅い時間になっておりますので、すぐに質問を受けたいと思います。
質問者(男性): 一般的に精神の病を患っておられる方々というのは、カーテンの裏に隠れていて、一般の人々とは距離感がある。で、この映画を通じて、一般の人々も同じような面を持っているし、また彼らを通じて学べることがあるという印象を受けて、とても驚きました。で、もっともご質問したいのは、彼らの心をどうやってオープンにさせていったのか、あれだけの話を聞けるには、どうやって彼らを説得し、心を開いてもらうというアプローチがあったのか、どうやってあれだけ彼らと近い距離が持てたのか、ということです。
想田: 先ほど申し上げたように、僕だけの力ではそういう風にいかなくて、やはり周りに協力者がいたというのが大きいと思います。特に山本先生が、撮影に対して不安を抱いた患者さんたちに、安心を届けて下さったんじゃないかなという気がしています。あとは、僕がカメラを持ってずーっと居るもんですから、段々友達になるんですよね。なかには僕に人生の相談をしてくる人もいたりとか、次第に深い交流も出てくるんです。
司会者: 無料相談ですか?
想田: そうです、無料相談です。(場内、笑い)
で、そうしていくうちに撮影が進んでいって。あとは、本当は、皆さん自分の気持ちをおっしゃりたいんだと思うんですよね。普段はあまり言えないことっていうのを、世間に向かって、カメラに向かって、言うんだと。例えば、今までは誰にも自分が病気だってことを言わなかったんだけれども、この映画をきっかけに言うようにする、というような決断をした人もいます。
司会者: 具体的に撮影期間はどれ位かかったんでしょうか?また、登場される方々とはどれくらい緊密に会われていたんでしょうか?
想田: 撮影は2回に渡ってやりました。2005年と2007年の2回の撮影で、合計だいたい一ヶ月位です。僕は患者さんとカメラを持たずに会う事はほとんどないです。必ずカメラを持って、「自分は撮影する人間だ」ということを示しながら、それでも受け入れてくれる方とどんどん撮影が進んでいったと思います。というのは、カメラを回す前に仲良くなって、それからおもむろにカメラを取り出して回すという手法の人もよくいるんですけども、僕はカメラを回している時と回してない時では人間が変わるんですね。だからカメラを回している時の人間を知ってもらうために、最初からカメラを回すというのが僕のやり方です。
司会者: たくさんの方の手が上がっているので、多くの人に回るように簡略に質問をお願いします。
想田: 僕も簡略に答えます。(場内、笑い)
質問者(男性):日本では精神病だということを言うことすら難しい、タブーだ、というお話がありましたが、そういったことを映画で撮ろうとしたきっかけを教えて下さい。
想田: 僕自身、色んなプレッシャーに負けそうになって、一度精神科に駆け込んだ事があります。その時、僕はすぐに回復したんですけれども、「ああ自分も病気になり得るんだな」と実感しました。でも、普段は全然関係ないものとして僕らは生活していて、まるで異星人を見るかのように、精神病患者は自分たちと違うっていう風に分けているような気がします。その状況はなにかおかしいと思ったので、ここは一つドキュメンタリーを撮りたいと。あとは、私の義理の母がこの診療所と一緒に仕事をしていて、たまたまこの診療所を知る事ができた。だからこれはいい機会なので、撮影を開始したということになります。
質問者(女性):この映画を撮られる前と撮られた後では、見方・考え方の変化はあったんでしょうか?映画の中で「カーテンで隔てられている」というような台詞が出てきますけれども、こういった精神疾患のある方々は、個人的に精神的な問題があるんだと思っていたのが、実はもっと社会的な問題もやはりあるんじゃないか、という風に考えが変わっていった点はあるんでしょうか?あと、スタッフの方々におうかがいいしたいんですけど、最初からずっと映画を観ながら、日本では以前秋葉原で無差別殺人などが起きましたけれども、現代社会では結婚しない人も増え、独り暮らしの人も増えている中で、社会的に孤立を感じて鬱病を抱えている人が増えているんではないかと思いますが、そういった方々とたくさん触れていく中で、私は映画を観て、逆に健常者よりもとても思慮深いという印象を患者さん方から受けました。スタッフの方々は、こういった患者さん方と色々接しながら、何が一番彼らを傷つけているのか、また最も彼らを見ていてもどかしい、または残念に思われるような点というのはどういったものなのでしょうか?
想田: この映画を撮る直前まで、僕は自民党という政党の選挙運動を撮っていました。その直後に精神科の人達に会って色々撮っていて、「ああ、こっちの人達の方が自分にずっと近い」と、思いました。自民党の人達は、色々ルールがあるんですが、そのルールに従って選挙運動をしていき、そのルールがどうしてそういう風に存在するのかってことをあんまり考えないんです。でも、患者さん達と話していると、その部分「どうしてなんだ?」というところにすごく引っかかっていて、その疑問をすごく突き詰めているような気がしました。また、撮る前の僕は、患者さんは弱い人たちなんだろうと、何となく思ってました。でも、撮ってみて必ずしも弱いという風には言えないなと、実感しました。もちろん病気で押し潰されそうになって、中には命を絶ってしまう方も居るんですけど、一方、その病気を肥やしにして、より人生を輝かせる要素にしている人もいるなあ、という風に感じました。そういう点は、撮る前、僕は全く予想もしていなかったので、自分で考え方、見方が非常に変わった点です。あとは、病気だからといって、ずうーっと暗く沈んでる訳じゃなくて、楽しいこともあれば冗談も飛ばすし、すごく明るい面もある訳ですね。だから、「病気の患者さん」と言う風に、一色に塗りつぶすのは、映画として非常によくないなあと思いました。実際、映画に登場する人が患者さんなのか患者さんでないのか、かなり曖昧に見える場面も多いんじゃないかと思います。大事なのは、病気かどうかということではなくて、人間として描かしてもらうということだと思います。大体僕はそんなところです。あの、さっきの質問にどなたが答えてくれるのか…?
山本真也: このような重く暗いテーマの映画を、一体どんな人が観にくるのかと思って今日は来ました。見ていると、すごく若い人達が多いことに非常に驚いています。で、今の方の質問に一つ答えるとすると、僕が毎日生活している場所には圧倒的に精神障害者という人の方が多く、健常者の方が少ない世界で、そういう世界にずっと長く居ると、僕自身も、誰もが精神障害者と言われる人達の価値観にどんどん引っぱられる。そりゃあもう誰でもそうだと思うんですよ。だから、彼女が言われたように、彼らの何が残念だと思うかと言われても、僕にはもう分からなくなってる、ということですね。残念と思わなくなっている。彼らは障害を負ってるんだけど、その彼らの日常を残念とはもう見れなくなっている、ということです。だから逆にこういった映画を観る、とりわけ若い人達、こういった世界と縁遠かった若い人達が答えを教えて欲しいっていうくらいの気持ちがします。
質問者(女性):映画をとても印象的に観させていただきました。普段、やはり劇映画に慣れてしまっているせいか、このドキュメンタリーを観ていて所々登場する、ぶら下がっているような落ち葉が気になったんですけども、あれは何か意図して写されたものなのでしょうか?また二つ目の質問は、お名前が分からないんですが、虫歯で困ってらっしゃる患者さんが出てらっしゃいますが、彼の台詞の中に「包帯を巻いてあげることだ」という言葉が出てきますが、この映画を通じて監督は彼らに包帯を巻いてあげたと思いますか、または彼らに包帯を巻いてもらったと思いますか?
想田: あの葉っぱですね。葉っぱは、撮っている時にはさほどなんてことなく、あまり意味なく撮ったんですけれど、編集の時に「ああ、この葉っぱはいいな」と思ったんですね。
(会場笑い)
で、何かのメタファーにもなり得るなと思いました。僕の解釈はあるんですが、それを言うと面白くないので言いませんが、自分の中では意味はあります。映画自体も、僕はメッセージを伝えることではなくて、現実を描く事に徹しようと思っているので、多分観て色んな感想が起きるんじゃないかと思うんです。だから多分人によって違うところに反応する、というか、違うところに違う印象を持つんじゃないかと思うんです。そして、それでいいと思っています。僕としては、ある意味ボールを投げて、それを受け取ってもらうんじゃなくて、打ち返して欲しいと思っています。で、その打ち返した玉が、「あっ、あっちに行った、こっちに行った」っていう風に観てるのが楽しい。それが僕の映画を作る喜びです。あと、包帯のことですが、僕が皆さんに包帯を巻けたかどうかは訊いてみないと分からないんですが、僕の方には巻いてくれたと思います。
質問者(女性):私は釜山の精神障害者達のリハビリを助ける病院に勤務しているスタッフです。そういった意味で、この映画にとても関心を持っていました。この映画に登場されるスタッフの働いている姿とか、また精神障害者の方々の話している様子を見て、非常に多くの部分は共感を持って映画を観終えたんですけれども、こういった映画がもっと世の中に出て行って、精神障害に対する理解が深まって欲しいと言うことを感じました。日本もタブーだという話をされましたけれども、韓国もやはり同じような環境に置かれていて、非常に多くの偏見がまだ残っています。ですから、こういった映画がもっともっと出てきて、そういった方々の力になって欲しいなと思いました。で、質問は、映画の中で診療所は、患者さんたちを診療するだけではなく、職業リハビリにも繋がって行われているような場所でした。それはこの病院ならではの特色なのか、それとも日本ではああいったシステムを持つ病院が普遍化しているのでしょうか?監督は、敢えて映画の撮影にふさわしい特殊な診療所を選んだのでしょうか。
想田: この診療所はあまり一般的ではないと思います。この病院を建てられた山本先生は、それまで県の精神福祉保健センターにずっと勤務されてたんですけれども、希望退職した後、この診療所を自分で立ち上げられました。山本先生は、精神科病院に勤務されていた時にも病棟から鍵をはずす運動の草分け的な存在、パイオニアで、医療スタッフではなく患者さんの側に立っての医療ってものをずっと目指してこられた方です。ですから、この診療所にも普通だと入院させられてしまうような患者さんもいらっしゃるんですけれども、その人達も皆家から通うことを奨励されて家から通っていらっしゃいます。なるべく病院に隔離されるんではなくて、地域で生活できるようにということでああいう仕事場、「作業所」を作っている。一つの理念に基づいてああいう形になっていると。で、それは日本ではそれほど一般的ではなく、かなり珍しいと思います。でも、僕は色んなものをリサーチした上で、その中から選んだという訳ではなく、たまたま僕の義理の母がそこと仕事をしているということで関係があった。そして色々見聞きしているうちに、「ああ、ここは凄く面白いなあ」ということになり撮影を始めたので、それが典型的かどうかということはあまり考えずに撮影を始めました。
質問者(男性):映画の全体を通して観ると、患者の方々も一般の人々と変わらなかったり、また、その患者の方々の為に一生懸命働いているスタッフの方々を見て、とても心があたたまる感じがしました。しかし、私がちょっと理解不足かも知れないのですが、最後の方の場面で、患者さんが電話をしている時ずっと不平不満を言ってますよね。で、カメラは彼のせいで家に帰れないスタッフを追いかけています。そしてその様子で映画が終わっているので、少し当惑したんですけれど、こういった終わり方をしたのは監督の意図があるのでしょうか?
想田: 僕の中であのラストは、「このエンディングしかない」というくらい、強く信じている終わり方です。あの場面で何が起こっているのかは、僕もよく分かっていません。僕の理解をすり抜けることが何か行われている。で、色々想像はするんですけれど、そのどれが当たってるのかもよく分かりません。でも、それこそが、僕がこの題材を扱った時に感じていた印象で、「何か分かったかな」と思うとそれを裏切るようなことを見聞きするんですね。「分かったかなあ」と思った瞬間に、「ああ、やっぱり違った」っていうことの繰り返しだったんです。皆で楽しく詩を読んだシーンで終われば、Feel Good Movieというか、ホッとする映画になるかもしれないんですけれども、それだけではない気がしたんですね。だから最後にもう一回、分からないというか、そういうシーンを入れたいと思いました。そういう意味で、あのシーンを入れることによって、やっと自分の見た印象と映画が合わさったという感じがしています。
質問者(男性):質問は三つあります。精神の病を患っているということで、映像を撮っている時に見辛いという映像もやはりあったと思うんですね。でも、敢えてそういう映像を省略されているというのに何か意図はあるんでしょうか?二つ目に、映画の中で野党の日本共産党のポスターが映し出されているですけれども、何か社会の必要悪のような、この社会に必要な存在だということで患者を提起しているんではないか、というような印象も受けました。その辺の意図もお聞かせ下さい。また三つ目に、山本先生は本当に見ているだけで尊敬の念が湧いてきますが、日本ですごく有名な方なんでしょうか?
想田: 最初の質問の意味がよく分からなかったんですけど。見辛い映像というのはどういうのですか?
同じ質問者:例えば、自殺を試みているとか。
想田: まあ、そういう時にカメラが回ってなかったということだと思います。そういうことはそうないんだと思います。もちろんあるんですけれども。実際、僕が撮り始めてから5人も亡くなっているんですね。そのぐらいやっぱり病気と闘って、その闘いというのは本当に大変だということを実感するんですけれども、その場面に僕が居合わせるってことはなかなか無いと思います。だから、これはまずいとか、これは出さないという形で、僕が自主規制したものは基本的にはないです。あと日本共産党のポスターですけれども、もちろんあそこに入れた僕なりの意図はあります。ただその意図をここで説明すると野暮なんで、皆さん考えて下さい。
(会場、笑い)
あと山本先生ですが、知る人ぞ知る名医ということで、患者さん達の間ではかなり有名だと思います。でも、テレビに出てきて何かをコメントするとか、そういうことはあまりないと思います。
質問者(女性):映画とても楽しく観させていただきました。監督のお話では、日本ではまだ精神病というのがタブーだというお話でしたけれども、実はそういうことで言えば、タブーでもっと厳格な目で見られているのは韓国の方で、はるかにすごい状況に置かれています。で、なぜそんなことを申し上げるかというと、私は現在鬱病を患っています。そのせいで家に5ヶ月間閉じこもって出れない生活が続いていて、ようやく最近リハビリを始めたんですけれど、先生と話し合った結果、今回初めて釜山映画祭に一週間一人で行ってみるということを先生と相談して決めました。そして、その釜山映画祭に参加する中で、私が最も先に前売りを予約した作品が正にこの作品で、それだけ楽しみにしていて、何か私の力になってくれるんではないかと思って来ました。そして、実際に映画を観て、とても励まされました。日本ではタブーだというお話でしたが、韓国ではそれ以上にタブーだということはご存じでいらっしゃったんでしょうか?また二つ目に、韓国が初めての映画公開ということですが、果たして海外の観客にどのように受けとめられるのか、また、韓国の観客にどのように受けとめられるのか、映画を上映するにあたって緊張されませんでしたか?
想田: まず、この映画がお力になれたということだったら、それは本当に嬉しいです。中には、こういう映画を撮ること自体が寧ろ不道徳というか、「病気の人を撮ってそれを世間にさらす」というような批判的な発想もあると思うんですね。ですから、そこは自分としてもすごく迷う部分があるんです。見せていいものなのかどうかとか。でも、僕は患者さんが「出していい」と言ったことを信頼していて、それなのに僕が「出さない」というのはすごく失礼な話だと思うんです。だから、作ったからにはたくさんの人に見てもらいたいと、そういう気持ちでやっています。だから、実際に病気を患っている方がそういう風に感じて下さったことは、自分にとって本当に嬉しいです。あと、韓国の状況については、僕は全く知りません。ですから、どんな反応がくるのか全く予想できませんでした。実は、日本でもまだ、と言うか、今回世界で初めての上映だったので、もちろん僕はすごくドキドキしました。まだ日本でもやっていないんです。だから、日本のお客さんがどういう反応をするのかというのもすごく楽しみだし、ドキドキすることろです。多分、来年映画館で公開することになると思います。
司会者: この映画が多くの人に観ていただけるといいですよね。皆さん拍手で声援をあげて下さい。
(満場の拍手)
質問者(男性):さっきご返答をいただいた部分と重なることかも知れませんが、映画の中で「カーテンを取り払う」という話が出てきますけれども、映画を観るという行為により、その過程でその考えをより逆に深めさせる、または固まらせてしまう側面があるような気がしました。先ほどそういった批判について意識したと話されていましたけれども、人々の考え方や枠とか偏見というものはそう簡単に変わるものではないので、隠されていたものをさらすことによって、逆にそのカーテンを二重三重に強固なものに、または違う色のカーテンに変えてしまう懸念をお持ちでなかったのかということと、もしその懸念があったとしたら、そのためにどんなことを考えられたのでしょうか。
想田: そうですね、僕の意図は「カーテンを取り払う」ということですけども、それが僕の意図と反して、カーテンをより強固にしてしまう可能性は否定できないとは思います。でも、僕は何かを作る時には、恐らく良いことも悪いことも両方起こると思うんですね。で、なるべく良いことの方が起こればいいなと期待しつつ、善意で何かをやることしかできないと思うんです。それは薬に副作用があるみたいなものだと思うんですね。だから、なるべく副作用が無いようにという風に思いつつ作ったわけです。そういう風に念じるしかないと思って作りました。で、気を付けたのは、単純化することを避けるために、なるべく複雑な現実を複雑なまま提示するという方針を貫こうと努力しました。そのために、ショットはなるべく長く使う。短くカットするとどうしても意味が限定されてしまって、見る人に一つのメッセージ性みたいなものを投げかけてしまうので、なるべく長いショットで、お客さんが自分の目で観察できる時間を作るように努力しました。だからワンシーンが普通の映画よりもちょっと長いと思うんです。情報を伝えるだけだったらもっと短く切れると思うんですけども、それはしたくなかったんです。
司会者:今後はどんな作品を作っていかれるお考えですか?
想田: 今、観察映画の第三弾を撮っています。これは平田オリザという劇作家と彼の劇団を観察する映画です。でも、それがどんな映画になるのかは、僕も今はまだ全然分かりません。僕は、テーマを決めずに、自分が分からないから撮るという、そういう姿勢で撮っているので今分かったら変なんです。
司会者:終電の時間が近づいてきて、皆さんハラハラされているようです。ということで、夜通しお話をした
いところなんですけれども、お別れの時間になってしまったようです。昨日の開幕式に参加されたのであれば話を聞かれたと思いますが、昨日韓国を代表する大女優が自殺をしました。韓国では40代の死亡理由の4位が自殺で、20代の1位が自殺だそうです。韓国でも、ようやくそういう話を公にする時期がきているんではないかということを感じます。そういった残念なことがこれ以上起きてほしくないという気持ちで映画を観られた方も多いとかと思うんですけれども、最後に監督の方から何か一言お願い致します。
想田: そうですね、僕が凄くお世話になっていた映画監督の人が去年自殺されたりとか、友達が自殺したりとか、僕の周りでもすごく身近な問題だと思います。この映画が、こういう問題について皆さんが考える材料に少しでもなってくれたらいいなあと思ってます。最後に、さっき紹介し忘れたんですけれど、僕の妻もこの映画の撮影時には大体立ち会って、僕の代わりに患者さんの話を聞いたりということもやってくれました。僕は一人でカメラを回しながら撮るので、本来なら患者さんはカメラの方を向いている筈なんですね。でも、たまに斜めの方を向いている人がいると思うんですけど、それは僕の妻に話しかけているんです。
(場内笑い)
で、妻は今そこでカメラを回してます。さっき紹介するのを忘れてごめん。
(場内笑い)
皆さん、どうも有り難うございました。
(場内、拍手)
Interview by Nicholas Vroman
Check out my interview by Nicholas Vroman on MENTAL.
http://pageofmadness.wordpress.com/2010/02/17/an-interview-with-kazuhiro-soda-director-of-mental/
N – How was Mental received at the Japanese premier (at the Yubari Film Festival)?
Soda – It was intense, actually. The screening ended around 12:45 am. And then our Q & A lasted until 2 o’clock in the morning. And then we called it a day, but then there were so many people who wanted to talk about the film that we were in the lobby until 3. And it’s always the case – as soon as the film finishes, everyone wants to talk about it. I mean that’s the nature of the film or rather, the subject matter (mental illness). And it also has something to do with the fact there aren’t so many chances to talk about it – this issue – because, usually, everybody’s a little bit hesitant, Even though somebody you know or somebody in your family is suffering from the same kind of illness, because of its nature, because of the taboo, people are not used to talking about it. But because of the film, people pour their emotions; pour out their thoughts and questions. And that’s what happens after the film. In Berlin, too, we ended our Q & A discussion around 1:40 am and we had to get out of the room, get out of the theater because the theater had to close the door. Pusan too. The same thing happened. Everywhere I go I see the same reactions.
(to read further, go to the link below)
http://pageofmadness.wordpress.com/2010/02/17/an-interview-with-kazuhiro-soda-director-of-mental/
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ドキュメンタリー論
Monday, April 12, 2010
河合隼雄「人の心はどこまでわかるか」
河合隼雄「人の心はどこまでわかるか」を読んだ。カウンセリングとドキュメンタリーの共通点に驚愕するばかりである。
「心理療法家」を「ドキュメンタリー作家」に、「クライエント」を「被写体」に読み替えるだけで、そのままドキュメンタリー論になると思う。心理療法とドキュメンタリーに共通するのは、相手との接点で生まれる何かだということだろう。
心理療法家の仕事は、こちらの力と、相談に来たクライエントの力と、二人の相互作用ですから、その中でうまくいかないことが起こって来ると、「やっぱり自分はだめじゃないか」と誰でも思いますし、それを経験していない人は本物ではないと思います。その意味では、心理療法家に完成したかたちというのはないと言えるでしょう。それはスポーツマンと同じで、全盛期の王貞治選手だって、自分はバッターとして完成したとは絶対に思っていなかったと思います。
(心理療法家は)ほかの専門職と異なり、自分のもつ知識や技術だけではなく、相手の可能性をはぐくみ、それによって勝負するというところがあります。そして、相手の個性を尊重すれば、必然的に一回一回が新しい発見の場となります。
心理療法家がクライエントにコミットしていく限り、着地点をまったく想定しないということはありえません。ただ、そういうものをもっていても、それを絶対視しないということがかんじんなのです。(略)(こちらから着地点へ)もっていこうとしてはいけない。思いこみの強い人は、どうしてもそちらにもっていこうとしがちですが、これは非常に危険なことです。たとえば、学校のことで相談に来ている人に対し、心理療法家が着地点を母親との関係に想定したとすると、「お母さんをどう思うか」とか、「お母さんはどうしているか」とか、母親のことを熱心に聴こうとします。そうすると、それがクライエントに対して一つの方向づけになってしまって、ゆがめられてしまう可能性があるわけです。
「心理療法家」を「ドキュメンタリー作家」に、「クライエント」を「被写体」に読み替えるだけで、そのままドキュメンタリー論になると思う。心理療法とドキュメンタリーに共通するのは、相手との接点で生まれる何かだということだろう。
Saturday, January 30, 2010
『Atプラス』に寄稿

『Atプラス』(第3号)という硬派で面白い雑誌に文章を寄せました。今号のテーマは「アートと活動」だそうです。そこで僕は「ドキュメンタリーにメッセージは必要か?」と題して、ドキュメンタリーとプロパガンダについて書きました。よかったらお読み下さいませ。
http://www.ohtabooks.com/publish/2010/02/06112237.html
以下は、本稿の出だしを抜粋したものです。
ドキュメンタリーにメッセージは必要か?
想田和弘
「この映画に込めたメッセージは何ですか?」
自民党候補者による選挙運動の内幕を追った『選挙』や、岡山市にある精神科診療所の世界を描いた『精神』を公開する過程で、このような質問をジャーナリストや観客から何度も受けてきた。
彼らの質問からは、『選挙』や『精神』のごとき“社会派”のドキュメンタリーには、当然、作者の高邁なる主義主張や啓蒙的なメッセージが込められているハズだろうという、暗黙の前提のようなものが透けてみえる。
いや、もしかしたら、彼らはそれが社会派の映画だからメッセージを期待したわけではないのかもしれない。それが恋愛映画であろうが、小説だろうが、演劇だろうが、舞踊だろうが、およそ表現と名のつくものには作者の「メッセージ=言いたいこと、伝えたいこと」があるはずだと、信じ込んでいるだけなのかもしれない。
いずれにせよ、彼らは目をキラキラさせて、唾をごくりと飲み込んで、あたかも問題の核心に触れるがごとく、作者からの決定的な答えを期待する。「さあ、要するに言いたいことは何ですか?正解は何ですか?」と。
けれども、僕は彼らの期待に応えることができないし、応えたくない。いや、実を言えば、作品がメッセージを発することを注意深く回避しながら映画を作っている。作品にメッセージを込めるのは、危険だとさえ思っている。だから僕の返答は決まっている。
「僕の映画にメッセージはないですよ。言いたいことも、結論もありません」
ドキュメンタリー作家=活動家説
すると質問者は、かすかな狼狽を顔に表す。それまで一歩一歩登ってきた梯子をいきなり外され、身体が宙にふわっと浮いてしまったときのような、頼りない、裏切られたような表情である。
確かにドキュメンタリー映画には、歴史的にも、今日的にも、メッセージ性の強いものが多い。
実際、僕が住むアメリカなどでは特に、ドキュメンタリーの作り手は、作品によって世の中の矛盾や不正、不公平を告発し、“社会的正義”を希求して闘わなければならないと、多くの作り手が考えているようにみえる。ドキュメンタリー作家=活動家説である。
この説を採用する作り手たちは、自らの作品を社会運動の手段として考える。革命家が銃を手に取るように、カメラを武器として使う。したがって、作品の完成度や芸術性などよりも、それがどのようなメッセージを持ち、いかに観客を啓蒙し、目覚めさせ、政治的・社会的目標に近づけるかということが、重要視されるのである。
そのような作品の最大の特徴は、作品に使われるあらゆる映像や音声が、単純で明快なメッセージの正しさを立証し、観客に印象づけるために使われていることである。だから、映画を観終わった観客は、作品の趣旨を一言か二言で総括できてしまうし、作品が訴えかけるものが何であるかは明白すぎて、作者に改めて尋ねる必要もない。
例えば、マイケル・ムーアの『華氏九一一』(〇四年、アメリカ)を観て、「ジョージ・W・ブッシュはやっぱり凄い人だなあ」と思う人は、たぶんほとんどいないだろうし、そういう人が大勢いたとしたら、ムーアは作品の目的を達成できなかったことになる。同作は、ブッシュを徹底的にこき下ろして、大統領選での再選を阻むためにこそ作られた作品だからである。
同様に、アル・ゴアの『不都合な真実』(〇六年、アメリカ)を観て、「地球温暖化とか言ってるけど、この映画を見る限り大丈夫そうじゃん」と思う人は少ないだろうし、モーガン・スパーロックの『スーパーサイズ・ミー』(〇四年、アメリカ)を観て、ビッグ・マックを食べたくなる人は稀だろう。また、ルイ・サホイヤスの『ザ・コーヴ』(〇九年、アメリカ)を観て、和歌山県で行われているイルカ漁を「素晴らしい日本の伝統文化だ」と思う人も、たぶんいない。いや、いたら作者としては困るのである。
これらの作品の最上位には、作り手が考えるところの「メッセージ」や「正しさ」が鎮座している。そして、映像はそれを観客の頭に叩き込み、注入するための道具として、利用されるのである。
…以下は『At プラス』誌でお読み下さい
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Tuesday, January 12, 2010
「グラフィカ」第3号にインタビュー

「グラフィカ」第3号に僕のインタビューが掲載されています。超硬派で面白い本です〜。
http://www.graficamag.com/grafica.html
以下、インタビューのほんの一部の抜粋です。
ー作為を排するということですか?
いや、作品ですから作為はあります。「この映画を撮ろう」と思うこと自体が作為ですから。作品のために行うあらゆる行動に作為があるわけです。
編集のときもそうです。例えば『精神』でいうと、70時間の映像素材を2時間15分にまとめたわけですから、68時間は捨ててるわけです。凄まじい選別作業です。
で、どうやっているかというと、まず自分が興味のあるシーンからどんどん繋いでいきます。そうするといくつもシーンができあがります。それを一本にまとめます。でも、まとめた時点ではこれはシーンの羅列でしかない。映画にならないんです。で、ここからパズルがはじまるんです。シーンを入れたり出したり、順序を入れ替えたり。そのうちに、「実はこの映画のテーマはこういうことだったのか!」などという“気づき”が、編集し始めて4、5ヶ月目位にやっと出始めて来る。そしたらその視点を先鋭化するために、また順序を入れ替えたり、ショットの順番を調整していく。これが編集の技術なんですね。作為以外の何物でもない。
ただし、それは自分の考えに現実を無理矢理当てはめるための作為ではなくて、自分が対象を観ることで徐々に獲得していった視点を表現するための作為であるわけです。それで僕は編集に10ヶ月かかるんですよ。
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Tuesday, December 15, 2009
『社会福祉セミナー』に番組抄録

NHK出版『社会福祉セミナー』(09年12月−10年3月)に教育テレビ『福祉ネットワーク:「精神」を撮る』の番組抄録が掲載されています。
https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=69107162009
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Friday, December 11, 2009
『キネマ旬報』12月下旬号に寄稿

雑誌『キネマ旬報』12月下旬号に、自分の方法論についての文章を書きました。「ドキュメンタリー、ドキュメンタリー作家の多様性」と題する特集の一環です。
http://www.kinejun.com/kinema/index.html
以下は、本稿の出だし部分の抜粋です。
「観察映画シリーズ」と銘打って、ドキュメンタリー映画を作っている。これまでに、選挙運動を観察した『選挙』(07年公開、観察映画第一弾)と、精神科診療所の世界を描いた『精神』(09年公開、同第二弾)を発表した。現在、平田オリザ氏と青年団を被写体にした『演劇(仮題)』(同第三弾)を製作中である。
観察映画の方法論的特徴として、撮影する前にテーマ設定をしないことが挙げられる。リサーチを最小限にとどめ、構成台本も書かず、目の前の現実をつぶさに観察しながら、行き当たりばったりで撮影をする。事前にいろいろ決めると、それが先入観や足枷となって、予定調和的な作品になってしまうからである。編集の際にも、先にテーマを決めない。映像素材を何度も観察し、試行錯誤を繰り返しながら、自らの視点を定めて行く。そして、その結果を映画にしていく。
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Saturday, November 07, 2009
甘く苦い作業
遅まきながら、観察映画第3弾となる『演劇(仮題)』の映像素材を編集機に取り込む作業を始めた(これをキャプチャーという)。リアルタイムで取り込みながら映像を観て、内容を書き出して行く(これをロギングという)。
全部で約310時間も撮ってしまったので、1日7〜8時間作業しても、1か月以上かかる計算である。『選挙』は60時間、『精神』は70時間しか回らなかった。今回はなんでこんなに撮っちゃったんだろうと、自分に呆れながら作業を続けている。
撮った映像を観るのはいつも、苦く甘い経験である。撮影時には気付かなかった思わぬ発見があって嬉しくなったり、決定的瞬間にカメラがしくじっているのを目の当たりにしたり。
これが別のカメラマンが撮った映像なら、下手クソなカメラワークに「あいつ何やってんだ!チッ」と舌打ちして発散できるのであるが、僕の場合自分で回してるから怒りをぶつける場所に困る。
実際、「何を考えていまパン(カメラを水平にふること)をしたんだ、お前はアホか?」と、そのときの自分の行動が今から観れば全く信じがたく、他人がやったポカのように感じることがある。ホントに不思議だ。そのくせ、絶妙なカメラワークを観たときは「俺、天才かも」とかつぶやいたりするのだから、我ながらゲンキンなものである。
全部で約310時間も撮ってしまったので、1日7〜8時間作業しても、1か月以上かかる計算である。『選挙』は60時間、『精神』は70時間しか回らなかった。今回はなんでこんなに撮っちゃったんだろうと、自分に呆れながら作業を続けている。
撮った映像を観るのはいつも、苦く甘い経験である。撮影時には気付かなかった思わぬ発見があって嬉しくなったり、決定的瞬間にカメラがしくじっているのを目の当たりにしたり。
これが別のカメラマンが撮った映像なら、下手クソなカメラワークに「あいつ何やってんだ!チッ」と舌打ちして発散できるのであるが、僕の場合自分で回してるから怒りをぶつける場所に困る。
実際、「何を考えていまパン(カメラを水平にふること)をしたんだ、お前はアホか?」と、そのときの自分の行動が今から観れば全く信じがたく、他人がやったポカのように感じることがある。ホントに不思議だ。そのくせ、絶妙なカメラワークを観たときは「俺、天才かも」とかつぶやいたりするのだから、我ながらゲンキンなものである。
Sunday, September 06, 2009
雑誌『文学界』に寄稿
雑誌『文学界』(10月号・9/7発売)に「観察映画についての覚え書き」と題する文章を寄稿しました。観察映画というスタイル・方法論について、覚え書き風にまとめました。
「総力特集:映画の現在——若手日本映画作家の肖像」という企画の一環です。よかったらお読み下さい。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/
以下、本稿からのほんの一部の抜粋です。
「総力特集:映画の現在——若手日本映画作家の肖像」という企画の一環です。よかったらお読み下さい。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/
以下、本稿からのほんの一部の抜粋です。
(七)観客に「観ること」を迫る
観察映画は、観客に自分の目と耳でスクリーンをよく観察することを強いる映画である。
多くのドキュメンタリーでは、新しい登場人物が現れるたびに、テロップで名前や肩書きを表示し、ナレーションでも懇切丁寧に解説してくれる。しかし、観察映画ではそのような「情報」や「説明」が作り手から与えられないので、観客は登場人物の動作や表情、話し方やその内容に注意を傾けざるを得ない。そして、観客それぞれの世界観や人間観、経験と照らし合わせながら、登場人物について知り、解釈していかなければならない。情報の欠落が、観客の観察眼を刺激し、作動させるとも言える。
(八)観察映画は観客を信頼する
したがって、観察眼を使う労力を厭う人や、懇切丁寧に何でも噛み砕いて説明する離乳食のような映像を受け身で消費することに慣れ切っている人は、観察映画の入り口で門前払いされてしまうだろう。
しかし、自分の意志で門をくぐった観客は、自らの顎と歯を使って映像を咀嚼し、消化することになる。そこでは、観客は受け身の消費者ではなく、能動的で主体的な鑑賞者として、映画の世界に接することが可能である。
観察映画は、観客の注意力や咀嚼力、洞察力を信頼するのである。
(九)観客はバッター
観察映画では、作り手がピッチャーなら、観客はキャッチャーではなく、バッターとして想定する。鑑賞者が自分の力でバットを振り、ボールを色々な方向に打ち返すことを期待する。換言するならば、作り手が観客へ一方的に何かを伝えるのではなく、両者が衝突し合う双方向のコミュニケーションを目指している。
(十)観察映画は「窓枠」を提示する
観察映画の作り手が行うのは、世界を切り取る視座としての窓枠(=フレーム)を、観客に提示する作業である。
窓枠の外にある世界は、観客には見えない。しかし、窓枠の中で起きていることは、自由に観察できる。
ナレーションやテロップによる説明を付けることは、窓枠の中の風景に「ここを観ろ!」と矢印を付けたり、風景そのものに色を付けたりすることに当たる。それは、観客による自由な観察や洞察を妨げかねない。
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Wednesday, July 01, 2009
「宇多丸X想田」ポッドキャスト
TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の「宇多丸x想田」観察ラジオ対談が、ポッドキャストにアップされました。
出ている僕が言うのもなんだけど、めっちゃオモロいです。俺、マジで本気でしゃべってるわ〜。
いや、僕はいつだって(少数の例外を除けば)本気なんだけど、今回は完全に宇多丸さんに乗せられて、違うところに行っちゃってる。恐るべし、宇多丸師匠。そして、こんな番組を敢えて流すTBSラジオって…(笑)。スタッフも凄い!世の中、捨てたもんじゃない!無性に嬉しくなりました。
http://www.tbsradio.jp/utamaru/2009/07/post_474.html
出ている僕が言うのもなんだけど、めっちゃオモロいです。俺、マジで本気でしゃべってるわ〜。
いや、僕はいつだって(少数の例外を除けば)本気なんだけど、今回は完全に宇多丸さんに乗せられて、違うところに行っちゃってる。恐るべし、宇多丸師匠。そして、こんな番組を敢えて流すTBSラジオって…(笑)。スタッフも凄い!世の中、捨てたもんじゃない!無性に嬉しくなりました。
http://www.tbsradio.jp/utamaru/2009/07/post_474.html
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抜粋
Monday, June 01, 2009
「ドキュメンタリー映画の最前線」メルマガに掲載
ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン neoneo 125号(2009.6.1)に、拙文「自作を語る 観察映画『精神』について」が掲載されました。ご一読ください。
ちなみに、ドキュメンタリー好きのみなさん、このメルマガは必読です!
http://www.melma.com/backnumber_98339_4497665/
以下、全文掲載。
ちなみに、ドキュメンタリー好きのみなさん、このメルマガは必読です!
http://www.melma.com/backnumber_98339_4497665/
以下、全文掲載。
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┃02┃□自作を語る
┃ ┃■観察映画『精神』について
┃ ┃■想田 和弘
┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
岡山市にある精神科診療所「こらーる岡山」で繰り広げられる複雑な世界を描いた拙作『精神』(観察映画第2弾)が、6月13日(土)から東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほか、全国で順次劇場公開される。
前作『選挙』(観察映画第1段)に続き、なぜ僕は自分のドキュメンタリー映画を「観察映画」と呼ぶのか。それには、二重の意味を込めている。一つは、作り手(=僕)による観察。できるだけ先入観を排し、目の前の世界を虚心坦懐に観察して、その結果を映画にする。もう一つは、観客による観察。観客それぞれが映画の中で起きることを主体的に観察し、感じ、解釈できるよう、作品に多義性を残す。そのために、僕は次のような方法論を実践している。
第一に、事前のリサーチや打ち合わせをしない。例えば、『精神』を撮るに当たって、精神疾患について予め勉強しなかった。事前に病気の知識を仕入れてしまうと、その特徴に合うことばかりにカメラを向け、それ以外の側面を見落としかねないからである。対象に関する知識は、往々にして先入観や固定概念となって、現実を「す」の状態で観察することを妨げる。
第二に、構成表やシノプシス等を書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
第三に、少人数で撮る。基本的には、僕がカメラマンと録音を兼ねる。
第四に、ナレーション、説明テロップ、音楽を放棄する。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう。
第五に、編集作業に時間をかける。予め設定したテーマに合わせて画を切っていくのではなく、撮れた映像素材が語りかけるものに耳を傾け、観察し、その過程で発見した視点を作品として結実させていく。
第六に、観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。
最後に、制作費は自分で出す。もしくは、作品の独立性が保たれ得るような資金を利用する。
これらの方法論から、観察映画がプロパガンダ的な政治主義やテーマ主義を否定するものであることは、明らかであろう。もっと言えば、作品にメッセージは込めない。『精神』でいえば、「精神障害者の地域での生活を支援しよう」とか、逆に「病院に隔離すべき」とか、一切主張することはない。観察映画は、世界を作者の視点で描写することに徹するのであり、映像や音声を「言いたいこと=メッセージ」に従属させないのである。
また、観察映画は客観主義にも組しない。それは、観察の主体=制作者がカメラを通して観たり体験したことを綴る主観的な表現方法である。例えば、客観主義の作品が「東京の人口はX万人」と三人称的に記述するところを、観察映画は「東京に行ったら大勢の人がいた」という具合に一人称で描く。そもそも、僕は客観的なドキュメンタリーなど、原理的に存在し得ないと考えている。
以上のような方針と方法論に加え、『精神』では、人の顔にモザイクをかけないというポリシーを貫いた。そのため、撮影許可を得る作業は難航し、声をかけた10人のうち8、9人には撮影を断られた。
しかし、モザイクをかけると、精神病患者への偏見や固定概念を助長しかねず、先入観を取り外して「よく観る」ことを本義とする観察映画の精神に反する。また、モザイクは「被写体のプライバシーを守る」という大義名分のもとに使われるが、実は作り手や興行側を訴訟やクレームから守るために使われている。結局それは、被写体や観客に対する責任放棄であり、表現を堕落させる。加えて、モザイクで顔を覆うと、被写体の表情を観察することが不可能になり、観察映画になり得ない。だからこの点には最後までこだわった。
総じて、『精神』では、世間と精神科の世界の境界にかけられた見えざるカーテンを、カメラの力で取り払い、じっくりと観察する映画になったと思う。その開け放たれた世界をどう観るのか。それは、観客ひとりひとりにゆだねようと思う。
☆『精神』(2008年、135分、米国/日本)
監督・撮影・録音・編集・製作:想田和弘 製作補佐:柏木規与子 出演:こらーる岡山の皆さん、ほか。配給・宣伝:アステア。6月13日からシアター・イメージフォーラム等全国順次公開。受賞歴:釜山国際映画祭・最優秀ドキュメンタリー賞/ドバイ国際映画祭・最優秀ドキュメンタリー賞/マイアミ国際映画祭・審査員特別賞/香港国際映画祭・優秀ドキュメンタリー賞/ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭・宗教を超えた審査員賞
公式サイト: http://www.laboratoryx.us/mentaljp/
☆6月13日よりシアター・イメージフォーラム(東京)での上映を
皮切りに、各地で順次公開します。詳細は上記のサイトをご覧ください。
■想田 和弘(そうだ・かずひろ):映画作家。1970年栃木県足利市生まれ。ニューヨーク在住。『選挙』(07年)は7月4日から復活ロードショー。『精神』(08年)は釜山国際映画祭等で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞。09年、初の著書『精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける』(中央法規出版)を刊行。
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ドキュメンタリー論,
抜粋
Sunday, May 03, 2009
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