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Latest documentary "Oyster Factory" has been officially invited to Locarno International Film Festival 2015! 最新作『牡蠣工場』がロカルノ国際映画祭へ正式招待されました!
Saturday, August 30, 2008
Director's Statement on MENTAL
観察映画第2弾『精神』について
僕の前作『選挙』(観察映画第1弾)に、ボランティアたちが選挙事務所でチラシを折りながら、事務所の外に立っている「頭の狂った女」について噂話をして、奇妙に盛り上がるシーンがある。
「あそこに立ってる人、ほら。気が触れちゃってるの」「正気なころはさ、こんな髪の毛でこんなボインでね、土橋のマリリン・モンローだなんて、気取ってこの坂上がってた」
この噂話にみられるように、「頭の狂った人たち」は、健康な人たちによってしばしば、好奇と興奮と軽蔑を交えて語られる。「狂った人たち」は時折自分たちの世界にふと顔を出す異界の存在であり、同じ空気を吸っている人間とは見られていない。健常者と精神障害者たちの間は透明なカーテンで遮られており、多くの健常者たちは、カーテンの向こう側にいる精神障害者たちの世界を、自分たちには関係のないものとして処理してしまっている。
しかし、僕はかねてから、このような状況に違和感を感じ続けて来た。僕自身も大学時代、精神的に追いつめられて自ら精神科に飛び込み、燃え尽き症候群と診断されたことがあるし、それから回復した後も、過度のストレスから幾度となく病気すれすれの状態に陥ったことがある。自分の周辺を見渡してみても、実際に心の病気になってしまった友人や、それが元で自殺してしまった友人や恩人がいる。そもそも、現代社会は閉塞感や孤独感、プレッシャーやストレスに満ちており、われわれは誰もが心の病になる危険性と隣り合わせで生活しているいるような気がしてならない。にもかかわらず、一般社会にとって心の病気がタブーであり続け、健康な人々が目をそらし続けている状況に、僕は一種の危うさを感じている。
したがって、僕が『精神』で行ったのは、この見えざるカーテンを取り払う作業である。固定概念や先入観を極力捨てて、患者や障害者を「弱者」とも「危険な存在」とも決めつけず、かといって賛美もせず、虚心坦懐に彼らの世界を見つめることを第一義とした。そのため、『選挙』のときと同様、撮影前にシノプシスや構成表を一切書かず、事前のリサーチも最小限にとどめた。また、撮影前に極力セットアップをせず、行き当たりばったりでカメラを回す手法に徹した。
編集では、ナレーションやテロップによる説明、音楽を一切使わず、複雑怪奇な現実をなるべく複雑なまま提示し、紋切り型の単純化を避けるよう努力した。また、構築した映画世界が観客の能動性と観察眼を刺激し、それぞれが自分なりの解釈を自由に行えるよう、余白を残すよう努めた。同時に、映画を観ることで、あたかも診療所を訪れ、そこにいる人々と出会い、言葉を交わしたかのような臨場感を得られるよう、時間の流れと空間の再現に腐心した。
『精神』にはいわゆる「言いたいこと=メッセージ」も、明確な結論もない。むしろ、映画を単純なメッセージに還元するプロパガンダ的な姿勢から、最も遠いところで作品を作ることを目指した。観客が作品を通じて、なるべく「す」の状態で精神科の世界を観察し、あれこれ考えたり疑問を持ったり刺激を受けたりできれば、作者として幸せである。
想田和弘
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DIRECTOR'S STATEMENT ON MENTAL
In my previous documentary film CAMPAIGN, there is a scene where volunteers gossip about a “crazy woman” standing right outside the election campaign headquarters in Kawasaki, Japan.
“See that woman standing across the street? She’s psychotic. When she was still sane, she had long hair and big tits. She called herself the Marilyn Monroe of Kawasaki,” they say.
As seen in this conversation, “crazy people” are often the subject of curiosity, excitement, and ridicule, among healthy people. They are not considered to be fellow human beings but some kind of creatures from another world who occasionally appear in front of us. There seems to be a transparent curtain that divides healthy and mentally ill people. Most healthy people see the world of mental illness as irrelevant to their lives.
But I have been feeling that there’s something wrong about this situation. When I was a college student, I myself felt sick and decided to go to a mental clinic, where I was diagnosed with “burnout syndrome*.” Even after I recovered from the syndrome, there were several times when I almost became sick because of too much stress. I also have some friends and colleagues who actually became mentally ill and even committed suicide. In fact, because modern society is filled with pressure, stress, and the sense of solitude, nobody is immune to mental illness. Thus, it is quite dangerous that mental illness remains a taboo and that most people turn their eyes away from the subject.
Therefore, in my documentary MENTAL, my aim is to get rid of this invisible curtain, not by sending political messages, but simply by observing. The most important attitude for me as a filmmaker was to look straight with my own eyes and my camera at the world of patients without any preconceived or fixed ideas, without labeling them as “the weak,” “the dangerous,” or even as “the great.” In order to do that, just like in my previous film CAMPAIGN, I tried to shoot as freely and spontaneously as possible without preparing anything beforehand.
In the editing, I did not use any narration, super-imposed titles, or music, so that I can show the complex reality as it is, avoiding stereotypical simplification. I also tried to stimulate the audience’s active observation, leaving lots of room for them to freely interpret what they see on the screen. In addition, I tried to recreate the time and space I experienced so that the audience will feel as if they visited the clinic and saw these patients themselves.
MENTAL has no “message” nor “statement” nor “conclusions.” Rather, I want it to be as far away as possible from propaganda. It would be an immense pleasure for me if the viewers could come up with their own observations, thoughts, and questions, while they watch MENTAL, and afterwards.
* burnout syndrome: physical or mental collapse caused by overwork or stress: high levels of professionalism that may result in burnout. (Oxford Dictionary)
Kazuhiro Soda
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ドキュメンタリー論
Friday, August 29, 2008
Comments on MENTAL
『精神』を観て下さった方々からコメントが集まり始めたので、掲載します。
精神病患者と健常者の境がわからない。その境のありように疑いを持つのは、想田観察映画の特性だ。
ー 河瀬直美(映画監督)
精神とは心、若しくは心の持ち方とあるけども、その収拾のつかなさがそのまま映し出されている。様々な対象を身に遠く近く感じつつ、時折横切る野良猫が風穴のようにも見えてくる。
ー 筑紫ゆうな(アーティスト)
同じ題材を扱った映画のうちこの映画は三指に入る。いや正確に言えば二指である。一本はワイズマンによって四十年前に作られた。どちらも限りない人間の精神の地平線を目指した傑作だと断言できる。ワイズマンの映画同様一度見たら決して夢に見ることはあっても忘れることは出来ない。しかしワイズマンの映画には感心し笑うことしかできなかったが、この映画のなかでは5分おきににやっと笑い、三度涙を禁じえなかった。あえて言うが、この映画は精神を病んだもののために作られたものではない。まして人の精神を裁く者のためにも作られてもいない。ただ人間の無形の心とその不思議に対し畏敬の念を禁じえないもののために捧げられた映画なのである。
ー 大山修平(精神科医)
A few comments on my new documentary, MENTAL.
This observational film by Soda really questions the conventional boundary that separates the mentally ill and healthy people.
- Naomi Kawase, Film Director
The uncontrollable nature of our SEISHIN, or mind, is depicted in its raw form.
- Yuna Chikushi, Artist
Watching MENTAL, I smiled every 5 minutes, and cried 3 times. Without a doubt, it is a masterpiece. It is meant for people who can't help revering the human soul that is formless and mysterious.
- Dr. Shuhei Oyama, Psychiatrist
Thursday, August 21, 2008
AND grant for MENTAL 助成金獲得!
Now, it's official. MENTAL, my new observational documentary about mentally ill patients, is receiving a grant of about US$10,000 from AND (Asian Network of Documentary), Pusan International Film Festival. I'm using the money to complete the film. What an honor! I'm attending the award ceremony at Pusan International Film Festival (Oct 2-10, 2008). I'd like to thank everybody who helped me making this movie!
心の病を患う人々が主人公のドキュメンタリー映画『精神』(観察映画第2弾)が、釜山国際映画祭AND助成金(約100万円)をいただけることになりました。大変光栄です。助成金は、『精神』の仕上げに使わせていただきます。釜山映画祭(10月2〜10日)で開かれる授与式には参加する予定です。映画の製作に協力してくださったみなさん、ありがとうございました!
http://and.piff.org/eng/html/projects/documentary_list.asp?section=AND&this_year=2008
心の病を患う人々が主人公のドキュメンタリー映画『精神』(観察映画第2弾)が、釜山国際映画祭AND助成金(約100万円)をいただけることになりました。大変光栄です。助成金は、『精神』の仕上げに使わせていただきます。釜山映画祭(10月2〜10日)で開かれる授与式には参加する予定です。映画の製作に協力してくださったみなさん、ありがとうございました!
http://and.piff.org/eng/html/projects/documentary_list.asp?section=AND&this_year=2008
Monday, August 18, 2008
演劇とお盆
7月末から平田オリザさんと青年団を撮影させていただいているが、オリザさんが海外へ行かれたので、その合間に足利市の実家へ帰省した。ちょうど時期がお盆と重なり、20数年ぶりに生まれ故郷で盆を過ごした。
ウチの地方では、13日に先祖の霊を墓まで迎えに行き(迎え盆)、16日にまた墓まで霊を送りに行く(送り盆)。霊がいる4日間、親戚たちが集まって酒を飲んで騒いだり、線香を上げにきてくれたりする。
改めて眺めていて面白いのは、みんながあたかもそこに霊がいるかのように振る舞うことである。僕がコーヒーをいれていると、オフクロが「おばあちゃんにもコーヒー上げて来て。意外に好きなんだから」とか言うのは、その典型である。迎え盆のとき、「お迎えに上がりましたよ〜」などと言いながら墓へ挨拶するのも、そう。
演劇の創作過程を撮影しているせいか、お盆という行事そのものが演劇的であることに気がついた。先祖を迎えたり送ったり親戚で騒いだりするという、だいたいの台本もある。台詞だって、即興も多いけれど、「ちょいとお線香を上げに来ました」とか、だいたい決まっている。そして、みんなまるでそこに先祖がいるかのように、演じるのである。
ひとたびそう思うと、「先祖の魂を運ぶという提灯は、なかなか粋な小道具だな」とか、「いまオヤジが言った台詞はなかなか気がきいている」とか、「いまオジさんが居間に入って来たタイミングは絶妙だ」とか、すべてが演劇に見えてくる。いや、僕らは普段から何かを演じながら生きているのかもしれない。
(写真は以前撮ったものです)
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エッセイ
Thursday, August 07, 2008
苦と楽の比率
赤塚不二夫さんが亡くなった。葬儀でタモリ氏が述べたという弔辞が心に残った。
「あなたは生活のすべてがギャグでした。あるがままを肯定し、受け入れ、人間を重苦しい陰の世界から解放しました。すなわち『これでいいのだ』と。」
人生からつらいこと、苦しいことを完全に消し去ることはできない。しかし、それをギャグにすることによって、何とか受け入れられるのではないか。これは赤塚さんの人生観なのか、タモリさんのそれなのか、僕には判らないけれど、そういう考え方には素直に共感できる。実際、赤塚さんの漫画にはそういう力があった。いや、作品は残っているから、今でもあるのである。
僕なんぞは子供のころから、人生は苦であるという感覚に親しんできた。もちろん楽しいこともあるけど、苦と楽の割合は9対1くらいで、日々の生活の実感として、圧倒的に苦が優勢であると思ってきた。だから、仏教の思想に初めて触れたときは、我が意を得たりというのも変だが、奇妙な安堵を感じたものである。
ところが以前カミさんにそう話したとき、彼女にとっては苦と楽が1対9の割合くらいだというので、天地がひっくり返るほど驚いた。なんてハッピーな人なんだと思って、親しい友人にそのことを話したら、彼も同じように1対9だと言うので二度驚いた。もしかしたら俺の方が少数派なのか…。
いずれにせよ、同じ世界で同じ空気を吸っていながら、こうも人生観が違うのは驚愕に値する。ウィトゲンシュタインじゃないけど、同じ言葉を喋っていても、決して判り合えていないのではないかなどと、ちょっと不安にもなる。赤塚さんにとっての比率はどうだったんだろう。
「あなたは生活のすべてがギャグでした。あるがままを肯定し、受け入れ、人間を重苦しい陰の世界から解放しました。すなわち『これでいいのだ』と。」
人生からつらいこと、苦しいことを完全に消し去ることはできない。しかし、それをギャグにすることによって、何とか受け入れられるのではないか。これは赤塚さんの人生観なのか、タモリさんのそれなのか、僕には判らないけれど、そういう考え方には素直に共感できる。実際、赤塚さんの漫画にはそういう力があった。いや、作品は残っているから、今でもあるのである。
僕なんぞは子供のころから、人生は苦であるという感覚に親しんできた。もちろん楽しいこともあるけど、苦と楽の割合は9対1くらいで、日々の生活の実感として、圧倒的に苦が優勢であると思ってきた。だから、仏教の思想に初めて触れたときは、我が意を得たりというのも変だが、奇妙な安堵を感じたものである。
ところが以前カミさんにそう話したとき、彼女にとっては苦と楽が1対9の割合くらいだというので、天地がひっくり返るほど驚いた。なんてハッピーな人なんだと思って、親しい友人にそのことを話したら、彼も同じように1対9だと言うので二度驚いた。もしかしたら俺の方が少数派なのか…。
いずれにせよ、同じ世界で同じ空気を吸っていながら、こうも人生観が違うのは驚愕に値する。ウィトゲンシュタインじゃないけど、同じ言葉を喋っていても、決して判り合えていないのではないかなどと、ちょっと不安にもなる。赤塚さんにとっての比率はどうだったんだろう。
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