久々にベジタリアンの話題です。
朝日新聞電子版に、「育てたニワトリ食べた 畜産実習の経験が道徳の教材に」という題名の記事が載っていた。「命を大切に」という話なんだろうけど、心を通わせたニワトリを泣きながら殺し、無理して食べておきながら、命の大切さも糞もないだろうと思う。
この女学生は、本当は食べたくなかったに違いない。実際のところ、女学生は食べる必要などなかったし、ニワトリには死なねばならない理由もなかった。人間とニワトリの間に培われた信頼の絆も破壊される筋合いなどなかった。
しかし、食べるために実習として育てたのだから食べなくてはならない。だから食べた。要するに、自らの倫理観を持てず、社会の道徳、世間の事情に負けたといえる。とても褒められた話ではない。いってみれば悲劇である。
この手の道徳話に決定的に欠けているのは、ニワトリを食べないという選択、チョイスである。その可能性が視野にあれば、女学生はこんな辛い思いをしなくて済んだのではないか。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200902240051.html
カトちゃんです。
ReplyDelete>この手の道徳話に決定的に欠けているのは、ニワトリを食べないという選択、チョイスである。
つまり、逆に考えてみれば、「命を奪わない」という原則を大前提に後のシナリオを構築するやり方もある、それをこの実験は選択の外に置いてしまっているということですよね。
でも、このようなシナリオでの実験の行き着く先としては、物語としての悲劇を想定して、不可避的な流れを構築しているような気がしてなりません。
それが良いことなのか否かは全く別の問題として。
カトちゃんです。
ReplyDelete>この手の道徳話に決定的に欠けているのは、ニワトリを食べないという選択、チョイスである。その可能性が視野にあれば、女学生はこんな辛い思いをしなくて済んだのではないか。
仰るとおり、もともとこういった構造の説話には、「食べない」という選択は注意深く排除されているように思います。そうでもしないと、「ドラマとしての」(分かりやすい)作品は成り立ちにくいでしょうし、そこに決着をもっていかなければ、一般的な「分かりやすい」結論も導けないかもしれませんから。
しかし、そうした作劇上の妥当性とは全く別なところで本質の議論はなされるべきだとはもちろん思います。
カトちゃんです。
ReplyDelete>この手の道徳話に決定的に欠けているのは、ニワトリを食べないという選択、チョイスである。その可能性が視野にあれば、女学生はこんな辛い思いをしなくて済んだのではないか。
仰るとおり、もともとこういった構造の説話には、「食べない」という選択は注意深く排除されているように思います。そうでもしないと、「ドラマとしての」(分かりやすい)作品は成り立ちにくいでしょうから。
しかし、実際問題としては、そうした作劇上の妥当性とは全く別なところで本質の議論はなされるべきだとはもちろん思います。
カトちゃんさん
ReplyDeleteコメントありがとうございます。
これはたぶん実話なので、作劇とはちょっと事情が異なるとは思うんですが、たとえ作劇だとしても、食べないという選択肢も充分エンディングとしてあり得ると思います。
食べないというのを選択肢に入れなかったというのはどしても悲劇にしたい事情があるからでしょうか。学校側が一体どういう思惑でそういう実習をしたのか、またそれが畜産経験以上にどういうメッセージを送る事になるのかという事を考えてないであろう無感覚さが私は子供の教科書として適切なのかと疑問になります。
ReplyDelete本人も学校をやめようかと思った、とありますが、それは彼女の中では選択肢ではなく、無を意味したのでしょうか。
選択肢の代償がそのすべてから降りるということになればやはり選択肢とは呼べないですよね。
フランダースの犬のエンディングで犬はどうしても死ななければならなかったという筋書きと同じのような気がす。
Equifinalityさん
ReplyDelete自らの感じ方や生き方がベースにある主体的な「倫理」と、社会のルールや価値観である「道徳」とは、本質的に異なるものだと思うのですが、現在の教育は個々の倫理を育てるのではなく、社会の道徳を個人に押しつけ洗脳するプロセスになってしまっているのが問題です。そのことを象徴するケースだと思いますね。