約2年前に書いたエッセイをここに貼っておきます。
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菅義偉官房長官の発言が物議をかもした。
フジテレビの番組で菅氏は、歌手で俳優の福山雅治さんの結婚について「この結婚を機に、ママさんたちが一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれたらいいなと思っています。たくさん産んで下さい」と発言したのである。
この発言から、戦中の「産めよ増やせよ」というスローガンを連想した人は多かったのではないだろうか。当時日中戦争の泥沼に陥っていた日本政府にとっては、戦争遂行のために人口を増やすことが急務であった。
当然、菅氏の記者会見では記者からこの点についての質問が飛んだ。その様子を、「朝日新聞」は次のように伝えている。
「『産めよ増やせよ』との政策を連想する人もいる」との質問には、「全く当たらない」と反論。「安倍晋三首相も、不妊治療を受ける方を応援する趣旨の発言をされている」と述べ、不妊治療の支援策などに取り組む政府の姿勢を強調した。(2015年9月29日
星野典久)
僕はこれを読みながら、「またか」という思いにイライラした。菅氏はこれまで、どんなに厳しい批判に対しても「全く当たらない」という言葉でかわしてしてた。その言葉さえ発すれば、どんな矢が飛んできてもポキリと折れて、無敵になるかのように。
そう考えた時、突然子供の頃のことを思い出した。誰かが道端のウンコか何かを踏んづけてしまったとき、僕らは「バリア張った!」と叫びながら中指と人差し指を交差させて結界を張ったものである。そうすればウンコを踏んだ友達が自分を触っても、ウンコの「穢れ」はなぜか僕に伝染しないことになっているからだ。地域によっては「エンガチョ切った」などとも言うようだ。皆さんにも記憶があるのではないだろうか。
いずれにせよ、菅氏の「批判は全く当たらない」という言葉には、「バリア」や「エンガチョ」のような魔力がある。それさえ唱えれば、あらゆる批判的言説が無力化してしまうのである。
そこで僕は、「菅氏の語法を自分で使ったらどうなるか」という悪魔的なアイデアを思いついた。僕のツイッターには、毎日毎日、安倍政権を支持する人たち、特にネトウヨと呼ばれる人たちから攻撃的なリプライが届く(いわゆる「クソリプ」)。それらのクソリプに丁寧に付き合っていても、生産的な対話になった試しがない。こちらが消耗するばかりである。ならば、彼らに対して、「#菅官房長官語で答える」というタグをつけて明示しながら、すべて「菅官房長官語」で切り返したらどうなるか……?以下は、そのほんの一例である。
>>こんかいの安保法案は国選権の否認、すなわち他国領土、領海内での戦闘行為を伴なう自衛隊の武力行使を容認していないため、憲法違反だとは言えません。
想田:そのような指摘は全く当たらない。#菅官房長官語で答える
>>警察予備隊を自衛隊として解釈改憲により再編成したところから始めないといけなくなりますね。
想田:言ってる意味がよくわからないというのが率直なところだ。#菅官房長官語で答える
>>違憲か合憲かは、憲法学者如きには、決められないでしょ?なんで嘘を流布するの?(・ω・)ノ
想田:そのような指摘は全く当たらない。#菅官房長官語で答える
>>もういい加減、憲法違反という陳腐なデマはやめません?安保法案は有権解釈権を有する全公的機関が明確に「合憲」と明言。最高裁も違憲判決など出してない(棄却は既に出た)つまり100%合憲なのです。日本は法治国家。憲法学者やお笑い芸人には何の権限もありませんw
想田:違憲だと言っている憲法学者もいっぱいいる。#菅官房長官語で答える
「菅官房長官語」には、「批判は全く当たらない」のほか、「よく意味がわからないというのが率直なところだ」「個別の事案について答えることは控えたい」「不退転の決意で、正々堂々と、法令に則って粛々と進めるだけ」「全く問題ない」「常識では考えられない」など、いくつかのバリエーションを用意している。それらを文脈に応じて適当に使って返答していくわけだ。
僕はそこに「今は理解されなくとも、今後時を経る中において、十分に理解は広がっていくと、このように確信しております」といった「安倍語」や、「対案を出せ。文句があるならお前がやってみろ」といった「橋下語」も加えて、パワーアップを計った。
すると、どうなるか。あれだけしつこかったネトウヨたちが一様に黙り込み、彼らからのリプライそのものが激減したのである。僕はこの手法によって、クソリプをことごとく「撃破」することに成功したのである。
この破壊力には全く驚くほかなかった。
菅官房長官語で答えるコツは、相手の質問や抗議に対して決して答えないことである。自然にしていると、思わずうっかり答えそうになるが、そこをグッとこらえる。そして木で鼻を括ったような定型句を繰り出す。するとコミュニケーションがそこで遮断される。議論にならない。なりようがない。
ところが、菅語で答えても一応受け答えしているので、傍目にはコミュニケーションが成立しているように見えてしまう。質問者はその問いかけが真摯であれば真摯であるほど心理的なダメージが大きいし、周りには愚か者のように見えてしまう。これが菅語の恐ろしさの秘密である。
安倍語と橋下語の原理も実は同じだ。安倍氏の言葉も橋下氏の言葉も、コミュニケーションを遮断する目的で使われる。実はそれ以外の機能はない。菅語を回りくどくすると安倍語になり、攻撃的にすると橋下語になる。違いはそれだけ。
僕とネトウヨのやりとりを見ている人々は、タグによる明示のおかげで、僕の菅語がコピペであることを知っている。そこで明らかになるのは、僕ではなく菅氏の言葉の暴力性だ。
そう、それはコミュニケーションを一方的に遮断するという暴力性である。言葉とは本来、意思の疎通のために発明されたはずだが、それを意思の疎通を遮断するために使う。彼らが無敵に見えるのは、そもそも議論の土俵に乗らないからだ。試合に出ない人間は絶対に負けないのである。
だからこそ、菅氏や安倍氏や橋下氏は強い。負けない。しかしそれには恐るべき副作用がある。ディスコミュニケーションが蔓延し、対話なしには健全さを保てない「デモクラシー」を根底の部分で蝕むという副作用である。
彼らを支えているのは、公共性の犠牲の上に築かれた「強さ」である。そして私たちは、政治家の空虚で暴力的な言葉に、毎日付き合わされているのである。そのツケが私たちの社会にとってどれだけ甚大であるのか、算出するすべはない。