参議院廃止、議員定数半減、首相公選制…。自分が日本を独裁するための制度を具体的に提案してきた人間は、たぶん橋下くんが初めてでしょう。それはあまりに突拍子もない、普通はあり得ない野望だし、本人はタレント出身だと軽く見られてるから、日本国民の大半が無防備だという皮肉。
まあ、普通は「そんなバカな。考え過ぎです」という反応なのでしょう。「橋下みたいな劇薬を使いこなせないと」っていう人も多いようです。でも劇薬飲んでるうちに死んでしまいかねないですよ。劇薬なんか使わずに、自然療法でゆっくり治していけばいいじゃないですか。僕の言うことが杞憂ならいいんですが。
でも、日本に一時帰国して約1か月。マスコミの論調を眺めていると、橋下政権を誕生させようというのが規定路線のように見えます。ファシズム政権が誕生する過程というのは、こういうもんなんだなあと、絵巻物のごとく眺めている自分がいます。
橋下の強みは、たぶんみんなから低能に見られていることにあるんですね。タレント出身の政治家に何ができるっていう蔑視が、有権者の中にも、プロの政治家の間にも、どこかある。だから彼が権力を握ることを警戒しない。むしろ橋下を利用してやろうというスケベ心を出す。これが最大の落とし穴です。
橋下は僕より1つ上。1969年生まれ。同世代です。だからよく分かるんですよ、彼のああいう、政治思想の真空状態で育った感じは。政治の歴史の積み重ねなんて興味ゼロ。もともと恐ろしいくらいノンポリ=荒々しい主流の価値観を無自覚に吸収した人間だと思います。同世代が生んだモンスターですね。
で、僕らの世代くらいはノンポリが非常に多いんです。先の戦争は実感として遠い昔の話だし、生まれたときには学生運動も終わってる。安定的経済成長の中、主流の価値観から脱落せずにせっせと立身出世すれば明るい未来が待っているものだと誤解して育った世代です。橋下くんはその典型に思えます。
ノンポリ=政治的でない、と誤解されがちですけど、ノンポリであることは主流の価値観を肯定してるわけですから、極めて政治的なんです。ただそれに無自覚なんですね。原発が乱立しようが公害で海や川が汚れようが、自分は困らないので全然オーケー。それがノンポリであり橋下です。
でも、大人として成熟していく過程で、いろんな体験をしたり人に出会ったりして価値観にも修正を加え自らの政治性にも自覚的になっていく人もいるんです。僕もそうでしたし、今でも現在進行形です。でも、橋下クンにはそういう形跡がみられない。ノンポリのまま政治家になっちゃたんですね。
橋下が無節操に、自分に得があるならどことでも組もうとするのは、ノンポリだからでしょう。そしてノンポリであることが既成の政治にノーを突き付けることだと、本人も有権者も誤解している。でもそれは子供に政権とらせてみようっていうのと同義です。
自らの政治性に無自覚という意味での橋下的ノンポリの困った点は、自分の価値観や政治性を相対化できていない点です。社会の主流の政治的立場を無批判に吸収して育っただけなので、それになじまない人間が世の中にいることが理解できません。だからこそ独善的で不寛容で非論理的になります。
橋下がノンポリなら、なぜ君が代や日の丸を強制するんだという疑問があるかもしれません。でも、彼が右翼思想に基づいて強制しているとは思えません。あれはたぶん「えー、国歌は斉唱するもんでしょ」というノンポリ的な常識論で「なんとなく強制」しているのです。しかも踏み絵としては丁度いいので。
ノンポリ的な常識論の厄介さは、自分が政治的な立場を他人に強制しているという自覚すらない点です。「だって当たり前でしょ」「逆になんで歌わないの?」で済ませてしまうので、議論にもなりません。自らの政治性に無自覚なので、他者に守るべき政治的・思想的立場があることすら想像できません。
橋下くんが「君が代問題は思想良心の自由の問題ではない」と言うのは、たぶん本心なんだと思います。彼にとってはどうでもいい問題なんで、不起立にこだわる気持ちも分からないんだと思います。でも同時に「上司の命令なのに立たないのはおかしい」っていう常識論は振りかざす。ノンポリだから。
(ツイートをまとめました)
僭越ながら、第三者の在日外国人として指摘させて頂きます。
ReplyDeleteあなたの言いたい事はよく分かるし、
橋下徹という男にそういう危うさがあるのはその通りだと思いますが、
結論ありきで文章を書いてはいませんか、
論考の末の結論でしたか、
そうなのであれば、そこに至った経緯も記述頂けると、
よりこの言説に具体性が出るのではないかと思われます。
ノンポリのモンスターがファシズム(全体主義)と直結する過程もご提示頂ければ、なおの事幸いに存じます。
正義は存在しません。
ReplyDelete自然法は存在しません。
真なる価値・規範、当為命題は存在しないのです。
これは論理的真理、真なる事実命題です。
橋下市長も想田さんも正義ではありません。
ただ、差異は明確に認められます。
アイロニーの有無です。
自己への懐疑、自己相対性の認識です。
橋下市長にはそれがあります。
想田さんにはありません。
想田さんは自らの絶対的正義を信じ、自らを疑う営為を放棄しています。
これは知性の問題です。
つまり、想田さんは橋下市長より、知的に劣等です。
賛成。
Deleteデュカスさんとやらも、ご自分を疑ってみることをお勧めします。でないとあなたは、僕よりも知的に劣等ですよ。
ReplyDelete反応して下さって嬉しいです。
ReplyDelete自己を疑う、自己の相対性を認識するということは、
もちろん、自己の価値観を疑う、自己の価値観の相対性を認識する、ということです。
価値命題は、真あるいは偽の値を取り得ない、
正義は存在し得ない、という"事実"を知るということ。
「語り得ぬものについては〜」というアレや、
「ヒュームの法則」、「自然主義的誤謬」というやつです。
もちろん、それだけで問題が解消するわけではありません。
なぜその"事実"にフォーカスするのか、
という志向性、認知バイアスの問題が、メタレベルに存在しているわけですから。
「観察の理論負荷性」やら、「(ポパーの)サーチライト論」、あるいは「"歴史=物語"論」などですね。
問題は尽きません……。
で。
結論を言ってしまうと、価値闘争は不可避です。
決断、価値判断、偏向という、暴力の行使は不可避であるということです。
不正義を実践せざるを得ないのが現実です。
人間的な、あまりに人間的な宿命です。
つまり、アイロニーの問題、抒情の機微の問題です。
橋下市長も想田さんも不正義を実践する。
橋下市長は「aは美しい」と訴え、想田さんは「aは醜い」と叫ぶ。
"真偽不明"という真理値を持つ命題であることにおいて、
論理的に、そして倫理的に等価です。
しかし、繰り返しますが、アイロニーの有無、抒情の機微の問題です。
要するに五十歩と百歩の差異を読み取るという営みです。
両者ともに、決断し暴力を振るう。敵を殺す。
重要なのは、殺し方。殺害の方法。
熱狂の只中、歓喜の渦中で敵の首を切り落とすのが想田さん。
間違っているかもしれない、いや間違っている、けれど仕方がない、と、
暗い処刑室で、絞首装置の稼働ボタンを押すのが橋下市長です。
これがアイロニーの有無の差異、絶対的正義を確信する者としない者の差異です。
自分は"正常な"人間で、敵は"異常な"怪物であると、
ReplyDelete躊躇うことなく垂れ流す、それが想田さんです。
堂々巡りですのでこれでおしまいにしますが、デゥカスさんとやら、ですから、そういうあなたは、自分は"正常な"人間で、想田は"異常な"怪物である、と仰っているように聞こえますけどね。それから、権力を握っているのは橋下くんだということをお忘れでしょう。僕には「熱狂の只中、歓喜の渦中で敵の首を切り落とす」なんていう権力はありません。橋下くんにはそれがありますし、現に大阪市で実行してますけどね。
ReplyDelete「倫理的には等価」だと言っているんですが。
ReplyDeleteそれは誰であっても同じです。
想田さんが正義なら、私も正義です。
私が邪悪なら、想田さんも邪悪です。
偏見でない価値観は存在しません。不可能です。
そして、民主主義の土俵で、現状、劣勢あるいは優勢にあることとは関係がありません。
今日の正義は明日の邪悪、今日の邪悪は明日の正義。
あらゆる価値は絶対的に相対的なのです。
想田さんが価値闘争、権力闘争を勝ち抜き(想田さんはそれを望んでいます)、
ヘゲモニーを手にした時、そのアイロニーの欠如が起因となって、
躊躇のない、悦楽的な斬首が繰り返されることになるのです。
権力を手にしたらアイロニーが備わるのですか?
自らの相対性を認識するのですか?
想田さんが多数派を形成することに成功したら、
なにをどの様に抑圧し排除するのか。
卒業式で、国旗としての日の丸を仰ぎ、
国歌としての君が代を斉唱したいと願う人々から、
その機会を奪ったりしないのでしょうか。
まずは想像して下さい。
イジドール・デュカスさんの展開は一般的・抽象的・かつ無内容です。お互いの見解が相対的なものにすぎないということをまさに「形式論理的に」強調しているのみです。
ReplyDeleteSODAさんが最初に提起された橋下氏のありように対する一つの見解、分析的内容にまったく具体的にコミットしていません。
「みんな相対的」を振りまくだけなら虚しいシニカルにしかすぎず、もって問題への具体的アプローチを妨げるものにすぎません。
SODAさんと違う見解をお持ちなら、彼が提起した問題に関して具体的に論じるべきです。
>Anonymous12:25 AMさん
ReplyDeleteできれば、私のコメントを読み直して欲しいです。
要点は"アイロニーの有無"ですよ。
橋下市長にはアイロニーがある。
絶対的正義を信じていない。
橋下市長はあくまで、法の支配に殉ずる。
無論、法は徹底的に相対的であり、可変的です。
橋下市長は、(立)法(者)(=つまり自己、と支持者)の可謬性を認識している。
想田さんにはアイロニーがない。
絶対的正義がどこかにあると信じている。
それはつまり、自然法(=神!)が存在すると信じているということ。
狂信的でない信念は存在しません。
私は、この差異がもたらす帰結を述べたのです。
想田さんの錯誤、倒錯に対する具体的アプローチです。
「嘘よりも恐ろしい信念がある」。
確かニーチェの言葉であったような気がします。
イジドール・デュカスさん
ReplyDeleteあなたの論理によるならば、ホロコーストを断行したナチスドイツを倫理的に非難することすらできなくなりますが、そのことは自覚されていますか?
あなたのおっしゃる「アイロニーの有無、抒情の機微の問題」の観点からすれば、ヒトラーもまた、「(立)法(者)(=つまり自己、と支持者)の可謬性を認識してい」るアイロニカルな人物です。事実、ナチスは実に民主主義的な手続きに則って合法的に政権を獲得しました。
「間違っているかもしれない、いや間違っている、けれど仕方がない、と、暗い処刑室で、絞首装置の稼働ボタンを押すのがヒトラーです。」
この一文に共感を寄せる人が果たしてどれくらいいるでしょうか。
あなたの議論は極めて空疎です。
岩波書店から出ているウンベルト エーコ著の「永遠のファシズム」を読むとむしろ 橋本徹とは分かりやすい ナチスドイツーよりイタリア ムッソリーニに近いかもしれません。このブログの方が本の特徴をまとめています。ほとんどの特徴が橋本政権下に見られ恐怖です。ファシズムにはいかなる精髄もなく、単独の本質さえない。ファシズムは<ファジー>な全体主義であった。ファシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体であった。絶対的統制と自由市場。これらが共存可能な全体主義運動、それがファシズムであった。等、、、ハシズムとか揶揄されていますが私たちは実際 ファシズムの中でいきることを肝に銘じておかなければならないと思う。
ReplyDeleteすみません 橋本→橋下です 全国の橋本さんにお詫びもうしあげます。
ReplyDelete>Anonymous5:33 AM
ReplyDeleteやや間が空きましたが。
私の論理ではなく、単なる事実であり、永遠の真理です。
1+1=2であるのと同じことです。
自然法は存在しないのです。
「ヒュームの法則」、「自然主義的誤謬」などを知って下さい。
そして。
私のコメントを繰り返し読み、咀嚼して下さい。
私は価値闘争を否定していません。
殺し合いは不可避なのです。
殺し合わなければなりません。
模試ヒトラー(的なるもの)を殺すのなら、殺したいのなら、
どうかアイロニカルに殺して下さい。
あなたがどうか、熱狂、狂信を回避できますように。
とても魅力的な記事でした!!
ReplyDeleteまた遊びに来ます!!
ありがとうございます。。