柳田法相は国会議員や国民皆が思ってる本音をついしゃべっただけだと思う。国会答弁=虚構だと誰でも思っているし、そういう意味では大臣も国会議員も「俳優」であると、誰もが了解しているわけだ。にもかかわらず、「これは演技です」と宣言した瞬間に、俳優は舞台から退場せねばならなくなる。この共同幻想の維持装置のメカニズムが面白い。
というのも、彼の釈明インタビューとかTVで観てると、すべて「これもあの種の答弁だな」と思えちゃうから恐ろしい。失言により、彼の言葉のリアリティが一挙に崩壊してしまったわけだ。ドキュメンタリー作家としては誠に興味深い現象だ。
国会の虚構のメカニズムを露呈させた柳田法相には意図せぬ功績があると思う。しかし、虚構の担い手=演技者としてのマジックを失った彼が辞任するのは、避けられない事態だといえるだろう。王様が裸であることを、誰もまだ認めたくないからである。
誤解を恐れずに言えば、政治が虚構や演技の力を使うことは、ある程度必要不可欠だと、僕は思う。虚構には人々を動かし統合する力があるからだ。しかし虚構があまりにも現実から離れすぎて形骸化すると、その魔力さえ失う。皆が魔法から醒めてしまうからだ。いま政治に起きている危機は、まさにそういうことなんだと思う。
そう思うのは、ドキュメンタリーをドキュメンタリーとして成立させている心理構造は、政治が使っている虚構の心理構造と本質的には同じだからだ。ドキュメンタリーは必然的に虚と実の間を揺れ動くし、その運動をいかに制御するかが作り手の課題である。あなたが観ている映像も虚構なんだよと観客に示しながらも、映像のリアリティ=魔法は維持するという、矛盾するようで矛盾しない奇妙なバランス。それを僕らは目指しているわけだ。いや、少なくとも僕はそう認識している。
(ツイッターでつぶやいたことを再構成しました)
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