数日前、橋下徹大阪市長率いる日本維新の会が、綱領を発表した。その「基本となる考え方」の第1番目には、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」とある。この夏の参院選では、改憲勢力として自民と合わせ参議院の3分の2を獲ることを目標としているという。
橋下氏の人気には一時の勢いはないと言われているものの、日本維新の会が日本の政治のキャスティングボードを握る可能性はある。僕はそのことに危惧を抱いている。
岩波書店『世界』の編集部から許可を得て、去年の7月号に寄稿した拙稿の全文を掲載する。
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想田和弘(映画作家)
『世界』編集部から、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」というお題をいただき、原稿の依頼を受けました。
僕は大阪出身でもなければ、府民でもありません。日本に住んでさえいません。1993年からニューヨークに住み、あまり売れているとはいえないドキュメンタリー映画ばかりを細々と作っています。仕事上でも、橋下氏を直接取材したこともなければ、お会いしたこともありません。ある意味、「橋下問題」とはかなり遠いところにいる人間です。
そんな僕にそういう依頼がきたのは、僕がここ数か月、「橋下問題」を気にかけ、ウォッチし、毎日のようにツイッター上で橋下氏の発言や行動を分析したり、批判したりしているからでしょう。そして、橋下氏を支持する人々や、批判する人々と、かなり盛んに意見交換しているからではないかと思います。
でも、正直申し上げて、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」という疑問に対する明確な答えを、僕は持っていません。その最大の理由は、明白です。僕が橋下徹氏に政治家として可能性や魅力を感じないばかりか、危険だとさえ思っているので、支持する人の気持ちが分からないのです。
もちろん、橋下人気の背景に、既成政党の無能・無策ぶりや、行き詰まった経済や福祉制度、原発政策などに対する、人々の鬱積した不満や怒りがあるのは明白でしょう。現状があまりに酷過ぎて、誰かを救世主に仕立てたくなる気持ちも分からないではありません。しかし、威勢はよいけど強権的で大した実績もなく、遵法意識が低く、発言内容がコロコロ変わり、ビジョンも稚拙といわざるをえない橋下氏を、なぜ救い主であると信じられるのか。僕は理解に苦しむのです。
では、橋下氏を支持する人に聞けば、それが明解になるのでしょうか。僕は、橋下氏を支持する人々とネットを中心にずいぶんやり取りし、彼らの発言をかなりたくさん読み込んできました。しかし、今のところ残念ながら、腑に落ちる、共感できるような見解には出会えていません。むしろ、読めば読むほど、議論すればするほど、謎は深まるばかりなのです。
とはいえ、そうした作業を進めるうちに、橋下氏を支持する言説に、ひとつの気になる傾向があることに気づきました。そしてその傾向には、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」というお題について考えるための、重要な糸口があるような気がしてならないのです。
その、ひとつの「気になる傾向」とは何か。
それは、多くの橋下支持者は、橋下氏が使う言葉を九官鳥のようにそっくりそのまま使用するということです。例えば、今年2月に起きた大阪市職員に対する「強制アンケート調査」の一件では、アンケート調査の当事者である大阪市役所労働組合のブログに、以下のような書き込みが寄せられていました。
「普通は社長に反抗すればクビ。大阪市の社長は市民が決めた橋下さん。市長や知事を決めたのは大阪府民、大阪市民です。あなたたちの給料は市民からでてます。大阪市民が橋下さんに全て託したんやから橋下さんに従いなさいよ」
「業務命令というなら従いましょう。嫌なら辞めましょう」
「市長が調査に乗り出すと憲法違反を持ち出して公然と批判。調査の原因である自分達がこれまで勤務時間内にやってきたことは完全に棚上げ。既得権益ってこうやって守るんですよというお手本みたいな行動ですね。勉強になります」
「違憲と思うなら裁判でもすればいい。回答しなかったら処分されるまで。もっとわめいて大騒ぎすればいい。大騒ぎすればするほどいい意味でも悪い意味でも注目を浴びるから。今まで絶対的身分保障の名の下に好き放題してきたことも白日の下にさらされる。私は大阪市民!じっと見ているぞ!」
橋下市長の発言によく触れている人なら、これらの発言が、語彙も論理も文体も、橋下氏とそっくりだということに気づくでしょう。
「大阪市の社長は市民が決めた橋下さん」というのは、橋下氏が「民意」を持ち出して自らを正当化したり、市役所を「民間会社」になぞらえて語るときによく使うレトリックですし、「業務命令」「既得権益」「身分保障」などの語彙も、氏が好んで使うキーワードです。「嫌なら辞めろ」というのも、橋下氏の口からよく発せられるフレーズです。これらの文章の主語などを少しだけ書き換えて橋下氏のツイッターに転載したとしても、たぶんそのまま橋下氏の発言として通用してしまうほど、酷似しています。
つい最近話題になった「毎日放送記者の糾弾事件」でも、同様のことが観察できました。橋下氏が記者会見で、教職員の君が代起立斉唱強制問題について質問した毎日放送の記者を「逆質問」で糾弾した、あの一件です。
同事件では、その一部始終を記録した動画がユーチューブで広まり、橋下氏の尻馬に乗って記者を侮辱する言葉がネット上に溢れ返りましたが、彼らが多用したのは、「とんちんかん」「勉強不足」「新喜劇」といった言葉でした。動画を実際にご覧になった方なら分かると思いますが、これらはすべて、橋下氏自身が動画の中で発した言葉です。彼らは、「他人を罵る」という極めて個人的な作業にも、自ら言葉を紡ぐことなく、橋下氏の言葉をそっくりそのまま借用したのです。
これはいったい、何を意味するのでしょうか。
思考は、言葉です。思考の支配は、言葉を支配することによって成し遂げられます。橋下氏の言葉を進んで使う人々は、橋下氏の言葉によって思考を支配されているといえるのではないでしょうか。そして、思考を支配されているがゆえに、行動も支配されているのではないでしょうか。
これは何も目新しい現象ではありません。
僕が今ある種の戦慄を覚えながら思い出しているのは、2001年9月11日に起きた、あの事件です。
あの日以来、ジョージ・W・ブッシュ米大統領や米政府高官は、「War on Terrorism(テロとの戦い)」というキャッチフレーズをことあるごとに使い始めました。するとどうでしょう。まずその言葉をアメリカのテレビのアナウンサーやコメンテイター、新聞記者たちが競うように使い始め、瞬く間に大多数のアメリカ人が口にし始めました。それはまるでアメリカ中の人々が、一斉にブッシュ大統領にのりうつられたような不吉な光景でした。そして、「War on Terrorism」という言葉に支配され、怯え憤ったアメリカ社会は、合計90万人とも推計される犠牲者が出ることになる、二つの無意味な戦争に突き進んでいったのです。
いや、アメリカ社会だけではありません。僕は太平洋を隔てた日本の報道機関や政治家、一般市民までもが「テロとの戦い」という翻訳語を当たり前のように使っているのを聞いて、とても奇妙に感じたのを憶えています。
「テロとの戦い」というスローガンは、明らかにアメリカ側から世界を眺めた、決して政治的に中立ではない言葉です。少なくとも、それを合い言葉に爆撃されたアフガニスタンの一般市民は、米軍の行為を「テロとの戦い」と呼ぶことには釈然としないでしょう。たぶん、彼らにとっての現実を正確に差し示すフレーズは、「米軍による軍事侵略」といった言葉であるはずです。
しかし、日本人の大半は、米国が打ち出した「テロとの戦い」という言葉を、おそらくほとんど無意識に採用した。同時に、それがかたどる政治的な枠組みに思考や世界観を支配されたのです。そして、行動までを支配された。日本政府が「国際貢献」というもう一つのキャッチフレーズとともに、米軍支援のために自衛隊を差し出したことは、みなさんの記憶にも新しいことでしょう。
そう考えると、同様の例はいくらでも見つかることに気づかされます。いや、社会が大きく動かされる際には、人々がそれによって思考を支配されるような、キーワードとなる言葉が必ずあるともいえるでしょう。
最近日本社会を席巻した言葉の例を挙げれば、「構造改革」「抵抗勢力」「規制緩和」「政権交代」「政治主導」…。
大事なポイントは、これらの言葉は為政者が民衆を羽交い締めにして、無理矢理言わせたものではない、ということです。それらは、たしかに政治家たちによって考案され、社会に投じられた言葉かもしれません。しかし、それらを進んで唱和したのは、わたしたち民衆なのです。
いや、もちろん、唱和するのを拒んだ人も多数いたでしょう。僕自身のことを申し上げれば、「政権交代」以外の言葉は唱える気になりませんでした。けれども、唱える人の勢いや数がそうでない人を上回っていたからこそ、社会全体がそれらの言葉に動かされたことは否めないのです。
では、なぜ大多数の人は、好き好んでそれらの言葉を合唱したのか。
僕は、それらの言葉がそのときどきで、ある種の「リアリティ」を持って人々の心に響くと同時に、感情を動かしたからだと思います。
例えば、「テロとの戦い」という言葉が2000年代前半に特に効力を持ちえたのは、9月11日の事件が起きたからにほかなりません。それは、「もしブッシュ大統領が9月10日に同じ言葉を発していたら」と想像すれば容易に分かります。おそらくアメリカ人のほとんどがピンとこなくて、「はあ?」と首を傾げたことでしょう。アメリカ人が9月11日以降、「テロとの戦い」に首を傾げるどころか、それを合い言葉に戦争を始めたのは、「祖国がテロリストの魔の手に晒されている」という信憑が(それが正確な状況把握かどうかは別にして)十分成り立ち、恐れと怒りという感情に支配されていたからなのです。
去年から日本の社会で急速に人々のスローガンとなりつつある「脱原発」という言葉もそうですね。僕は80年代から「脱原発派」の一人ですが、2011年3月10日までは、「脱原発」という言葉を日本で発しても、「ああ、左翼がまた非現実的なことを言ってるな」というレッテルを貼られ、軽蔑の眼差しで見られる場合がほとんどでした。ところがどうでしょう。福島で破滅的な原発事故が起きて以来、この言葉は急激に市民権と力を得ました。言葉そのものは、昔からずっと「脱原発」であるにもかかわらず、まるでそれが別の言葉に生まれ変わったかのように、突然「化けた」のです。そしてその豹変ぶりは、別に脱原発派が急に運動や宣伝がうまくなったことに起因しているわけではありません。原発事故による甚大な被害が実際に起き、急激にリアリティを得て日本人の感情を動かした。だからこそ、「脱原発」という言葉は一夜にして、多くの人々が唱和するスローガンに変貌したのです。
ここで、橋下徹市長の問題に戻ります。
なぜ、橋下氏の支持者は、橋下氏が発する言葉を自ら進んで唱和するのか。
これまでの議論から、おそらく橋下氏が発する言葉が、「テロとの戦い」「脱原発」などの言葉と同様に、ある一定のリアリティを持って人々の心に響いているからだと推論できます。そして、大勢の人々が単純なキーワードによって思考を支配されるような現象は、別に橋下氏周辺に特有なわけではなくて、世界的に頻繁に観察できる「病態」であることが分かります。
とはいえ、「だから橋下徹という政治家を特別視する必要はない」という結論に至るのは早計でしょう。
橋下氏が大阪府知事選に当選し、政治家としてデビューしたのは2008年。わずか4年前です。国会議員でいえば、橋下氏は未だに「一年生議員」のようなものです。その彼が、いまでは大阪府市を制圧し、国政進出を狙い、一部では首相候補とさえささやかれている。
この急速な勢力の伸びは、決して尋常ではありません。このような躍進が可能になったのは、橋下氏が発する言葉に特別な「感染力」があるからこそだと、僕は見ています。
事実、橋下徹という政治家は、いま日本に存在する他のどの政治家よりも、キャッチフレーズやコピーとなる言葉を数多く発しているように思われます。
その例を挙げましょう。
「民意」「選挙で選ばれた代表」「決定できる政治」「既得権益」「二重行政」「大阪都構想」「対案を出せ」「文句があるならお前がやってみろ」「身分保障の公務員」「公務員は上司の命令に従え」「税金で飯を食う官僚」「トップ」「職務命令」「自称インテリ」「学者論議」「マネージメント」「リセット」などなど…。
これらは、橋下氏が好んで繰り返し使う言葉やフレーズです。そして橋下氏の支持者たちが、あたかも橋下氏になりきったかのように、プロパガンダ・マシーンよろしく連呼している言葉です。みなさんも、少なくともこのうちのいくつかは聞き覚えがあるのではないでしょうか。
もちろん、これらのほとんどは、橋下氏が一から作り上げた言葉ではありません。むしろ、ありふれた言葉です。しかしこの際、オリジナリティがあるかどうかは、あまり重要ではありません。重要なのは、橋下氏がこれらの言葉を繰り返し発することによって、事実上の専売特許にしてしまっていることです。そして、彼の支持者たちがこれらの「橋下市長の言葉」を、声高に輪唱している。その事実こそが、問題なのです(そういえば、「維新」という言葉も周知の通り橋下氏のオリジナルではありませんが、いまや「維新」といえば「大阪維新の会」を差す場合が多くなってしまいました)。
僕は野田総理が好んで使う言葉をいますぐ思い出そうとしても、ひと言も思いつくことができません。そして、野田総理の言葉を彼の支持者が合唱する現場を、一度も目撃したことがありません。つまり一国の総理が使う言葉よりも、一地方自治体の首長が使う言葉の方が、世の中に伝染し唱和されている。そういう、かなり特殊な事態がいま日本に生じつつあるのだと思います。
では、なぜ橋下徹の言葉には「感染力」があるのか。
橋下氏お得意のフレーズを並べてみると、人々が社会に対して抱いている不満や懸念を掬い上げるようなものであることに気づかされます。しかもそこに、人々の(理性ではなく)感情を煽り立てる何かを感じます。
例えば「民意」という言葉の裏には、「われわれ民衆の意志が政治に反映されていない」という漠然とした不満が匂いますし、「決定できる政治」というコピーの背景には、「今の政治は何も決定できず無能だ」という恨み節が存在します。「身分保障の公務員」というフレーズの背後にも、「身分保障なんて、俺たち派遣社員には関係ねえよ、チクショー」といった怨念のような感情が基調低音のように鳴り響いています。
逆に言うと、橋下徹という政治家は、そのような人々の感情の鉱脈のありかを察知し、言葉で探り当てることに長けているのです。そしてそこにこそ、彼の言葉の感染力の強さの秘密があるのだと思います。
例えば彼が「民主主義」という言葉よりも「民意」という言葉を愛用するのは、前者が政治制度をクールに描写する言葉であるのに対して、後者が有権者の感情に直結している言葉だからではないでしょうか。
いや、もちろん「民主主義」という言葉も、軍国主義の時代が終わり、新しい時代が始まる予感に満ち満ちていた敗戦直後の日本人にとっては、きわめてダイレクトに感情にアクセスできた言葉であったのではないかと推察されます。だからこそ、「民主主義」という言葉は当時の日本で強力なスローガンとして機能し、社会全体を180度引っくり返す力を持ちえたのだと思います。
しかし、物心ついた頃から民主主義があたり前の、21世紀に生きる現代人、特に若い世代にとってはどうでしょうか。「民主主義」という言葉は、単に政治制度を指し示すか、使い古された、お題目的な言葉に変質してしまっているような気がします。無論だからといって、民主主義そのものの価値が下落したわけでは決してありません。けれども、少なくとも若い世代の多くが「民意」という言葉の方に、より自己を投影し、当事者となり、感情移入しやすいように感じるとしても、そう不思議ではないのです。
そして、橋下氏はこのことをたぶん極めて冷徹に理解し、意識的に操作している。それを僕がなかば確信させられたのは、今年の5月10日の橋下氏自身のツイートによってです。彼は放射性廃棄物の処理方法に関する池田信夫氏のツイートに答えて、次のように述べています。
池田「「海洋投棄はけしからん」という感情論が多いが、1万mの日本海溝に沈める技術は確立しており、地層処分より安全」
橋下「こういう技術論を国民コンセンサスに高めるには膨大な政治エネルギーが必要。それをやらずに論を言うのは言うだけの世界。民主主義は感情統治」
僕はこの短いつぶやきにこそ、橋下氏が考える政治のイメージが集約されているように思います。つまり彼は、「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」と言っているのです。
こうした橋下氏独特の民主主義観は、僕を次のような推論に導きます。
橋下氏は、人々の「感情を統治」するためにこそ、言葉を発しているのではないか。そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治」されているのではないか。
そう考えると、橋下氏がしばしば論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコロ変わったりしても、ほとんど政治的なダメージを受けない(支持者が離れない)ことにも納得がいきます。そうした論理的ほころびは、彼を支持しない者(感情を統治されていない者)にとっては重大な瑕疵に見えますが、感情を支配された人々にとっては、大して問題になりません。なぜなら、いくら論理的には矛盾しても、感情的な流れにおいては完璧につじつまが合っているからです。
先述した「毎日放送記者の糾弾事件」はその好例です。この30分近くにわたる女性の記者と橋下市長とのやりとりでは、記者は一貫して、「君が代起立斉唱条例」を立案した張本人である橋下氏に対して、府立高校校長によるいわゆる「口元チェック」の是非を問い質しています。
記者としては当たり前の発想です。橋下氏が条例を作ったからこそ、教育委員会が起立斉唱命令を出し、校長が「口元チェック」をした。だから、立案者の橋下氏にそのことについて質問する。極めて自然なロジックです。ところが、橋下氏は「自分は条例を作っただけであり、命令を出したのは教育委員会だから、その問いに答えるのは自分の仕事ではない。だから教育委員会に聞け」と言いはり、記者を「勉強不足だ」と責めたてます。
冷静に考えれば、橋下氏の言うことは論理的に破綻しています。直接命令を出したのは教育委員会かもしれませんが、その元になる条例を作ったのは橋下氏なのですから、彼には記者の質問に答える責任があるはずです。少なくとも、質問をする記者が「とんちんかん」などと口汚くなじられる筋合いはありません。
しかし、動画を観た多くの人々が、橋下氏に対して拍手喝采を送りました。なぜなら、橋下氏が繰り出す言葉には、一貫して「ふざけんなよ、マスゴミのオンナ記者!」という感情が込められていたからです。論理的には矛盾していても、感情的には一本筋が通っていたのです。
だから日頃からマスコミに不満を抱いていたり、ミソジニー(女性嫌悪)的な暗い思いを抱いていたり、あるいは単に誰かをいじめたい気分に駆られていた人々は、彼の演出する感情に波長を合わせ易かったし、合わせることができた。そして彼が発した「とんちんかん」などという言葉をそのまま借用して、自らの感情をネット上などでぶちまけた。これは、橋下氏の目指している「感情を統治する民主主義」が典型的に機能した例だと言えるでしょう。
とはいえ、橋下氏の言葉がいくら感情を喚起し、したがって強い感染力があるとしても、それを流通させる手段がなければ、世の中に広く伝播することはできません。しかしこの点でも、橋下氏は非常に抜け目のない戦略家であると言わざるをえません。
実際、ツイッター上で橋下批判に本腰を入れてまもなく、僕は本当に驚かされました。例えばある日、君が代問題で橋下氏が物議をかもしたニュースについて1日かけてあれこれ論じていると、翌日には職員の入れ墨の件がニュースとして浮上するのでそれについて僕も論じる。ところが次の日には、橋下氏が知識人の誰かをツイッター上で罵倒して、それが問題になる。そして次の日は文楽潰しの問題、次の日は原発、次の日は維新八策…という具合に、ほとんど毎日、日替わり定食のように、何かしら問題、つまりニュースが起きるのです。
これを逐一取り上げると、どうなるか。僕は毎日毎日、橋下さんのことばかりを論評するはめになります。実際、実に忌々しいことですが、僕はここ数か月、「映画作家」というよりも、「橋下評論家」のようになっています。そしてこれこそが、僕だけではなく、関西のマスメディアが多かれ少なかれ陥っている状況なのです。
事実、橋下氏は毎朝30分間もの「ぶら下がり取材」と、週に1回2時間にも及ぶ記者会見を行っています。そして関西テレビ報道局デスクの迫川緑氏からシンポジウムの壇上で聞いた話によると、橋下氏は会見を短く切り上げたりせずに、記者の方が根負けするくらい、とことん最後まで付き合うそうです。
しかも橋下氏は毎日のように新しいネタを提供する。それもたいていは、物議をかもすような過激なネタです。テレビ局としては取り上げざるをえません。しかし迫川氏によれば、ネタがあまりに多すぎるので詳しい取材が追いつかず、とりあえず橋下氏のコメントを主体としたニュースを流す。気がつけば、30分のニュース番組に橋下氏が何度も登場する。そういうサイクルになりがちだそうです。つまり公共の電波で流れるニュース番組が、知らず知らずのうちに「橋下徹ショー」になっているわけです。
だからといって、メディアは橋下関連の報道をやめることができるでしょうか。彼の政治姿勢や政策が大阪市民や、ゆくゆくは日本国民に重大な影響を与えかねない以上、報道機関には報じる責任があります。しかし報じれば報じるほど、橋下氏の言葉は世の中に伝染して影響力を増し、だからこそ更に報じなくてはならなくなる。そういうジレンマと悪循環が生じているのです。
ついでに申し添えておくならば、取材者の立場からすれば、これは同時に「ネタに困っても大阪市役所に行きさえすれば、新しいニュースがある」という状況でもあります。ニュースを常に探し求めている者にとっては、これはある種の楽園です(僕もかつてテレビ・ニュースの現場をかじったことがあるので、実感としてそう思います)。つまり橋下氏は、報道機関にとって「おいしいネタ元」になりつつある。そうなれば記者たちも、できれば橋下氏と仲良くしていたいでしょう。険悪になれば、最高の「情報ソース兼タレント」へのアクセスを失いかねないからです。彼に対して報道機関が厳しい批判を加えにくい背景には、ときおり見せしめのように行われる「記者のつるし上げ」の恐怖もあるでしょうが、そういう現場の心理も働いていると思うのです。
さて、そろそろ紙幅も尽きてまいりましたので、最後に、橋下氏の批判勢力側の言葉の問題について触れたいと思います。
僕はこの数か月、橋下氏を支持する人々と議論しながら、ある種の虚しさを感じ続けてきました。それは馬の耳に念仏を唱えているような、そういう空虚さです。自分の言葉が、驚くほどまったく相手に響かないのです。
しかし橋下氏の言葉の感染力とその原因について考察してみると、僕を含めた批判勢力が繰り出す言葉が、氏の支持者に対して「のれんに腕押し」状態であることにも、理由があるのだなという気がしています。
というのも、僕らが繰り出す言葉も、実はだいたい語彙が決まっているのです。
「民主主義への挑戦」「独裁」「ヒトラー」「マッカーシー」「戦前への回帰」「憲法違反」「思想良心の自由」「人権を守れ」「恐怖政治」「強権政治」などなど…。
こうした言葉は、それらを好んで発する人間にとっては、強い感情を喚起しうる強力な言葉です。これらの言葉を橋下氏やその支持者に投げかけるとき、僕らはまるで最強のミサイルを撃ち込むかのように、「どうだ、参ったか〜」という気持ちで発するのです(『世界』を愛読する方の多くはそうではないでしょうか)。実際、たぶん1970年代くらいまでは、例えば「思想良心の自由」という言葉は、まるで水戸黄門の印籠のように、それを発しさえすれば誰もが条件反射的にひれ伏してしまうような、強力な殺し文句でありえたのではないか。(といっても僕は1970年に生まれたので、実際のところはよく分かりませんが)。
しかし時代は変わり、橋下氏とその支持者に「思想良心の自由を守れ」とか「恐怖政治だ」などという言葉を浴びせても、彼らはびくともしません。「だからなに?」という調子で、面白いくらいに効き目がありません。コミュニケーションが成立しないのです。そして、様々な世論調査で橋下氏の支持率が過半数である以上、かなり多くの日本人が、僕らが繰り出す「黄門様の印籠」には反応しなくなっていると推定できるでしょう。
おそらく彼らにとっては、これらの言葉はすでにリアリティを失い、賞味期限が切れてしまっているのです。したがって感情を動かしたりはしないのです。彼らは、例えば君が代の問題を語る際にも、「思想良心の自由を守れ」よりも、「公務員は上司の命令に従え」というフレーズの方に、よほど心を動かすのです。僕個人としては、極めて由々しき事態であると思います。
とはいえ、彼らを責めてばかりもいられません。
考えてみれば、実は僕らにも戦後民主主義的な殺し文句に感染し、むやみに頼りすぎ、何も考えずに唱和してきた側面があるのではないでしょうか。つまり橋下氏の支持者たちと、同型の怠慢をおかしてきた可能性はないでしょうか。そして橋下氏の支持者たちは、僕らが繰り出す言葉からそのような臭いを敏感に嗅ぎ取っているからこそ、コミュニケーションを無意識に拒絶している。僕にはそんな気がしてなりません。
もちろん、民主主義的な価値そのものを捨て去る必要はありません。むしろ、ある意味形骸化してしまった民主主義的諸価値を丹念に点検し、ほころびをつくろい、栄養を与え、鍛え直していく必要があるのです。
そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業にもなるでしょう。
橋下氏や彼を支持する人々をコミュニケーションの場に引きずり出し、真に有益な言葉を交わし合うためには、おそらくそういう営みが必要不可欠なのだと思います。
(岩波書店『世界』2012年7月号)
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