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Latest documentary "Oyster Factory" has been officially invited to Locarno International Film Festival 2015! 最新作『牡蠣工場』がロカルノ国際映画祭へ正式招待されました!

Monday, July 27, 2015

70点を目指す市民運動のあり方

SEALDsだけでなく、ママのデモが出てきたりして、市民の運動がいい感じに盛り上がってきましたね。横のつながりだけでここまで広がっていることは、まさにデモクラシーの実践という感じで、非常に素晴らしいと思います。

その一方で、これだけ運動が広がってくると、いろんな考えのいろんな人が参加することになるわけですから、中には「それはちょっとどうなの?」と違和感を感じる発言や行動をする人も出てくると思います。大事なのは、そうした違和感を押し殺さないこと。同時に、その違和感をどう伝えたら運動にとってプラスになるか?という視点を持ちながら表明することだと思います。

忘れてならないのは、こうした運動には組織のバックボーンがないので、いろんなほころびが出るのは自然だということです。というより、どんな集団にも100%はありえません。10%の不備を理由に、残りの90%を否定してしまわないように気をつけたいと思います。10%の不備があるなら、その不備を少しでも改善していくようなことが大事だと思います。個人的には、こうした運動は70点くらいが合格点だと思っています。

その上で、どうしても運動の「不備の部分」が自分にとっては決定的に受け入れがたい、と感じる人が出てくるのも自然なことだし、健全だと思います。そうした方は、昨日の投稿で申し上げたように、そうした違和感を大事にして、違和感を共有する方々と独自の運動を立ち上げるのもよいと思います。

Tuesday, July 21, 2015

新作『牡蠣工場』がロカルノ映画祭へ! Our latest movie "Oyster Factory" in Locarno!

新作「牡蠣工場」(かきこうば、観察映画第6弾、2015年、145分)がロカルノ国際映画祭へ正式招待されることになりました〜!映画の公式サイト(英文)作りました。出来たばかりの予告編、ぜひご覧くださいませ。

Our latest documentary "Oyster Factory" (Kaki Kouba, observational film #6, 2015, 145 minutes) is now officially invited to Locarno International Film Festival! We just have made the official website of the film (in English). Enjoy the brand new trailer!

http://www.oysterfactory.net/


『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』発売間近!

拙著『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』(集英社インターナショナル)の見本が届いた (^_^)。発売は7月24日から。映画美学校で行った連続講座「観察映画の作り方」の書籍化。受講者の皆さんとのインタラクティブ方式ですので、かなり楽しくドキュメンタリーやメディアのことが学べると思います〜。

http://www.shueisha-int.co.jp/archives/3463

Sunday, July 19, 2015

紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉

拙著『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)で、僕は橋下徹氏を論じる文章を、このように締めくくりました。少し長いけれど引用します。

 「僕はこの数カ月、橋下氏を支持する人々と議論しながら、ある種の虚しさを感じ続けてきました。それは馬の耳に念仏を唱えているような、そういう空虚さです。自分の言葉が、驚くほどまったく相手に響かないのです。
 しかし橋下氏の言葉の感染力とその原因について考察してみると、僕を含めた批判勢力が繰り出す言葉が、氏の支持者に対して「のれんに腕押し」状態であることにも、理由があるのだなという気がしています。
 というのも、僕らが繰り出す言葉も、実はだいたい語彙が決まっているのです。「民主主義への挑戦」「独裁」「ヒトラー」「マッカーシー」「戦前への回帰」「憲法違反」「思想良心の自由」「人権を守れ」「恐怖政治」「強権政治」などなど……。
 こうした言葉は、それらを好んで発する人間にとっては、強い感情を喚起しうる強力な言葉です。これらの言葉を橋下氏やその支持者に投げかけるとき、僕らはまるで最強のミサイルを撃ち込むかのように、「どうだ、参ったか?」という気持ちで発するのです(『世界』を愛読する方の多くはそうではないでしょうか)。実際、たぶん一九七〇年代くらいまでは、例えば「思想良心の自由」という言葉は、まるで水戸黄門の印籠のように、それを発しさえすれば誰もが条件反射的にひれ伏してしまうような、強力な殺し文句でありえたのではないか(といっても僕は一九七〇年に生まれたので、実際のところはよく分かりませんが)。
 しかし時代は変わり、橋下氏とその支持者に「思想良心の自由を守れ」とか「恐怖政治だ」などという言葉を浴びせても、彼らはびくともしません。「だから何?」という調子で、面白いくらいに効き目がありません。コミュニケーションが成立しないのです。そして、様々な世論調査で橋下氏の支持率が過半数である以上、かなり多くの日本人が、僕らが繰り出す「黄門様の印籠」には反応しなくなっていると推定できるでしょう。
 おそらく彼らにとっては、これらの言葉はすでにリアリティを失い、賞味期限が切れてしまっているのです。したがって感情を動かしたりはしないのです。彼らは、例えば君が代の問題を語る際にも、「思想良心の自由を守れ」よりも、「公務員は上司の命令に従え」というフレーズの方に、よほど心を動かすのです。僕個人としては、極めて由々しき事態であると思います。 とはいえ、彼らを責めてばかりもいられません。
 考えてみれば、実は僕らにも戦後民主主義的な殺し文句に感染し、むやみに頼りすぎ、何も考えずに唱和してきた側面があるのではないでしょうか。つまり橋下氏の支持者たちと、同型の怠慢をおかしてきた可能性はないでしょうか。そして橋下氏の支持者たちは、僕らが繰り出す言葉からそのような臭いを敏感に嗅ぎ取っているからこそ、コミュニケーションを無意識に拒絶している。僕にはそんな気がしてなりません。
 もちろん、民主主義的な価値そのものを捨て去る必要はありません。むしろ、ある意味形骸化してしまった民主主義的諸価値を丹念に点検し、ほころびをつくろい、栄養を与え、鍛え直していく必要があるのです。
 そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業にもなるでしょう。
 橋下氏や彼を支持する人々をコミュニケーションの場に引きずり出し、真に有益な言葉を交わし合うためには、おそらくそういう営みが必要不可欠なのだと思います。」

 ここで論じたのは橋下氏についてですが、それを安倍首相に置き換えても全く同じことが言えると思います。
 そういう観点からすると、いまの学生主体の運動には目を見張るものがあります。たとえば下に紹介するSEALDsKANSAIのともかさんのスピーチなどは、まさに「紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉」のように思いました。それを自然体でさらりとやってのけている。とても素晴らしいと思います。

【スピーチ全文掲載】SEALDsKANSAIともかさん
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905

Friday, July 17, 2015

映画『永遠の0』のプロパガンダの仕掛け

映画『永遠の0』が地上波でノーカットで放送されるとのこと。拙著『熱狂なきファシズム』で論じたことだが、この作品は戦争で死ぬことを嫌がる宮部を主人公に据えることで一見反戦映画に見せかけているが、彼を最後に特攻させることで結局はその死を美化する。巧妙なプロパガンダである。

『永遠の0』が巧妙なのは、軍国青年を主人公にするのではなく、死ぬのを嫌がる宮部を主人公にしたことだ。現代の観客は軍国青年には感情移入できないが、宮部にならできる。宮部にどっぷり感情移入させた上で、特攻させる。だからその死に思わず号泣してしまう。誰が彼を殺したのかは不問に付される。

宮部に感情移入させられた観客は、彼の死を「国や家族のための自己犠牲」と感じて思わず感動してしまう。だが特攻隊員たちは、無能な戦争指導者たちによって無理やり殺されたのであり、英雄というよりも犠牲者。『永遠の0』は、宮部を英雄として描くことで、あの戦争の本当の構図を隠蔽する。

宮部がラストで米国の戦艦に突っ込む際に、米兵に「なんだ、この凄腕のパイロットは!」的なことを言わせて宮部の操縦技術に対し感嘆させるのには思わず失笑した。原作ではこの辺りが特に強調されている。米兵に褒めさせることで日本人のプライドをくすぐるという、劣等感丸出しの卑屈なヒロイズム。

あと『永遠の0』が巧妙なのは、「だらけきった戦後民主主義の日本人」のメタファーである健太郎や慶子が、「誤解され忘れ去られた戦中・戦前の日本人」のメタファーである宮部の「本当の姿」を発見し驚嘆し、生き方を変えるという物語構造を採用したことだ。これで現代人は更に感情移入しやすくなる。

ちなみに、健太郎の友人たちが「特攻なんて自爆テロだろ」と発言した際、祖父である宮部の「本当の姿」を知り始めていた健太郎が猛烈に反発する場面があるのだが、百田尚樹の原作では友人たちではなく朝日新聞の記者がヒール役を務めている。映画には朝日新聞が協賛しているので書き換えたのだろう。実に姑息である。

この作品についてはいろいろ言いたいことがあるのだが、詳しくは拙著『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)の「あとがきのような『永遠の0』論」をお読みください。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309246703/