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Latest documentary "Oyster Factory" has been officially invited to Locarno International Film Festival 2015! 最新作『牡蠣工場』がロカルノ国際映画祭へ正式招待されました!

Saturday, September 23, 2017

麻生副首相発言の真の問題

麻生太郎副首相が北朝鮮から逃れてくる大量の難民を想定した上で、「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と発言し、批判されています。

「武装難民」という言葉は、たぶん麻生さんかネトウヨが捏造した言葉です。シリアから無数の難民が海を渡っていますが「武装難民」なんて言葉や事例、聞いたことないからです。(第三国に避難した難民が後に武装化する事例はありますが)。

難民は戦乱から命からがら逃げてくるから難民と呼ばれます。中には武装している人もいるかもしれませんが、それは身を守るためであって、避難先の国の人を襲うためではありません。そもそも海をボートで渡ってくる難民の多くは、水や食料も欠乏してフラフラで、すし詰めのボートの中で死んでしまう人も数多くいます。少し調べれば、そういう事例はいくらでもあります。

「武装」と「難民」を恣意的に合体させることは、「難民は私たちを襲って来る」という実態のない架空のイメージを作り上げて一人歩きさせる行為であり、デマを流通させるのと変わりません。

麻生副首相が「射殺」という言葉を使ったのも問題ですが、「武装難民」という言葉を使って広めてしまったことに、実はより深刻な問題が潜んでいると僕は思います。関東大震災で朝鮮人を虐殺し、しかもその歴史を隠蔽しようとしている日本社会で「武装難民」という言葉が広まることに、ただならぬ危機感を覚えます。


麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」 北朝鮮難民対策 (朝日新聞デジタル)
http://digital.asahi.com/articles/ASK9R6DCPK9RUTFK00J.html?iref=comtop_8_03

 麻生太郎副総理は23日、宇都宮市内での講演で、朝鮮半島から大量の難民が日本に押し寄せる可能性に触れたうえで、「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と語った。
 麻生氏はシリアイラクの難民の事例を挙げ、「向こうから日本に難民が押し寄せてくる。動力のないボートだって潮流に乗って間違いなく漂着する。10万人単位をどこに収容するのか」と指摘。さらに「向こうは武装しているかもしれない」としたうえで「防衛出動」に言及した。
 防衛出動は、日本が直接攻撃を受けるか、その明白な危険が切迫している「武力攻撃事態」などの際に認められており、難民対応は想定していない。
 麻生氏は先月、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と発言し、撤回していた。

Monday, July 03, 2017

「#菅官房長官語で答える」プロジェクト

約2年前に書いたエッセイをここに貼っておきます。

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 菅義偉官房長官の発言が物議をかもした。

 フジテレビの番組で菅氏は、歌手で俳優の福山雅治さんの結婚について「この結婚を機に、ママさんたちが一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれたらいいなと思っています。たくさん産んで下さい」と発言したのである。

 この発言から、戦中の「産めよ増やせよ」というスローガンを連想した人は多かったのではないだろうか。当時日中戦争の泥沼に陥っていた日本政府にとっては、戦争遂行のために人口を増やすことが急務であった。

 当然、菅氏の記者会見では記者からこの点についての質問が飛んだ。その様子を、「朝日新聞」は次のように伝えている。

 「『産めよ増やせよ』との政策を連想する人もいる」との質問には、「全く当たらない」と反論。「安倍晋三首相も、不妊治療を受ける方を応援する趣旨の発言をされている」と述べ、不妊治療の支援策などに取り組む政府の姿勢を強調した。(2015年9月29日
星野典久)

 僕はこれを読みながら、「またか」という思いにイライラした。菅氏はこれまで、どんなに厳しい批判に対しても「全く当たらない」という言葉でかわしてしてた。その言葉さえ発すれば、どんな矢が飛んできてもポキリと折れて、無敵になるかのように。

 そう考えた時、突然子供の頃のことを思い出した。誰かが道端のウンコか何かを踏んづけてしまったとき、僕らは「バリア張った!」と叫びながら中指と人差し指を交差させて結界を張ったものである。そうすればウンコを踏んだ友達が自分を触っても、ウンコの「穢れ」はなぜか僕に伝染しないことになっているからだ。地域によっては「エンガチョ切った」などとも言うようだ。皆さんにも記憶があるのではないだろうか。

 いずれにせよ、菅氏の「批判は全く当たらない」という言葉には、「バリア」や「エンガチョ」のような魔力がある。それさえ唱えれば、あらゆる批判的言説が無力化してしまうのである。

 そこで僕は、「菅氏の語法を自分で使ったらどうなるか」という悪魔的なアイデアを思いついた。僕のツイッターには、毎日毎日、安倍政権を支持する人たち、特にネトウヨと呼ばれる人たちから攻撃的なリプライが届く(いわゆる「クソリプ」)。それらのクソリプに丁寧に付き合っていても、生産的な対話になった試しがない。こちらが消耗するばかりである。ならば、彼らに対して、「#菅官房長官語で答える」というタグをつけて明示しながら、すべて「菅官房長官語」で切り返したらどうなるか……?以下は、そのほんの一例である。

>>こんかいの安保法案は国選権の否認、すなわち他国領土、領海内での戦闘行為を伴なう自衛隊の武力行使を容認していないため、憲法違反だとは言えません。

想田:そのような指摘は全く当たらない。#菅官房長官語で答える

>>警察予備隊を自衛隊として解釈改憲により再編成したところから始めないといけなくなりますね。

想田:言ってる意味がよくわからないというのが率直なところだ。#菅官房長官語で答える

>>違憲か合憲かは、憲法学者如きには、決められないでしょ?なんで嘘を流布するの?(・ω・)ノ

想田:そのような指摘は全く当たらない。#菅官房長官語で答える

>>もういい加減、憲法違反という陳腐なデマはやめません?安保法案は有権解釈権を有する全公的機関が明確に「合憲」と明言。最高裁も違憲判決など出してない(棄却は既に出た)つまり100%合憲なのです。日本は法治国家。憲法学者やお笑い芸人には何の権限もありませんw

想田:違憲だと言っている憲法学者もいっぱいいる。#菅官房長官語で答える


 「菅官房長官語」には、「批判は全く当たらない」のほか、「よく意味がわからないというのが率直なところだ」「個別の事案について答えることは控えたい」「不退転の決意で、正々堂々と、法令に則って粛々と進めるだけ」「全く問題ない」「常識では考えられない」など、いくつかのバリエーションを用意している。それらを文脈に応じて適当に使って返答していくわけだ。

 僕はそこに「今は理解されなくとも、今後時を経る中において、十分に理解は広がっていくと、このように確信しております」といった「安倍語」や、「対案を出せ。文句があるならお前がやってみろ」といった「橋下語」も加えて、パワーアップを計った。

 すると、どうなるか。あれだけしつこかったネトウヨたちが一様に黙り込み、彼らからのリプライそのものが激減したのである。僕はこの手法によって、クソリプをことごとく「撃破」することに成功したのである。

 この破壊力には全く驚くほかなかった。

 ‪菅官房長官語で答えるコツは、相手の質問や抗議に対して決して答えないことである。自然にしていると、思わずうっかり答えそうになるが、そこをグッとこらえる。そして木で鼻を括ったような定型句を繰り出す。するとコミュニケーションがそこで遮断される。議論にならない。なりようがない。

 ところが、菅語で答えても一応受け答えしているので、傍目にはコミュニケーションが成立しているように見えてしまう。質問者はその問いかけが真摯であれば真摯であるほど心理的なダメージが大きいし、周りには愚か者のように見えてしまう。これが菅語の恐ろしさの秘密である。

‪ ‎安倍語と‎橋下語の原理も実は同じだ。安倍氏の言葉も橋下氏の言葉も、コミュニケーションを遮断する目的で使われる。実はそれ以外の機能はない。菅語を回りくどくすると安倍語になり、攻撃的にすると橋下語になる。違いはそれだけ。

 僕とネトウヨのやりとりを見ている人々は、タグによる明示のおかげで、僕の菅語がコピペであることを知っている。そこで明らかになるのは、僕ではなく菅氏の言葉の暴力性だ。

 そう、それはコミュニケーションを一方的に遮断するという暴力性である。言葉とは本来、意思の疎通のために発明されたはずだが、それを意思の疎通を遮断するために使う。彼らが無敵に見えるのは、そもそも議論の土俵に乗らないからだ。試合に出ない人間は絶対に負けないのである。

 だからこそ、菅氏や安倍氏や橋下氏は強い。負けない。しかしそれには恐るべき副作用がある。ディスコミュニケーションが蔓延し、対話なしには健全さを保てない「デモクラシー」を根底の部分で蝕むという副作用である。

 彼らを支えているのは、公共性の犠牲の上に築かれた「強さ」である。そして私たちは、政治家の空虚で暴力的な言葉に、毎日付き合わされているのである。そのツケが私たちの社会にとってどれだけ甚大であるのか、算出するすべはない。

Sunday, February 14, 2016

『牡蠣工場』舞台挨拶の予定


2/20(土)から東京・渋谷のイメージフォーラムで封切られる『牡蠣工場』(公式サイト→http://www.kaki-kouba.com/ )ですが、舞台挨拶の日程が決定しました。2/20(土)、2/21日(日)、2/25(木)に実施。

◆2月20日(土) 
10:45の回上映後/13:40の回上映後/16:35の回上映前

◆2月21日(日) 
10:45の回上映後

◆2月25日(木) 
19:30の回上映後

シアター・イメージフォーラム
http://www.imageforum.co.jp/theatre/

この機会に是非、劇場にお越しください!

Monday, July 27, 2015

70点を目指す市民運動のあり方

SEALDsだけでなく、ママのデモが出てきたりして、市民の運動がいい感じに盛り上がってきましたね。横のつながりだけでここまで広がっていることは、まさにデモクラシーの実践という感じで、非常に素晴らしいと思います。

その一方で、これだけ運動が広がってくると、いろんな考えのいろんな人が参加することになるわけですから、中には「それはちょっとどうなの?」と違和感を感じる発言や行動をする人も出てくると思います。大事なのは、そうした違和感を押し殺さないこと。同時に、その違和感をどう伝えたら運動にとってプラスになるか?という視点を持ちながら表明することだと思います。

忘れてならないのは、こうした運動には組織のバックボーンがないので、いろんなほころびが出るのは自然だということです。というより、どんな集団にも100%はありえません。10%の不備を理由に、残りの90%を否定してしまわないように気をつけたいと思います。10%の不備があるなら、その不備を少しでも改善していくようなことが大事だと思います。個人的には、こうした運動は70点くらいが合格点だと思っています。

その上で、どうしても運動の「不備の部分」が自分にとっては決定的に受け入れがたい、と感じる人が出てくるのも自然なことだし、健全だと思います。そうした方は、昨日の投稿で申し上げたように、そうした違和感を大事にして、違和感を共有する方々と独自の運動を立ち上げるのもよいと思います。

Tuesday, July 21, 2015

新作『牡蠣工場』がロカルノ映画祭へ! Our latest movie "Oyster Factory" in Locarno!

新作「牡蠣工場」(かきこうば、観察映画第6弾、2015年、145分)がロカルノ国際映画祭へ正式招待されることになりました〜!映画の公式サイト(英文)作りました。出来たばかりの予告編、ぜひご覧くださいませ。

Our latest documentary "Oyster Factory" (Kaki Kouba, observational film #6, 2015, 145 minutes) is now officially invited to Locarno International Film Festival! We just have made the official website of the film (in English). Enjoy the brand new trailer!

http://www.oysterfactory.net/


『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』発売間近!

拙著『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』(集英社インターナショナル)の見本が届いた (^_^)。発売は7月24日から。映画美学校で行った連続講座「観察映画の作り方」の書籍化。受講者の皆さんとのインタラクティブ方式ですので、かなり楽しくドキュメンタリーやメディアのことが学べると思います〜。

http://www.shueisha-int.co.jp/archives/3463

Sunday, July 19, 2015

紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉

拙著『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)で、僕は橋下徹氏を論じる文章を、このように締めくくりました。少し長いけれど引用します。

 「僕はこの数カ月、橋下氏を支持する人々と議論しながら、ある種の虚しさを感じ続けてきました。それは馬の耳に念仏を唱えているような、そういう空虚さです。自分の言葉が、驚くほどまったく相手に響かないのです。
 しかし橋下氏の言葉の感染力とその原因について考察してみると、僕を含めた批判勢力が繰り出す言葉が、氏の支持者に対して「のれんに腕押し」状態であることにも、理由があるのだなという気がしています。
 というのも、僕らが繰り出す言葉も、実はだいたい語彙が決まっているのです。「民主主義への挑戦」「独裁」「ヒトラー」「マッカーシー」「戦前への回帰」「憲法違反」「思想良心の自由」「人権を守れ」「恐怖政治」「強権政治」などなど……。
 こうした言葉は、それらを好んで発する人間にとっては、強い感情を喚起しうる強力な言葉です。これらの言葉を橋下氏やその支持者に投げかけるとき、僕らはまるで最強のミサイルを撃ち込むかのように、「どうだ、参ったか?」という気持ちで発するのです(『世界』を愛読する方の多くはそうではないでしょうか)。実際、たぶん一九七〇年代くらいまでは、例えば「思想良心の自由」という言葉は、まるで水戸黄門の印籠のように、それを発しさえすれば誰もが条件反射的にひれ伏してしまうような、強力な殺し文句でありえたのではないか(といっても僕は一九七〇年に生まれたので、実際のところはよく分かりませんが)。
 しかし時代は変わり、橋下氏とその支持者に「思想良心の自由を守れ」とか「恐怖政治だ」などという言葉を浴びせても、彼らはびくともしません。「だから何?」という調子で、面白いくらいに効き目がありません。コミュニケーションが成立しないのです。そして、様々な世論調査で橋下氏の支持率が過半数である以上、かなり多くの日本人が、僕らが繰り出す「黄門様の印籠」には反応しなくなっていると推定できるでしょう。
 おそらく彼らにとっては、これらの言葉はすでにリアリティを失い、賞味期限が切れてしまっているのです。したがって感情を動かしたりはしないのです。彼らは、例えば君が代の問題を語る際にも、「思想良心の自由を守れ」よりも、「公務員は上司の命令に従え」というフレーズの方に、よほど心を動かすのです。僕個人としては、極めて由々しき事態であると思います。 とはいえ、彼らを責めてばかりもいられません。
 考えてみれば、実は僕らにも戦後民主主義的な殺し文句に感染し、むやみに頼りすぎ、何も考えずに唱和してきた側面があるのではないでしょうか。つまり橋下氏の支持者たちと、同型の怠慢をおかしてきた可能性はないでしょうか。そして橋下氏の支持者たちは、僕らが繰り出す言葉からそのような臭いを敏感に嗅ぎ取っているからこそ、コミュニケーションを無意識に拒絶している。僕にはそんな気がしてなりません。
 もちろん、民主主義的な価値そのものを捨て去る必要はありません。むしろ、ある意味形骸化してしまった民主主義的諸価値を丹念に点検し、ほころびをつくろい、栄養を与え、鍛え直していく必要があるのです。
 そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業にもなるでしょう。
 橋下氏や彼を支持する人々をコミュニケーションの場に引きずり出し、真に有益な言葉を交わし合うためには、おそらくそういう営みが必要不可欠なのだと思います。」

 ここで論じたのは橋下氏についてですが、それを安倍首相に置き換えても全く同じことが言えると思います。
 そういう観点からすると、いまの学生主体の運動には目を見張るものがあります。たとえば下に紹介するSEALDsKANSAIのともかさんのスピーチなどは、まさに「紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉」のように思いました。それを自然体でさらりとやってのけている。とても素晴らしいと思います。

【スピーチ全文掲載】SEALDsKANSAIともかさん
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905

Friday, July 17, 2015

映画『永遠の0』のプロパガンダの仕掛け

映画『永遠の0』が地上波でノーカットで放送されるとのこと。拙著『熱狂なきファシズム』で論じたことだが、この作品は戦争で死ぬことを嫌がる宮部を主人公に据えることで一見反戦映画に見せかけているが、彼を最後に特攻させることで結局はその死を美化する。巧妙なプロパガンダである。

『永遠の0』が巧妙なのは、軍国青年を主人公にするのではなく、死ぬのを嫌がる宮部を主人公にしたことだ。現代の観客は軍国青年には感情移入できないが、宮部にならできる。宮部にどっぷり感情移入させた上で、特攻させる。だからその死に思わず号泣してしまう。誰が彼を殺したのかは不問に付される。

宮部に感情移入させられた観客は、彼の死を「国や家族のための自己犠牲」と感じて思わず感動してしまう。だが特攻隊員たちは、無能な戦争指導者たちによって無理やり殺されたのであり、英雄というよりも犠牲者。『永遠の0』は、宮部を英雄として描くことで、あの戦争の本当の構図を隠蔽する。

宮部がラストで米国の戦艦に突っ込む際に、米兵に「なんだ、この凄腕のパイロットは!」的なことを言わせて宮部の操縦技術に対し感嘆させるのには思わず失笑した。原作ではこの辺りが特に強調されている。米兵に褒めさせることで日本人のプライドをくすぐるという、劣等感丸出しの卑屈なヒロイズム。

あと『永遠の0』が巧妙なのは、「だらけきった戦後民主主義の日本人」のメタファーである健太郎や慶子が、「誤解され忘れ去られた戦中・戦前の日本人」のメタファーである宮部の「本当の姿」を発見し驚嘆し、生き方を変えるという物語構造を採用したことだ。これで現代人は更に感情移入しやすくなる。

ちなみに、健太郎の友人たちが「特攻なんて自爆テロだろ」と発言した際、祖父である宮部の「本当の姿」を知り始めていた健太郎が猛烈に反発する場面があるのだが、百田尚樹の原作では友人たちではなく朝日新聞の記者がヒール役を務めている。映画には朝日新聞が協賛しているので書き換えたのだろう。実に姑息である。

この作品についてはいろいろ言いたいことがあるのだが、詳しくは拙著『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)の「あとがきのような『永遠の0』論」をお読みください。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309246703/