心理療法家の仕事は、こちらの力と、相談に来たクライエントの力と、二人の相互作用ですから、その中でうまくいかないことが起こって来ると、「やっぱり自分はだめじゃないか」と誰でも思いますし、それを経験していない人は本物ではないと思います。その意味では、心理療法家に完成したかたちというのはないと言えるでしょう。それはスポーツマンと同じで、全盛期の王貞治選手だって、自分はバッターとして完成したとは絶対に思っていなかったと思います。
(心理療法家は)ほかの専門職と異なり、自分のもつ知識や技術だけではなく、相手の可能性をはぐくみ、それによって勝負するというところがあります。そして、相手の個性を尊重すれば、必然的に一回一回が新しい発見の場となります。
心理療法家がクライエントにコミットしていく限り、着地点をまったく想定しないということはありえません。ただ、そういうものをもっていても、それを絶対視しないということがかんじんなのです。(略)(こちらから着地点へ)もっていこうとしてはいけない。思いこみの強い人は、どうしてもそちらにもっていこうとしがちですが、これは非常に危険なことです。たとえば、学校のことで相談に来ている人に対し、心理療法家が着地点を母親との関係に想定したとすると、「お母さんをどう思うか」とか、「お母さんはどうしているか」とか、母親のことを熱心に聴こうとします。そうすると、それがクライエントに対して一つの方向づけになってしまって、ゆがめられてしまう可能性があるわけです。
「心理療法家」を「ドキュメンタリー作家」に、「クライエント」を「被写体」に読み替えるだけで、そのままドキュメンタリー論になると思う。心理療法とドキュメンタリーに共通するのは、相手との接点で生まれる何かだということだろう。
一年以上もカウンセリング(診察)を受けていると「こういう患者」という前提で見られてるんじゃないかと思う時があります。診察をかさねることによって私という人物を理解していくのだから、まったく前提がないとまた話が進まないのだろうとは思いますが、私が医者をかえたいと思う時です。
ReplyDelete梨沙さん
ReplyDeleteなるほど。治療者がそのようになるのは、たぶん河合先生が言われる「慢心」という状態なのだろうと想像します。ドキュメンタリーを作る際にも、分かった気になったり、これはこういうことだと決め込んでしまうのが禁物です。常に自らの正当性を疑わなくてはならないわけです。
私の方も「この医者はこういう『慢心』な医者だ」と思って診察を受けるようになるとよけい話にならないので、そう思った気持ちも伝えつつ、諦めずに診察を受けたいと思います。今までは順調にきたので。今「あなたが子どもだったころ」(河合隼雄)を読んでいます。「人の心はどこまでわかるか」も読んでみたいです。
ReplyDelete是非、この本を読んでみたいと思います。
ReplyDelete前精神科医に、母が神経症で現在もかかり続け、私は躁うつ病・アダルトチルドレンと診断されたのですが、私のみ転院しました(ちなみに、母と私は別居しています)。
私の転院の理由は、まさに想田さんが書かれているようなドクターでして、非常にこちらがドクターからパワー(威圧感)を感じ、その恐怖心から思っている事を正直に語れなくなってしまったからです。
つい先日、父が亡くなりました。
前精神科医は、「治療」という名のもと、私にこの件を伏せ、私は葬儀はおろか、未だ、お線香一本あげれておりません。
父の死亡は、遺産分割の件で話し合いたい、と電話してきた司法書士から初めて聞きました。
私は、ここまでくると、新手の信教宗教に母が染まっているとしか思えません…。
もぐさん
ReplyDeleteお父さんが亡くなったことをご存じなかったというのは、大変なショックでしょうね…。