最近つくづく感じるのは、社会の多数派が動くには「みんながそう言っているかどうか」が決定的に重要で、言われている内容は関係がないということ。例えばマスコミ一社がまともな主張をしても動かない。だけど全社が言い出したら、内容はどうあれ途端に多数派は動きだす。それが多数派の行動基準。
つまり多数派は、自分が多数派に属するように、マイノリティにならないように、自らの意見や行動を形作る。ということは、少数意見がどんなに真っ当でも、それを採用したりはしない。すくなくとも採用したことを公にはしない。自分がマイノリティになってしまうから。
マイノリティになること。これは多数派が最も恐れることかもしれない。なぜなら、多数派は多数派であることをアイデンティティにしているところがある。あるいはニッチ(住処)にしている。逆もまた真なりで、僕みたいに万年マイノリティの人間は、自分が多数派になることを警戒している。
こうした行動基準は、たぶん群れを作る動物としての本能と関わりがある。だから多数派が多数であることに、そして少数派が少数であることにニッチを見出すことは、基本的には未来永劫、変わらないような気がしている。
じゃあ社会の主流の価値観も永久に変わらないのかといえば、そうではない。多数派は多数であることを行動基準にするわけだから、少数派の意見だったものが、何かの拍子に多数派の意見になることはあり得る。というか、人類の歴史はつねにそうであり続けたのではないか。
「民主主義」という価値観だって、最初はものすごく少数派だったはずだ。しかしそれが様々な出来事の積み重ねを経て、そして何かのはずみで「みんな民主主義が良いって言ってるから民主主義でいこうよ」という風に、人間社会がターンをした。その変化の潮目がなんだったのか。個人的に、とても興味がある。
(ツイッターのつぶやきを再構成しました)
関心を引かれた出来事に対して、頭がそこへ集中するうちに情動のほうが強くなって、自分のなかで結論は出てないのにとにかくアクションしたくなる。そのとき多数派につくことがアクションを起こすアクセルになる。でもそれが思考停止になってることに気づかない、あるいは気づきたくない。そういうこともあるんじゃないか、と思いました。「世界」に書かれた想田さんの文章を拝読してそんなふうに感じています。つまり民主主義という価値は、単に多数派であるということだけでなく、その中身がどのように思考され、醸成されたものなのかという問いがくりかえし行われるということのによって補完され続ける必要があるのだと思います。
ReplyDeleteなるほど。コメントありがとうございます。
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