映画『永遠の0』が地上波でノーカットで放送されるとのこと。拙著『熱狂なきファシズム』で論じたことだが、この作品は戦争で死ぬことを嫌がる宮部を主人公に据えることで一見反戦映画に見せかけているが、彼を最後に特攻させることで結局はその死を美化する。巧妙なプロパガンダである。
『永遠の0』が巧妙なのは、軍国青年を主人公にするのではなく、死ぬのを嫌がる宮部を主人公にしたことだ。現代の観客は軍国青年には感情移入できないが、宮部にならできる。宮部にどっぷり感情移入させた上で、特攻させる。だからその死に思わず号泣してしまう。誰が彼を殺したのかは不問に付される。
宮部に感情移入させられた観客は、彼の死を「国や家族のための自己犠牲」と感じて思わず感動してしまう。だが特攻隊員たちは、無能な戦争指導者たちによって無理やり殺されたのであり、英雄というよりも犠牲者。『永遠の0』は、宮部を英雄として描くことで、あの戦争の本当の構図を隠蔽する。
宮部がラストで米国の戦艦に突っ込む際に、米兵に「なんだ、この凄腕のパイロットは!」的なことを言わせて宮部の操縦技術に対し感嘆させるのには思わず失笑した。原作ではこの辺りが特に強調されている。米兵に褒めさせることで日本人のプライドをくすぐるという、劣等感丸出しの卑屈なヒロイズム。
あと『永遠の0』が巧妙なのは、「だらけきった戦後民主主義の日本人」のメタファーである健太郎や慶子が、「誤解され忘れ去られた戦中・戦前の日本人」のメタファーである宮部の「本当の姿」を発見し驚嘆し、生き方を変えるという物語構造を採用したことだ。これで現代人は更に感情移入しやすくなる。
ちなみに、健太郎の友人たちが「特攻なんて自爆テロだろ」と発言した際、祖父である宮部の「本当の姿」を知り始めていた健太郎が猛烈に反発する場面があるのだが、百田尚樹の原作では友人たちではなく朝日新聞の記者がヒール役を務めている。映画には朝日新聞が協賛しているので書き換えたのだろう。実に姑息である。
この作品についてはいろいろ言いたいことがあるのだが、詳しくは拙著『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)の「あとがきのような『永遠の0』論」をお読みください。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309246703/
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