NHKが組織として堀潤アナの排除に向かったことは、番組キャンセルなどの事実から動かしようがない。そしてその背景に原発問題と氏の発言や行動があることは、一連の経緯からしてたぶん間違いないだろう。堀アナの存在はNHKの評価を上げていたと思うが、これで一気に下がると思う。
堀さんがNHKの報道姿勢を批判したり原発問題の映画を作ったりしても、それをNHKの公式見解だと思う人はいない。仮に堀さんが原発に批判的な姿勢で番組を作ったとしても、その姿勢がおかしいと思う局内の作り手は異なる番組を作ればよい。要は堀アナはNHKを揺るがす存在ではなかったはずだ。いや、揺るがすどころか組織の活性化に貢献していたと思う。
そういう堀さんを「NHKを揺るがす存在」として誤って認定し免疫機能を発揮してしまうところに、NHKの本当の病態があるように思う。免疫機能で排除すべきは堀さんではなく、彼を排除しようとした細胞であるはずだ。あべこべだ。
しかしこの病態は今に始まったことではない。僕のささやかな番組制作経験では、局側との試写では僕が面白いと思う場面ほど物言いがつき、削られそうになることが多かった。面白いってことは物議を醸しかねないってことだ。しかしそれが最も嫌われた。面白いことより、平穏であることが好まれた。
今回の堀さん排除の動きは、組織として「平穏であること」を望んだ結果なのだと思う。皮肉なのは、実はその排除の行為は全く平穏ではなく、公共放送としてのNHKにとって大きなリスクを孕んでいるということだ。そしてたぶん排除した側は、そのリスクの大きさに気がついていないということだ。
なぜそんな倒錯が起きるのか。NHKの組織を構成する人々が、「公共」の意味をはき違えていることに根本の原因があるように思う。
NHKの公共性は、政府や党や業界から独立し自由な報道を行うことによって担保される。つまり堀アナのような人が活躍できることが、NHKの公共性そのものである。ところがNHK上層部は「公共=政府見解に寄り添うこと」だと勘違いしているようだ。でないと、堀さんを排除したりはしないはずだ。
普通に考えれば分かる筈なのだが、本来「公共性」の重要な要素は、包容力であるはずだ。なぜなら、世の中にはいろんな考えの、いろんな事情を持った、いろんな人がいる。そのすべてを包摂するのが「公共」だからである。つまり異分子を排除するような動きは、まったくもって、反・公共なのである。
街の広場は公共の場である。誰でも入れるのが基本だ。それが「公共」の概念だからだ。ところが広場の入り口で入れる者と入れない者を選別し始めたらどうか。当然、広場の公共性は薄まる。
NHKは受信料で運営される公共放送である。だから本来、誰でも入れる広場を目指すべきなのである。
(ツイートをまとめました)
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