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Saturday, January 30, 2010

『Atプラス』に寄稿


『Atプラス』(第3号)という硬派で面白い雑誌に文章を寄せました。今号のテーマは「アートと活動」だそうです。そこで僕は「ドキュメンタリーにメッセージは必要か?」と題して、ドキュメンタリーとプロパガンダについて書きました。よかったらお読み下さいませ。

http://www.ohtabooks.com/publish/2010/02/06112237.html

以下は、本稿の出だしを抜粋したものです。

ドキュメンタリーにメッセージは必要か?
想田和弘

 「この映画に込めたメッセージは何ですか?」
自民党候補者による選挙運動の内幕を追った『選挙』や、岡山市にある精神科診療所の世界を描いた『精神』を公開する過程で、このような質問をジャーナリストや観客から何度も受けてきた。
 彼らの質問からは、『選挙』や『精神』のごとき“社会派”のドキュメンタリーには、当然、作者の高邁なる主義主張や啓蒙的なメッセージが込められているハズだろうという、暗黙の前提のようなものが透けてみえる。
 いや、もしかしたら、彼らはそれが社会派の映画だからメッセージを期待したわけではないのかもしれない。それが恋愛映画であろうが、小説だろうが、演劇だろうが、舞踊だろうが、およそ表現と名のつくものには作者の「メッセージ=言いたいこと、伝えたいこと」があるはずだと、信じ込んでいるだけなのかもしれない。
 いずれにせよ、彼らは目をキラキラさせて、唾をごくりと飲み込んで、あたかも問題の核心に触れるがごとく、作者からの決定的な答えを期待する。「さあ、要するに言いたいことは何ですか?正解は何ですか?」と。
 けれども、僕は彼らの期待に応えることができないし、応えたくない。いや、実を言えば、作品がメッセージを発することを注意深く回避しながら映画を作っている。作品にメッセージを込めるのは、危険だとさえ思っている。だから僕の返答は決まっている。
 「僕の映画にメッセージはないですよ。言いたいことも、結論もありません」

 ドキュメンタリー作家=活動家説

 すると質問者は、かすかな狼狽を顔に表す。それまで一歩一歩登ってきた梯子をいきなり外され、身体が宙にふわっと浮いてしまったときのような、頼りない、裏切られたような表情である。
 確かにドキュメンタリー映画には、歴史的にも、今日的にも、メッセージ性の強いものが多い。
 実際、僕が住むアメリカなどでは特に、ドキュメンタリーの作り手は、作品によって世の中の矛盾や不正、不公平を告発し、“社会的正義”を希求して闘わなければならないと、多くの作り手が考えているようにみえる。ドキュメンタリー作家=活動家説である。
 この説を採用する作り手たちは、自らの作品を社会運動の手段として考える。革命家が銃を手に取るように、カメラを武器として使う。したがって、作品の完成度や芸術性などよりも、それがどのようなメッセージを持ち、いかに観客を啓蒙し、目覚めさせ、政治的・社会的目標に近づけるかということが、重要視されるのである。
 そのような作品の最大の特徴は、作品に使われるあらゆる映像や音声が、単純で明快なメッセージの正しさを立証し、観客に印象づけるために使われていることである。だから、映画を観終わった観客は、作品の趣旨を一言か二言で総括できてしまうし、作品が訴えかけるものが何であるかは明白すぎて、作者に改めて尋ねる必要もない。
 例えば、マイケル・ムーアの『華氏九一一』(〇四年、アメリカ)を観て、「ジョージ・W・ブッシュはやっぱり凄い人だなあ」と思う人は、たぶんほとんどいないだろうし、そういう人が大勢いたとしたら、ムーアは作品の目的を達成できなかったことになる。同作は、ブッシュを徹底的にこき下ろして、大統領選での再選を阻むためにこそ作られた作品だからである。
 同様に、アル・ゴアの『不都合な真実』(〇六年、アメリカ)を観て、「地球温暖化とか言ってるけど、この映画を見る限り大丈夫そうじゃん」と思う人は少ないだろうし、モーガン・スパーロックの『スーパーサイズ・ミー』(〇四年、アメリカ)を観て、ビッグ・マックを食べたくなる人は稀だろう。また、ルイ・サホイヤスの『ザ・コーヴ』(〇九年、アメリカ)を観て、和歌山県で行われているイルカ漁を「素晴らしい日本の伝統文化だ」と思う人も、たぶんいない。いや、いたら作者としては困るのである。
 これらの作品の最上位には、作り手が考えるところの「メッセージ」や「正しさ」が鎮座している。そして、映像はそれを観客の頭に叩き込み、注入するための道具として、利用されるのである。

…以下は『At プラス』誌でお読み下さい

6 comments:

  1. 小谷喜典4:30 AM

     論文読ませていただきましたが、正直言って内容にも語り口にも違和感を覚えました。
     まずは、冒頭でドキュメンタリーについてメッセージがあるべきとの固定観念をもった人たちを批判していますけど、私にはどうも一方的でちょっときつい言い方をすると「人を小馬鹿にしている」ような印象を受けました。
     「彼らは目をキラキラさせ」ながら「この映画に込めたメッセージは何ですか?」と質問し、想田さんが期待通りの社会的なメッセージについて答えてくれないことに「裏切られたような表情」をしているとのことです。でもこれはホントにリアルな体験なのですか?「そんなに単純でわかりやすい人が今どきいるのかなあ?」と疑問です。少なくとも最近の日本では社会的メッセージを大上段に掲げた作品なんてほとんどお目にかかれないし、むしろ政治的なメッセージを発することに極度に萎縮してしまっているのではないかとさえ感じる今日この頃なので、想田さんの「体験談」が全然ピンときません。批判するために作り上げた架空の人格ではないかとの疑念さえ抱いてしまいます。
     ドキュメンタリーにメッセージがなくてはならないなどとは考えていませんが、メッセージを込めて何が悪いのだろうと考えている私にとっては、やはり想田さんのお考えはあまりにも神経質な印象を受けます。
     論文の中で「プロパガンダ的なドキュメンタリーは、その基本的な姿勢として、観客を主体的な人間として扱わず容易に操作できる受動的な人間として見下しているからだ。」と書いていますが、その数行も隔たらない箇所では「極端に単純化して言えば、作り手が「白」というメッセージを発すれば観客の頭の中は「白」になるし、「黒」というメッセージを発すれば「黒」になる。それはカートリッジを入れ替えるようなもので洗脳に近いのである」と書いています。私には、作り手の意図によって観客は簡単に洗脳されてしまうかのように考えているほうがむしろ「見下している」ように思えてしまいます。だって、現状を見た時どうですか? ムーアの映画で観客は洗脳されちゃっていますか? 賛否両論あるんじゃないですかねえ。多様性が担保されていればそんな大事には至らないと思いますよ。リーフェンシュタールの映画にしたって、それが国民を洗脳してしまったのではなく、ナチスに強さやカッコよさを見出したいという国民の要求が既にあって、それに乗っかったに過ぎないのではないでしょうか(それにしても映像は見ごたえありますよね)。実際、当時どの程度の人が観たかもわかりませんし。
     前のブログで黒澤明の映画を取り上げていましたが、彼が「一般庶民の生活を描いてもけっして同じ目線からその生活状況を見ているとは感じられない」と、ある本で(黒澤映画の大ファンであるとの前置きつきで)批判されていましたけど、私は想田さんの観客に対する考え方の中にこの批判を思い出してしまいました。
     私はドキュメンタリーに限らず、作り手が何か作品を作る時に、メッセージから逃れることなど不可能なのではないかと思います。「虚心坦懐」といっても、何か動機があって作品を作るのだし、「こういうことを伝えたい」というものを持たないなんて、私にはどうしても考えられないんですよね。

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  2. 小谷喜典さま

    詳しいコメントをありがとうございました。論文の本文を読んでない方には、何が何やら分かりにくいかもしれませんが、僕なりの反論を書きたいと思います。

    まず、冒頭の表現についてですが、「彼ら」とあるように、特定の人物について語っているわけではありません。つまり、いろんな経験をつぎはぎしているわけでして、「架空の人格ではないか」と言われれば、その通りです。少し大げさに書き過ぎたかもしれませんが、僕の体験と大きくかけ離れているわけではありません。

    また、「少なくとも最近の日本では社会的メッセージを大上段に掲げた作品なんてほとんどお目にかかれないし、むしろ政治的なメッセージを発することに極度に萎縮してしまっているのではないか」とのご指摘ですが、たしかに日本のドキュメンタリーの伝統では、アメリカに比べて「大上段に」社会的・政治的メッセージを掲げたものは少ないですね。だから分かり易い例としては、「華氏911」や「不都合な真実」などのアメリカ映画を僕は挙げました。

    では、日本のメディアでの表現がメッセージと無縁かといえば、そうではないと思います。本文では911テロ事件の取材で経験した例を挙げましたが、あのように、政治的・社会的とは限らない広義でのメッセージが予め用意され、そのことによって作り手とその表現が縛られる現象は、テレビであれ、新聞であれ、雑誌であれ、日常茶飯事です。そして、それは大上段ではないからこそ、観る者の無意識に入り込む可能性が高く、より厄介だともいえます。卑近な例でいえば、事件報道のほとんどは、容疑者を犯人と断定した上でなされていますし、国母選手や朝青龍や酒井法子は最初から悪役です。そういう傾向は、むしろ日本のメディアでは強まっているようにみえますし、個人的には由々しき事態だと思っています。

    次に、「ムーアの映画で観客は洗脳されちゃっていますか? 賛否両論あるんじゃないですかねえ。」というご指摘ですが、僕はプロパガンダによって観客が必ず洗脳されるなどとは書いていません。「たとえ思想の注入が成功したとしても」、それは洗脳のようなものであると言っているだけです。

    最後に、「作り手が何か作品を作る時に、メッセージから逃れることなど不可能なのではないかと思います。」というご指摘についてですが、以下の箇所に、僕の見解を述べたつもりです。

     もちろん、映画の作り手は、その制作作業を通して、カメラを向けた世界に
    対して何らかの個人的意見を抱くことにはなるだろう。実際、僕も『選挙』や
    『精神』を作ることによって、民主主義のシステムや精神障害者の福祉などに
    対する理解を深めると同時に、ある種のオピニオンを持つに至ったことは事実
    だ。
     しかし、意見を伝えるために映画を作るのと、映画を作った結果、その作り
    手が何らかの意見を得るのとでは、似ているようで全く異なる。後者の「意見」
    はあくまでも結果として醸成される二次的なものであり、作品に対する“正し
    い解釈”を意味するものですらない。それは、作者の意見であるにもかかわら
    ず、それぞれの観客が抱いた意見と同列に論ずべきものであり、色々ある見方
    のひとつに過ぎないのである。

    付け加えるならば、意見を持つことと、それをメッセージとして発し観客に押し付けることは、分けて考えた方が良いと思うのです。また、分けることは可能だと思います。

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  3. 小谷喜典8:47 AM

    想田さま

    お忙しいなか、お返事ありがとうございます。
    反論に対する反論をさせていただきます。

    「ノリピーは母親失格だ」とか「国母の服装けしからん」などというものまで「メッセージ」とし扱わなくてはなりませんか? 「ドブに落ちた犬を棒でつつく」的なメディアリンチや「疑わしきは罰せず」などどこ吹く風の報道は、私も憤りを感じますが、やはり分けて考えたほうがいいと思います(ちなみにマイケル・ムーアもメディアによる洗脳の危険性は作品のなかで主張していますよね)。
     だいいちこういう過熱報道や世論操作(とも言うべき事態)は、「何事かを伝えよう」というまじめな姿勢が欠落しているからこそ起こるのではないでしょうか。特にテレビはその傾向が強く、例えば民主党の小沢幹事長や朝青龍さんを攻撃したり揶揄したりするのも、製作現場ではそのほうがむしろ「当たり障りのない」ことになっちゃっていて、「バスに乗り遅れるな」的な思考停止状態に陥っているのではないでしょうか。
     想田さんが911テロ後の現地の取材で、「涙」と「助け合い」を描こうとしたけど、実際は裏腹なことばかりだったのに、他のディレクターたちによって予定通り「涙」と「助け合い」に彩られた番組が放送されてしまった体験が紹介されています。この話から私が感じることは、メッセージを込めることの危険性よりも、製作現場での思考停止や、いわゆる「大人の事情」に左右される状況が問題なのではないかということです。
     私が「メッセージ」という言葉に抱いているイメージは、「“私はこう思う、あるいは何かしらの体験を通じてこう思った。そしてそれを伝えたい”というプロセスから生み出される何事か」というものです。
    それにマスコミの問題は、視聴率・売上至上主義、記者クラブ問題、スポンサー・広告代理店問題…等々、考慮しなくてはならない問題があまりにも多岐にわたっているので、ドキュメンタリーの話のついでで語れることではないような気がします。

     想田さんの論文の話に戻りますけど、私がもっとも抵抗を感じることのひとつが、「メッセージを込める」ことを「考えを押し付ける」と意図的に言い換えていることです。
     それでは、次のような場合は「考えを押し付ける」ことになるでしょうか? 想田さんもパンフレットでコメントを寄せている映画「戦場でワルツを」というアニメーションのドキュメンタリー映画があります。監督自身の体験をベースにしており、もちろんスローガン的なメッセージを主張したりはしていませんが、私はやはり反戦メッセージを感じたし、アリ・フォルマン監督もインタビューのなかでこう語っています。

    <パンフレットのインタビューより>
    彼ら(アリ・フォルマン監督の子供)が大きくなってこの映画を見たら、正しい決断をする手助けになるかもしれない。何があっても、何のためでも、戦争のどんな一端であっても担ってはいけないという決断を。
    (イスラエルでの反響について質問されて)
    ~子供たちとサッカー観戦に出かけると、明らかに右派と思しき観客から「俺たちの国にオスカー増を持って来い!」と叫ばれました。映画の反戦メッセージや自分たちの批判には気づこうともせずに。」
    <引用終わり>

     「誰かに自分の意図や思いを伝えたい」、「自分の真意をわかってほしい」と願うことはごくごく自然なことだと思うし、それをドキュメンタリーという形で表現したって別にいいんじゃないですか。フォルマン監督の子供がこの映画を観て、「戦場ってエキサイティングだなあ。僕も行ってみたい」と、監督の意図と180度違う解釈をしたとき「それはそれでよしとする」などとはとても言っていられないと思いますよ。

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  4. 小谷さま

    反論の反論をありがとうございます。

    >「ノリピーは母親失格だ」とか「国母の服装けしからん」などというものまで「メッセージ」とし扱わなくてはなりませんか?

    もちろん、そう扱った方がいいと思います。まさに単純なメッセージの典型ではないですか?そして、取材者がそれに従属してしまうからこそ、思考停止が起きるわけです。それは、メッセージの内容が「国母けしからん」だろうが、「アルカイダ憎し」だろうが、同じです。つまり、思考停止を起こさないためにも、「メッセージを込めない、メッセージに従属しない」という決意が必要だと僕は申しあげているのです。

    アリ・フォルマンが「反戦メッセージ」という言葉を使ったとすれば、それは映画を矮小化してしまうので避けた方がいいと僕は個人的に思います。あの映画が見応えあるのは、「反戦」という紋切り型の言葉だけでは捉えきれない、監督自身のもやもやとした複雑な体験や世界観を描写しているからです。これは憶測の域を出ませんが、監督としてはメッセージは込めたつもりなのかもしれないけど、たぶんそれに従属する程、メッセージに比重を置いて作品を作っていない。少なくとも、メッセージは作品の前面には出ていませんし、声高に主張したわけでもありません。だからこそ、右派は彼のメッセージに気がつかなかったわけでしょう?そして、それこそが、あの作品が成功している理由なんだと思います。

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  5. 小谷喜典8:19 AM

    想田さま

    反論の反論の反論ありがとうございます。(ちょっとまどろっこしいですね。もし、またお返事がいただけるのであれば前置き無しでお願いします。)

    アリ・フォルマン監督の「戦争のどんな一端であっても担ってはいけない」というメッセージと、「朝青龍のガッツポーズいかがなものか」的なワイドショーネタを同列に扱うことは、私には心情的に受け入れられません。生み出される動機やプロセスによって別物として扱うことがそんなに間違っているでしょうか。

    >監督としてはメッセージは込めたつもりなのかもしれないけど、たぶんそれに従属する程、メッセージに比重を置いて作品を作っていない。少なくとも、メッセージは作品の前面には出ていませんし、声高に主張したわけでもありません。

    程度の問題であって、声高に主張するのでなければ、メッセージを込めたり、それが宿ったりすることも問題ないということなのでしょうか。何となくこれまでのご意見と矛盾するような気もします。その作品が、メッセージに従属しているかどうかの判断は、結局好き嫌いの問題になってしまうおそれはありませんか。

    >アリ・フォルマンが「反戦メッセージ」という言葉を使ったとすれば、それは映画を矮小化してしまうので避けた方がいいと僕は個人的に思います。

    たしかに「反戦メッセージ」という言葉は、監督の発言のニュアンスから訳者が安易に当てはめた可能性があることは否定しません。ただ、どうしてこの「反戦メッセージ」という言葉にそんなにもアレルギー反応を起こすんですか?
    昨今、この日本では、この言葉を口にすると揶揄や中傷の的になることが多いように見受けられます。右派や保守層はもちろん、左派・リベラルの(特に若手の)インテリ層でもほとんど放送禁止用語かと思うような反応が返ってきます。
    「反戦」という言葉が、想田さんにどういうイメージを想起させるのかは、何となく推察できますが、もっとフラットな気持ちでこの言葉を使ってもいいのではないでしょうか。単に「戦争は怖い」、「戦争はやめて欲しい」、「戦争には加担したくない」という思いの総称でしかないわけですから。あくまでも個人的な体験を重視し、メッセージを前面に出して主張するタイプではないアリ・フォルマン監督でさえ、何の抵抗もなく使っていることが(誤訳でないとすればの話ですけど)、私にはごくごく自然に見えます。

    ちょっと話が飛びますけど、先日ネットで、ヒップホップ歌手のZEEBRAさんがハイチ大地震の復興支援活動を開始したところ、Twitter上で協力者以上に非難の声が殺到しているというニュースを目にしました。それを伝えるニュースの中で、GLAYのTAKUROさんが2003年のイラク戦争開戦の際に、反戦メッセージを新聞各紙に掲載したところ、それを良しとしない団体からクレームが寄せられ、家族やメンバーを危険にさらされたとの話も紹介されていました。
    反戦とか、抗議活動とか、チャリティー、ボランティアといった言葉が、今の日本ほどネガティブに捉えられている国はないんじゃないでしょうか。これらの考え方や活動の意味を、いまいちど再定義すべき時期に来ているように思います。何事かを主張したり、行動したりする人たちはどんどん萎縮し、それをつぶそうという人たちはどんどん増殖する、という状況をこれ以上加速させない為にも。

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  6. 小谷喜典さま

    >生み出される動機やプロセスによって別物として扱うことがそんなに間違っているでしょうか。

    間違っているとはいいません。しかし、少なくとも作り手の立場から見れば、ワイドショーネタと戦争ネタの間に区別を付けることには意味が見出せません。取材者はそう感じ考えるものなんだなあと、参考にしていただければと思います。

    >程度の問題であって、声高に主張するのでなければ、メッセージを込めたり、それが宿ったりすることも問題ないということなのでしょうか。

    究極的には程度の問題です。「正常/異常」「健康/病気」などの境界線が曖昧であるのと同様に、はっきりとした境界線は引くことはできません。人によってその判断も異なるでしょうから、主観的な問題でもあります。

    >どうしてこの「反戦メッセージ」という言葉にそんなにもアレルギー反応を起こすんですか?

    アレルギーがあるわけではありませんが、僕は自分の作品について語る際には、たぶん使わないと思います。もし使うとするならば、再定義する作業と相当な説明が必要でしょうね。なぜならば、それが手垢にまみれた言葉だからです。胡散臭いものも含めた、様々なコンテクストで使われてきた言葉です。その一方で、あらゆる微妙なニュアンスや複雑さを、一気に飲み込んでしまう強烈さもあります。だから、不用意に使うと怪我をします。

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