7月から、平田オリザ氏と青年団の撮影が続いている。
比較的順調に進んでいるのであるが、にもかかわらず、つくづく撮影とは難しいものだと、思い知らされる毎日である。
僕の観察映画の方法は、構成表と呼ばれる台本を書かずに、行き当たりばったりで撮影することにその基本がある。だからといって、次に起きるであろうことを全く予想せずにカメラを回すことは不可能である。
例えば今回の撮影なら、何時からどこどこでXXの稽古がある、というくらいの情報がなければ、僕はその場に居合わすことすらできない。だから、最低限の予測は必要である。かといって、あまり事前に予測しすぎると、目の前で起きている予想外の面白さに気づくのが遅れ、撮り損なってしまう。例えば、これから稽古を撮るんだと身構えていると、稽古以外の興味深い事件が目の前で起きても、一瞬反応が遅れる。それで事件の始まり部分を撮り逃がし、あとで地団駄を踏む憂き目にあう。
これがナレーションのある普通のドキュメンタリーなら、たとえ事件の発端を撮れなかったとしても、言葉でいくらでも説明できるので問題ない。しかし観察映画ではナレーションを使わないのが大前提なので、最初を逃したら途中から撮ってもシーンの文脈が分かりづらくなり、結局使えないのが常である。
予測しないのも駄目。予測しすぎても駄目。それは、野球のバッティングにも似ている。ヒットを打つために、次の球種やコースを読むのは大事だけれど、山をかけすぎると予想外の球に空振りさせられる。そして天を仰ぐことになる。取り返しのつかない過ちを激しく後悔しながら。だから、凡打が続いた後にクリーンヒットが出たときには、計り知れない快感を覚える。
ちなみに、野球と違って映画には編集作業という強力な武器があるので、僕はヒットばかりをつなぎ合わせて作品に仕立て上げる。あたかも凡打など打たなかったかのような顔をして。それが映画のマジックである。
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