直接投票に反対する脱原発派の人とここ数日議論して気になったのは、どこかに消費者的な発想を感じること。特に「白紙委任だ」といった批判。事務局をサービス提供者に見立てて、消費者としてクレームをつけているように感じる。しかし事務局はサービス提供者ではない。みんなの「場」である。
しかも不合理なのは、自分は商品を買ってない(署名してない)くせに「不良品だ」とクレームしているような感がある。でも、そもそもこの運動は消費モデルでとらえてはならない。市民は消費者ではなく、運動の主体なのだから。
誰でも議論に参加自由なのだから、不備があればみんなで智慧を絞ればいい。そういう「場」として人々がイメージできるかどうかが、この運動の成否の分岐点なのかもしれない。内田樹氏は、教育現場の崩壊の元凶はそこに消費モデルを持ち込んだことだと喝破したが、非常に似たものを感じる。
消費者的発想が市民運動にまで及んでいることに、消費資本主義の浸透ぶりを見せつけられたようで、愕然とする。忘れてならないのは、消費者は常に受動的であり、主体には決してなれないことだ。今の政治の停滞ぶりも、有権者が自らを消費者としてイメージしていることに起因するのではないか?
そう考えると、この運動の困難さが理解できる。人々の自己像が「政治サービスの消費者(大衆)」から「政治の主体(市民)」に転換しない限り、成功はおぼつかない。逆に言うと、この運動が盛り上がれば人々に市民としての覚醒をうながす。それだけでも大変な意義があると思う。
究極的には、直接投票運動は消費資本主義との闘いを意味するのだとの考えに至って、これは一筋縄ではいかんなと覚悟した。消費資本主義は、今や日本のみならず、世界を席巻する最強の宗教だからである。
(この文章はツイートをまとめたものです)
追記)そうか、原発そのものが消費資本主義的発想に支えられているのだな。金をバラまいて取得する原発用地にしろ、被曝を伴う原発での労働にしろ、その犠牲で作られた電力にしろ、金さえだせば何でも買えるし消費できるという発想。そこを根本的に組み替えないと原発はなくならないのだな。
悲しいかな、その消費資本主義的発想は、買う方だけでなく買われる方(原発立地地域や原発労働者)にも浸透してしまっている。お金をもらうんだから文句は言えない、という。だからこそ、今ある構図が成り立ってしまう。人間を消費者とサービス提供者としてのみとらえる人間観は悲しい。
世の中の仕組みがほとんど資本主義に取り込まれてしまったせいで、中途半端に賢い人は相手のことを信じなくなりましたね。タダほど高いものはない、物事には必ず裏があるみたいな懐疑心が染み付いてしまったようです。
ReplyDeleteしかし少なくとも大阪市民や東京都民の2%以上は人を信じ、明日を信じ、署名という行動をしたという確かな希望が生まれました。
想田監督が連日ネットでツイートを繰り返していらっしゃるのをいつも敬意をもって見ていました。本当にありがとうございます。
これからが本当の闘いですね。
どうかこれからも現代社会の歪みを鋭く暴き出してください。
ありがとうございます。
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