SEALDsだけでなく、ママのデモが出てきたりして、市民の運動がいい感じに盛り上がってきましたね。横のつながりだけでここまで広がっていることは、まさにデモクラシーの実践という感じで、非常に素晴らしいと思います。
その一方で、これだけ運動が広がってくると、いろんな考えのいろんな人が参加することになるわけですから、中には「それはちょっとどうなの?」と違和感を感じる発言や行動をする人も出てくると思います。大事なのは、そうした違和感を押し殺さないこと。同時に、その違和感をどう伝えたら運動にとってプラスになるか?という視点を持ちながら表明することだと思います。
忘れてならないのは、こうした運動には組織のバックボーンがないので、いろんなほころびが出るのは自然だということです。というより、どんな集団にも100%はありえません。10%の不備を理由に、残りの90%を否定してしまわないように気をつけたいと思います。10%の不備があるなら、その不備を少しでも改善していくようなことが大事だと思います。個人的には、こうした運動は70点くらいが合格点だと思っています。
その上で、どうしても運動の「不備の部分」が自分にとっては決定的に受け入れがたい、と感じる人が出てくるのも自然なことだし、健全だと思います。そうした方は、昨日の投稿で申し上げたように、そうした違和感を大事にして、違和感を共有する方々と独自の運動を立ち上げるのもよいと思います。
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Monday, July 27, 2015
Tuesday, July 21, 2015
新作『牡蠣工場』がロカルノ映画祭へ! Our latest movie "Oyster Factory" in Locarno!
新作「牡蠣工場」(かきこうば、観察映画第6弾、2015年、145分)がロカルノ国際映画祭へ正式招待されることになりました〜!映画の公式サイト(英文)作りました。出来たばかりの予告編、ぜひご覧くださいませ。
Our latest documentary "Oyster Factory" (Kaki Kouba, observational film #6, 2015, 145 minutes) is now officially invited to Locarno International Film Festival! We just have made the official website of the film (in English). Enjoy the brand new trailer!
http://www.oysterfactory.net/
Our latest documentary "Oyster Factory" (Kaki Kouba, observational film #6, 2015, 145 minutes) is now officially invited to Locarno International Film Festival! We just have made the official website of the film (in English). Enjoy the brand new trailer!
http://www.oysterfactory.net/
『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』発売間近!
拙著『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』(集英社インターナショナル)の見本が届いた (^_^)。発売は7月24日から。映画美学校で行った連続講座「観察映画の作り方」の書籍化。受講者の皆さんとのインタラクティブ方式ですので、かなり楽しくドキュメンタリーやメディアのことが学べると思います〜。
http://www.shueisha-int.co.jp/archives/3463
http://www.shueisha-int.co.jp/archives/3463
Sunday, July 19, 2015
紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉
拙著『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)で、僕は橋下徹氏を論じる文章を、このように締めくくりました。少し長いけれど引用します。
「僕はこの数カ月、橋下氏を支持する人々と議論しながら、ある種の虚しさを感じ続けてきました。それは馬の耳に念仏を唱えているような、そういう空虚さです。自分の言葉が、驚くほどまったく相手に響かないのです。
しかし橋下氏の言葉の感染力とその原因について考察してみると、僕を含めた批判勢力が繰り出す言葉が、氏の支持者に対して「のれんに腕押し」状態であることにも、理由があるのだなという気がしています。
というのも、僕らが繰り出す言葉も、実はだいたい語彙が決まっているのです。「民主主義への挑戦」「独裁」「ヒトラー」「マッカーシー」「戦前への回帰」「憲法違反」「思想良心の自由」「人権を守れ」「恐怖政治」「強権政治」などなど……。
こうした言葉は、それらを好んで発する人間にとっては、強い感情を喚起しうる強力な言葉です。これらの言葉を橋下氏やその支持者に投げかけるとき、僕らはまるで最強のミサイルを撃ち込むかのように、「どうだ、参ったか?」という気持ちで発するのです(『世界』を愛読する方の多くはそうではないでしょうか)。実際、たぶん一九七〇年代くらいまでは、例えば「思想良心の自由」という言葉は、まるで水戸黄門の印籠のように、それを発しさえすれば誰もが条件反射的にひれ伏してしまうような、強力な殺し文句でありえたのではないか(といっても僕は一九七〇年に生まれたので、実際のところはよく分かりませんが)。
しかし時代は変わり、橋下氏とその支持者に「思想良心の自由を守れ」とか「恐怖政治だ」などという言葉を浴びせても、彼らはびくともしません。「だから何?」という調子で、面白いくらいに効き目がありません。コミュニケーションが成立しないのです。そして、様々な世論調査で橋下氏の支持率が過半数である以上、かなり多くの日本人が、僕らが繰り出す「黄門様の印籠」には反応しなくなっていると推定できるでしょう。
おそらく彼らにとっては、これらの言葉はすでにリアリティを失い、賞味期限が切れてしまっているのです。したがって感情を動かしたりはしないのです。彼らは、例えば君が代の問題を語る際にも、「思想良心の自由を守れ」よりも、「公務員は上司の命令に従え」というフレーズの方に、よほど心を動かすのです。僕個人としては、極めて由々しき事態であると思います。 とはいえ、彼らを責めてばかりもいられません。
考えてみれば、実は僕らにも戦後民主主義的な殺し文句に感染し、むやみに頼りすぎ、何も考えずに唱和してきた側面があるのではないでしょうか。つまり橋下氏の支持者たちと、同型の怠慢をおかしてきた可能性はないでしょうか。そして橋下氏の支持者たちは、僕らが繰り出す言葉からそのような臭いを敏感に嗅ぎ取っているからこそ、コミュニケーションを無意識に拒絶している。僕にはそんな気がしてなりません。
もちろん、民主主義的な価値そのものを捨て去る必要はありません。むしろ、ある意味形骸化してしまった民主主義的諸価値を丹念に点検し、ほころびをつくろい、栄養を与え、鍛え直していく必要があるのです。
そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業にもなるでしょう。
橋下氏や彼を支持する人々をコミュニケーションの場に引きずり出し、真に有益な言葉を交わし合うためには、おそらくそういう営みが必要不可欠なのだと思います。」
ここで論じたのは橋下氏についてですが、それを安倍首相に置き換えても全く同じことが言えると思います。
そういう観点からすると、いまの学生主体の運動には目を見張るものがあります。たとえば下に紹介するSEALDsKANSAIのともかさんのスピーチなどは、まさに「紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉」のように思いました。それを自然体でさらりとやってのけている。とても素晴らしいと思います。
【スピーチ全文掲載】SEALDsKANSAIともかさん
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905
「僕はこの数カ月、橋下氏を支持する人々と議論しながら、ある種の虚しさを感じ続けてきました。それは馬の耳に念仏を唱えているような、そういう空虚さです。自分の言葉が、驚くほどまったく相手に響かないのです。
しかし橋下氏の言葉の感染力とその原因について考察してみると、僕を含めた批判勢力が繰り出す言葉が、氏の支持者に対して「のれんに腕押し」状態であることにも、理由があるのだなという気がしています。
というのも、僕らが繰り出す言葉も、実はだいたい語彙が決まっているのです。「民主主義への挑戦」「独裁」「ヒトラー」「マッカーシー」「戦前への回帰」「憲法違反」「思想良心の自由」「人権を守れ」「恐怖政治」「強権政治」などなど……。
こうした言葉は、それらを好んで発する人間にとっては、強い感情を喚起しうる強力な言葉です。これらの言葉を橋下氏やその支持者に投げかけるとき、僕らはまるで最強のミサイルを撃ち込むかのように、「どうだ、参ったか?」という気持ちで発するのです(『世界』を愛読する方の多くはそうではないでしょうか)。実際、たぶん一九七〇年代くらいまでは、例えば「思想良心の自由」という言葉は、まるで水戸黄門の印籠のように、それを発しさえすれば誰もが条件反射的にひれ伏してしまうような、強力な殺し文句でありえたのではないか(といっても僕は一九七〇年に生まれたので、実際のところはよく分かりませんが)。
しかし時代は変わり、橋下氏とその支持者に「思想良心の自由を守れ」とか「恐怖政治だ」などという言葉を浴びせても、彼らはびくともしません。「だから何?」という調子で、面白いくらいに効き目がありません。コミュニケーションが成立しないのです。そして、様々な世論調査で橋下氏の支持率が過半数である以上、かなり多くの日本人が、僕らが繰り出す「黄門様の印籠」には反応しなくなっていると推定できるでしょう。
おそらく彼らにとっては、これらの言葉はすでにリアリティを失い、賞味期限が切れてしまっているのです。したがって感情を動かしたりはしないのです。彼らは、例えば君が代の問題を語る際にも、「思想良心の自由を守れ」よりも、「公務員は上司の命令に従え」というフレーズの方に、よほど心を動かすのです。僕個人としては、極めて由々しき事態であると思います。 とはいえ、彼らを責めてばかりもいられません。
考えてみれば、実は僕らにも戦後民主主義的な殺し文句に感染し、むやみに頼りすぎ、何も考えずに唱和してきた側面があるのではないでしょうか。つまり橋下氏の支持者たちと、同型の怠慢をおかしてきた可能性はないでしょうか。そして橋下氏の支持者たちは、僕らが繰り出す言葉からそのような臭いを敏感に嗅ぎ取っているからこそ、コミュニケーションを無意識に拒絶している。僕にはそんな気がしてなりません。
もちろん、民主主義的な価値そのものを捨て去る必要はありません。むしろ、ある意味形骸化してしまった民主主義的諸価値を丹念に点検し、ほころびをつくろい、栄養を与え、鍛え直していく必要があるのです。
そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業にもなるでしょう。
橋下氏や彼を支持する人々をコミュニケーションの場に引きずり出し、真に有益な言葉を交わし合うためには、おそらくそういう営みが必要不可欠なのだと思います。」
ここで論じたのは橋下氏についてですが、それを安倍首相に置き換えても全く同じことが言えると思います。
そういう観点からすると、いまの学生主体の運動には目を見張るものがあります。たとえば下に紹介するSEALDsKANSAIのともかさんのスピーチなどは、まさに「紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉」のように思いました。それを自然体でさらりとやってのけている。とても素晴らしいと思います。
【スピーチ全文掲載】SEALDsKANSAIともかさん
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905
Friday, July 17, 2015
映画『永遠の0』のプロパガンダの仕掛け
映画『永遠の0』が地上波でノーカットで放送されるとのこと。拙著『熱狂なきファシズム』で論じたことだが、この作品は戦争で死ぬことを嫌がる宮部を主人公に据えることで一見反戦映画に見せかけているが、彼を最後に特攻させることで結局はその死を美化する。巧妙なプロパガンダである。
『永遠の0』が巧妙なのは、軍国青年を主人公にするのではなく、死ぬのを嫌がる宮部を主人公にしたことだ。現代の観客は軍国青年には感情移入できないが、宮部にならできる。宮部にどっぷり感情移入させた上で、特攻させる。だからその死に思わず号泣してしまう。誰が彼を殺したのかは不問に付される。
宮部に感情移入させられた観客は、彼の死を「国や家族のための自己犠牲」と感じて思わず感動してしまう。だが特攻隊員たちは、無能な戦争指導者たちによって無理やり殺されたのであり、英雄というよりも犠牲者。『永遠の0』は、宮部を英雄として描くことで、あの戦争の本当の構図を隠蔽する。
宮部がラストで米国の戦艦に突っ込む際に、米兵に「なんだ、この凄腕のパイロットは!」的なことを言わせて宮部の操縦技術に対し感嘆させるのには思わず失笑した。原作ではこの辺りが特に強調されている。米兵に褒めさせることで日本人のプライドをくすぐるという、劣等感丸出しの卑屈なヒロイズム。
あと『永遠の0』が巧妙なのは、「だらけきった戦後民主主義の日本人」のメタファーである健太郎や慶子が、「誤解され忘れ去られた戦中・戦前の日本人」のメタファーである宮部の「本当の姿」を発見し驚嘆し、生き方を変えるという物語構造を採用したことだ。これで現代人は更に感情移入しやすくなる。
ちなみに、健太郎の友人たちが「特攻なんて自爆テロだろ」と発言した際、祖父である宮部の「本当の姿」を知り始めていた健太郎が猛烈に反発する場面があるのだが、百田尚樹の原作では友人たちではなく朝日新聞の記者がヒール役を務めている。映画には朝日新聞が協賛しているので書き換えたのだろう。実に姑息である。
この作品についてはいろいろ言いたいことがあるのだが、詳しくは拙著『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)の「あとがきのような『永遠の0』論」をお読みください。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309246703/
『永遠の0』が巧妙なのは、軍国青年を主人公にするのではなく、死ぬのを嫌がる宮部を主人公にしたことだ。現代の観客は軍国青年には感情移入できないが、宮部にならできる。宮部にどっぷり感情移入させた上で、特攻させる。だからその死に思わず号泣してしまう。誰が彼を殺したのかは不問に付される。
宮部に感情移入させられた観客は、彼の死を「国や家族のための自己犠牲」と感じて思わず感動してしまう。だが特攻隊員たちは、無能な戦争指導者たちによって無理やり殺されたのであり、英雄というよりも犠牲者。『永遠の0』は、宮部を英雄として描くことで、あの戦争の本当の構図を隠蔽する。
宮部がラストで米国の戦艦に突っ込む際に、米兵に「なんだ、この凄腕のパイロットは!」的なことを言わせて宮部の操縦技術に対し感嘆させるのには思わず失笑した。原作ではこの辺りが特に強調されている。米兵に褒めさせることで日本人のプライドをくすぐるという、劣等感丸出しの卑屈なヒロイズム。
あと『永遠の0』が巧妙なのは、「だらけきった戦後民主主義の日本人」のメタファーである健太郎や慶子が、「誤解され忘れ去られた戦中・戦前の日本人」のメタファーである宮部の「本当の姿」を発見し驚嘆し、生き方を変えるという物語構造を採用したことだ。これで現代人は更に感情移入しやすくなる。
ちなみに、健太郎の友人たちが「特攻なんて自爆テロだろ」と発言した際、祖父である宮部の「本当の姿」を知り始めていた健太郎が猛烈に反発する場面があるのだが、百田尚樹の原作では友人たちではなく朝日新聞の記者がヒール役を務めている。映画には朝日新聞が協賛しているので書き換えたのだろう。実に姑息である。
この作品についてはいろいろ言いたいことがあるのだが、詳しくは拙著『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)の「あとがきのような『永遠の0』論」をお読みください。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309246703/
Wednesday, June 03, 2015
『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く 治水技術7年の記録』
以前、メルマガに書いた記事です。多くの方に読んでいただきたいので、ブログに転載します。
ーーー
日本電波ニュース社が製作した『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く 治水技術7年の記録』(谷津賢二監督、2012年、73分)というドキュメンタリーDVDを観ました。アフガニスタンで30年間、経済的に貧しい人たちの診療を続けてきたペシャワール会・中村哲医師らの活動を記録した作品です。
http://www.ndn-news.co.jp/shop/pickup/Kanbatsunodaichi.html
『医者、井戸を掘る』(中村哲著、石風社)などを拝読し、中村医師らの活動には以前から畏敬の念を抱いていたのですが、このDVDで映し出された活動も、ホント、「す・ご・い」の一言です。中村医師は、戦乱をよそに黙々と木を植え続ける『木を植えた男』(ジャン・ジオノ著)を地でいく方だと思いました。いや、『木を植えた男』はフィクションですけど、中村氏はいまも活動中の実在の人物。カミさんいわく、平田オリザ氏に物腰やお顔がそっくりだというんですけどね(笑)。
中村氏は長年アフガニスタンで無料診療を続けながら、ひとつの重大な事実に気づきます。診療所を訪れる人々が直面している根本的な問題は、干ばつによる飢餓と貧困だということです。干ばつのせいで農業が続けられず、村を放棄し、難民化する人々が多いのです。人々は医療うんぬん以前の問題で苦しんでいるわけです。
そこで中村医師は、白衣を脱ぎ、なんと用水路の建設に着手することを決意します。クナール河から水を引いて全長25.5キロにも及ぶ用水路を築き、帰農を促すのです。実現すれば3500ヘクタールの農地が回復し、15万以上人が農業に復帰できるという遠大な計画です。
ところが、中村医師は土木技術については素人です。使えるお金もそれほどありません。そのため、いろいろと失敗もします。映像を観ていると、極めて無謀な挑戦のようにもみえます。
しかし中村医師は決して諦めません。ブルドーザーを自ら運転し(!)、文字通り先頭に立って、淡々と土木工事を指揮します。一緒に泥まみれになって作業をするのは、干ばつのせいで村を放棄した元農民たちです。彼らにはペシャワール会から240円の日当が支払われるので、当面の生活を維持する足しになりますし、なんといっても農業を復活させ村に帰りたいという夢があります。
用水路計画の吸引力たるや物凄く、難民化した人たちや、元武装勢力の一員だったという人たちも噂を聞きつけて合流するなど、延べ60万人が働くという一大事業になっていきます。中村医師らの長年の活動が、アフガニスタン人たちの信頼を得ていたことの証拠だと思います。
建設工事の過程で、中村医師は土木技術についても勉強を重ねていき、ついには江戸時代の日本の治水技術に目をつけます。用水路の取水口に設ける堰の角度や、蛇籠や柳の木を使った伝統的な護岸技術を採用するのです。江戸時代の技術なら、ハイテクな機材やコストのかかるコンクリートを使わずに、人海戦術で用水路建設を進めることができるからです。
その作戦は功を奏し、集中豪雨でも流れない、頑丈な用水路が完成。「マルワリード用水路」と名付けられます。マルワリード用水路は、木も草も生えないガンベリ砂漠にまで延び、新たな農地を創出します。そして15万人以上が農業に復帰しました。総工費は15億円。すべて日本人が寄付したお金だそうです。
なんと素晴らしい!これほど創造的で地に足の着いた偉大な「国際貢献」があるでしょうか。久々に素直に感動してしまいました。
折しも日本では安倍晋三政権が武力による「国際貢献」を唱えていますが、本当に空虚に聞こえます。というより、もし安倍氏が言うように自衛隊がアフガニスタンに派兵され、ペシャワール会のような医療団やらNGOを武力で守ったりしたら、逆に中村医師たちは危険に曝されるのです。
以下は、「マガジン9」に掲載された2008年のインタビューです。少し長いですが紹介します。
http://www.magazine9.jp/interv/tetsu/tetsu.php
xxx
編集部 現地では、NGOとか国際機関なんかが襲撃されるということは、かなりあるんですか?
中村 何回も、見聞きしたことはありますよ。でも、我々ペシャワール会が襲われたことは一度もありません
編集部 それだけ、ペシャワール会の活動が現地の方々に浸透しているということでしょうか。
中村 そうですね。アフガンの人たちは、親日感情がとても強いですしね。それに、我々は宗教というものを、大切にしてきましたから。
編集部 宗教とは、やはりイスラム教…。
中村 おおむね、狙われたのはイスラム教というものに無理解な活動、例えば、女性の権利を主張するための女性平等プログラムだとか。現地でそんなことをすると、まず女性が嫌がるんです。キリスト教の宣教でやっているんじゃないか、と思われたりして。
編集部 宗教的対立感情みたいなものですか?
中村 いや、対立感情は、むしろ援助する側が持っているような気がしますね。優越感を持っているわけですよ。ああいうおくれた宗教、おくれた習慣を是正してやろうという、僕から言わせれば思い上がり、もっときつくいえば、“帝国主義的”ですけどね。そういうところの団体が、かなり襲撃されています。民主主義を波及させるというお題目は正しいんでしょうけれど、やっていることは、ソ連がアフガン侵攻時に唱えていたことと五十歩百歩ですよ。
編集部 ペシャワール会は、そういうことからは無縁であったということですね。
中村 そうです。それに僕はやっぱり、日本の憲法、ことに憲法9条というものの存在も大きいと思っています。
編集部 憲法9条、ですか。
中村 ええ、9条です。昨年、アフガニスタンの外務大臣が日本を訪問しましたね。そのとき、彼が平和憲法に触れた発言をしていました。アフガンの人たちみんなが、平和憲法やとりわけ9条について知っているわけではありません。でも、外相は「日本にはそういう憲法がある。だから、アフガニスタンとしては、日本に軍事活動を期待しているわけではない。日本は民生分野で平和的な活動を通じて、我々のために素晴らしい活動をしてくれると信じている」というようなことを語っていたんですね。
編集部 平和国家日本、ですね。
中村 ある意味「美しき誤解」かもしれませんが、そういうふうに、日本の平和的なイメージが非常な好印象を、アフガンの人たちに与えていることは事実です。日本人だけは、別格なんですよ。
編集部 日本人と他国の人たちを区別している?
中村 極端なことを言えば、欧米人に対してはまったく躊躇がない。白人をみれば「やっちゃえ」という感覚はありますよ。でもね、そういう日本人への見方というのも、最近はずいぶん変わってきたんです。
編集部 それは、なぜ、いつごろから、どのように変わってきたんですか?
中村 いちばんのキッカケは湾岸戦争。そして、もっとも身近なのは、もちろんアフガン空爆です。アメリカが要請してもいない段階で、日本は真っ先に空爆を支持し、その行動にすすんで貢献しようとした。その態度を見て、ガッカリしたアフガン人はほんとうに多かったんじゃないでしょうかね。
編集部 せっかくの親日感情が、そのために薄らいでしまったんですね。
中村 それでも、いまでもほかの国に比べたら、日本への感情はとても親しいものです。この感情を大事にしなければならないと思うんです。湾岸戦争のときに、「日本は血も汗も流さずお金だけばら撒いて、しかも国際社会から何の感謝もされなかった。それが、トラウマになっている」なんて、自民党の議員さんたちはよく言うようですけど、なんでそんなことがトラウマになるんですか。「お金の使い方が間違っていた」と言うのならいいのですが、「もっと血と汗を流せ」という方向へ行って、とうとうイラクへは自衛隊まで派遣してしまった。僕は、これはとても大きな転回点だったと思っています。
これまでは、海外に軍事力を派遣しない、ということが日本の最大の国際貢献だったはずなのに、とうとうそれを破ってしまったんです。これは、戦争協力ですよね。そんなお金があるんだったら、福祉だの農業復興だの何だの、ほかに使い道はいくらでもあるというのに。
xxx
実際、『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く』の中でも、用水路を作る人々の頭上を米軍のヘリコプターが何度も通り過ぎていきます。人々は、米軍に攻撃される危険を冒しながら作業に従事しているのです。あの編隊に自衛隊のヘリコプターやら戦闘機やらが加わったらどうなるのでしょうか。中村医師は、最近のインタビューでも次のように明言されています。
「アフガニスタン人は多くの命を奪った米国を憎んでいます。日本が米国に加担することになれば、私はここで命を失いかねません。 安倍首相は記者会見で「(現状では)海外で活動するボランティアが襲われても、自衛隊は彼らを救うことはできない」と言ったそうですが、全く逆です。命を守るどころか、かえって危険です。私は逃げます。 9条は数百万人の日本人が血を流し、犠牲になって得た大いなる日本の遺産です。大切にしないと、亡くなった人たちが浮かばれません。9条に守られていたからこそ、私たちの活動も続けてこられたのです。私たちは冷静に考え直さなければなりません。」(2014年5月16日『西日本新聞』)
いかがでしょうか。
作品の後半、用水路が完成して農業に復帰し、嬉しそうに稲や芋の収穫をする人々の姿が映し出されます。僕はその様子を観ながら、「人間、水と大地と空気さえあれば、なんとか生きていけるのだなあ」と、なんとなく安心するような、肩の荷が下りるような、不思議な感慨に包まれました。人間が生きることって、本当は、すんごくシンプルなことなんじゃないでしょうか。
翻って、日本の田舎では、人々が農業や村を捨て、都会に流出していくことが深刻な社会問題になっています。別に水がないわけではありません。それなのに「農業では生活できない」と言って、人々は村を去っていきます。それはなぜなんだろうと、改めて考えてしまいました。
外国の都会に住んでいる僕が言えることではないのかもしれませんが、何か根本的におかしなことが起きている。それだけは間違いないように思います。
日本電波ニュース社が製作した『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く 治水技術7年の記録』(谷津賢二監督、2012年、73分)というドキュメンタリーDVDを観ました。アフガニスタンで30年間、経済的に貧しい人たちの診療を続けてきたペシャワール会・中村哲医師らの活動を記録した作品です。
http://www.ndn-news.co.jp/shop/pickup/Kanbatsunodaichi.html
『医者、井戸を掘る』(中村哲著、石風社)などを拝読し、中村医師らの活動には以前から畏敬の念を抱いていたのですが、このDVDで映し出された活動も、ホント、「す・ご・い」の一言です。中村医師は、戦乱をよそに黙々と木を植え続ける『木を植えた男』(ジャン・ジオノ著)を地でいく方だと思いました。いや、『木を植えた男』はフィクションですけど、中村氏はいまも活動中の実在の人物。カミさんいわく、平田オリザ氏に物腰やお顔がそっくりだというんですけどね(笑)。
中村氏は長年アフガニスタンで無料診療を続けながら、ひとつの重大な事実に気づきます。診療所を訪れる人々が直面している根本的な問題は、干ばつによる飢餓と貧困だということです。干ばつのせいで農業が続けられず、村を放棄し、難民化する人々が多いのです。人々は医療うんぬん以前の問題で苦しんでいるわけです。
そこで中村医師は、白衣を脱ぎ、なんと用水路の建設に着手することを決意します。クナール河から水を引いて全長25.5キロにも及ぶ用水路を築き、帰農を促すのです。実現すれば3500ヘクタールの農地が回復し、15万以上人が農業に復帰できるという遠大な計画です。
ところが、中村医師は土木技術については素人です。使えるお金もそれほどありません。そのため、いろいろと失敗もします。映像を観ていると、極めて無謀な挑戦のようにもみえます。
しかし中村医師は決して諦めません。ブルドーザーを自ら運転し(!)、文字通り先頭に立って、淡々と土木工事を指揮します。一緒に泥まみれになって作業をするのは、干ばつのせいで村を放棄した元農民たちです。彼らにはペシャワール会から240円の日当が支払われるので、当面の生活を維持する足しになりますし、なんといっても農業を復活させ村に帰りたいという夢があります。
用水路計画の吸引力たるや物凄く、難民化した人たちや、元武装勢力の一員だったという人たちも噂を聞きつけて合流するなど、延べ60万人が働くという一大事業になっていきます。中村医師らの長年の活動が、アフガニスタン人たちの信頼を得ていたことの証拠だと思います。
建設工事の過程で、中村医師は土木技術についても勉強を重ねていき、ついには江戸時代の日本の治水技術に目をつけます。用水路の取水口に設ける堰の角度や、蛇籠や柳の木を使った伝統的な護岸技術を採用するのです。江戸時代の技術なら、ハイテクな機材やコストのかかるコンクリートを使わずに、人海戦術で用水路建設を進めることができるからです。
その作戦は功を奏し、集中豪雨でも流れない、頑丈な用水路が完成。「マルワリード用水路」と名付けられます。マルワリード用水路は、木も草も生えないガンベリ砂漠にまで延び、新たな農地を創出します。そして15万人以上が農業に復帰しました。総工費は15億円。すべて日本人が寄付したお金だそうです。
なんと素晴らしい!これほど創造的で地に足の着いた偉大な「国際貢献」があるでしょうか。久々に素直に感動してしまいました。
折しも日本では安倍晋三政権が武力による「国際貢献」を唱えていますが、本当に空虚に聞こえます。というより、もし安倍氏が言うように自衛隊がアフガニスタンに派兵され、ペシャワール会のような医療団やらNGOを武力で守ったりしたら、逆に中村医師たちは危険に曝されるのです。
以下は、「マガジン9」に掲載された2008年のインタビューです。少し長いですが紹介します。
http://www.magazine9.jp/interv/tetsu/tetsu.php
xxx
編集部 現地では、NGOとか国際機関なんかが襲撃されるということは、かなりあるんですか?
中村 何回も、見聞きしたことはありますよ。でも、我々ペシャワール会が襲われたことは一度もありません
編集部 それだけ、ペシャワール会の活動が現地の方々に浸透しているということでしょうか。
中村 そうですね。アフガンの人たちは、親日感情がとても強いですしね。それに、我々は宗教というものを、大切にしてきましたから。
編集部 宗教とは、やはりイスラム教…。
中村 おおむね、狙われたのはイスラム教というものに無理解な活動、例えば、女性の権利を主張するための女性平等プログラムだとか。現地でそんなことをすると、まず女性が嫌がるんです。キリスト教の宣教でやっているんじゃないか、と思われたりして。
編集部 宗教的対立感情みたいなものですか?
中村 いや、対立感情は、むしろ援助する側が持っているような気がしますね。優越感を持っているわけですよ。ああいうおくれた宗教、おくれた習慣を是正してやろうという、僕から言わせれば思い上がり、もっときつくいえば、“帝国主義的”ですけどね。そういうところの団体が、かなり襲撃されています。民主主義を波及させるというお題目は正しいんでしょうけれど、やっていることは、ソ連がアフガン侵攻時に唱えていたことと五十歩百歩ですよ。
編集部 ペシャワール会は、そういうことからは無縁であったということですね。
中村 そうです。それに僕はやっぱり、日本の憲法、ことに憲法9条というものの存在も大きいと思っています。
編集部 憲法9条、ですか。
中村 ええ、9条です。昨年、アフガニスタンの外務大臣が日本を訪問しましたね。そのとき、彼が平和憲法に触れた発言をしていました。アフガンの人たちみんなが、平和憲法やとりわけ9条について知っているわけではありません。でも、外相は「日本にはそういう憲法がある。だから、アフガニスタンとしては、日本に軍事活動を期待しているわけではない。日本は民生分野で平和的な活動を通じて、我々のために素晴らしい活動をしてくれると信じている」というようなことを語っていたんですね。
編集部 平和国家日本、ですね。
中村 ある意味「美しき誤解」かもしれませんが、そういうふうに、日本の平和的なイメージが非常な好印象を、アフガンの人たちに与えていることは事実です。日本人だけは、別格なんですよ。
編集部 日本人と他国の人たちを区別している?
中村 極端なことを言えば、欧米人に対してはまったく躊躇がない。白人をみれば「やっちゃえ」という感覚はありますよ。でもね、そういう日本人への見方というのも、最近はずいぶん変わってきたんです。
編集部 それは、なぜ、いつごろから、どのように変わってきたんですか?
中村 いちばんのキッカケは湾岸戦争。そして、もっとも身近なのは、もちろんアフガン空爆です。アメリカが要請してもいない段階で、日本は真っ先に空爆を支持し、その行動にすすんで貢献しようとした。その態度を見て、ガッカリしたアフガン人はほんとうに多かったんじゃないでしょうかね。
編集部 せっかくの親日感情が、そのために薄らいでしまったんですね。
中村 それでも、いまでもほかの国に比べたら、日本への感情はとても親しいものです。この感情を大事にしなければならないと思うんです。湾岸戦争のときに、「日本は血も汗も流さずお金だけばら撒いて、しかも国際社会から何の感謝もされなかった。それが、トラウマになっている」なんて、自民党の議員さんたちはよく言うようですけど、なんでそんなことがトラウマになるんですか。「お金の使い方が間違っていた」と言うのならいいのですが、「もっと血と汗を流せ」という方向へ行って、とうとうイラクへは自衛隊まで派遣してしまった。僕は、これはとても大きな転回点だったと思っています。
これまでは、海外に軍事力を派遣しない、ということが日本の最大の国際貢献だったはずなのに、とうとうそれを破ってしまったんです。これは、戦争協力ですよね。そんなお金があるんだったら、福祉だの農業復興だの何だの、ほかに使い道はいくらでもあるというのに。
xxx
実際、『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く』の中でも、用水路を作る人々の頭上を米軍のヘリコプターが何度も通り過ぎていきます。人々は、米軍に攻撃される危険を冒しながら作業に従事しているのです。あの編隊に自衛隊のヘリコプターやら戦闘機やらが加わったらどうなるのでしょうか。中村医師は、最近のインタビューでも次のように明言されています。
「アフガニスタン人は多くの命を奪った米国を憎んでいます。日本が米国に加担することになれば、私はここで命を失いかねません。 安倍首相は記者会見で「(現状では)海外で活動するボランティアが襲われても、自衛隊は彼らを救うことはできない」と言ったそうですが、全く逆です。命を守るどころか、かえって危険です。私は逃げます。 9条は数百万人の日本人が血を流し、犠牲になって得た大いなる日本の遺産です。大切にしないと、亡くなった人たちが浮かばれません。9条に守られていたからこそ、私たちの活動も続けてこられたのです。私たちは冷静に考え直さなければなりません。」(2014年5月16日『西日本新聞』)
いかがでしょうか。
作品の後半、用水路が完成して農業に復帰し、嬉しそうに稲や芋の収穫をする人々の姿が映し出されます。僕はその様子を観ながら、「人間、水と大地と空気さえあれば、なんとか生きていけるのだなあ」と、なんとなく安心するような、肩の荷が下りるような、不思議な感慨に包まれました。人間が生きることって、本当は、すんごくシンプルなことなんじゃないでしょうか。
翻って、日本の田舎では、人々が農業や村を捨て、都会に流出していくことが深刻な社会問題になっています。別に水がないわけではありません。それなのに「農業では生活できない」と言って、人々は村を去っていきます。それはなぜなんだろうと、改めて考えてしまいました。
外国の都会に住んでいる僕が言えることではないのかもしれませんが、何か根本的におかしなことが起きている。それだけは間違いないように思います。
Friday, May 29, 2015
現在審議中の安保法制について
安保法制について「アエラ」から1時間ほど取材を受けた。僕が申し上げたのは、以下のようなポイント。
安倍政権が民主的理念やプロセスにまったく敬意を払わないことで一貫していて、したがって安保法制を通すプロセスにも重大な問題があること。
そうなることは12年に自民党改憲案が出された段階で十分に予想されたこと。
主権者の多数派は安保法制や改憲案には反対だが、安倍政権を倒そうというほどにまでは、残念ながらその点を重視していないこと。
安保法制が通ると、近い将来自衛隊は米軍の子分として「遠くの戦争」に駆り出されるであろうこと。
したがって自衛隊員の戦死者が出るなどして、最初は盛んに報道されるであろうこと。
しかしすぐにメディアも主権者にも飽きが来て、戦死者が出ても新聞のベタ記事にしかならなくなるであろうこと。
そのうちに、戦争に参加していることすら忘れ去られていくであろうこと。
そのように集団的自衛権の発動が既成事実化された上で、憲法改定の発議がなされるであろうこと。
中国と戦争することは、損失があまりに大きくほとんどあり得ないが、「脅威」として軍備拡張に利用されるものであること。
日本では党議拘束があるので、与党議員が安保法制に反対する可能性はほとんどなく、選挙が終わった時点で安保法制が可決されることは既定路線であり、したがって国会での議論がいくら紛糾しても、既定路線がひっくり返る可能性はゼロに近いということ。
したがって国会そのものに緊張感が生まれようもなく、残念ながらアリバイもしくは茶番に近いものであり、だからこそ居眠りする議員も出てくるのだということ。
党議拘束が禁止されるなどすれば、与党内にも緊張感や議論や折衝が生じて、国会がこれほど形骸化することは避けられるのではないかということ。
などなど。
安倍政権が民主的理念やプロセスにまったく敬意を払わないことで一貫していて、したがって安保法制を通すプロセスにも重大な問題があること。
そうなることは12年に自民党改憲案が出された段階で十分に予想されたこと。
主権者の多数派は安保法制や改憲案には反対だが、安倍政権を倒そうというほどにまでは、残念ながらその点を重視していないこと。
安保法制が通ると、近い将来自衛隊は米軍の子分として「遠くの戦争」に駆り出されるであろうこと。
したがって自衛隊員の戦死者が出るなどして、最初は盛んに報道されるであろうこと。
しかしすぐにメディアも主権者にも飽きが来て、戦死者が出ても新聞のベタ記事にしかならなくなるであろうこと。
そのうちに、戦争に参加していることすら忘れ去られていくであろうこと。
そのように集団的自衛権の発動が既成事実化された上で、憲法改定の発議がなされるであろうこと。
中国と戦争することは、損失があまりに大きくほとんどあり得ないが、「脅威」として軍備拡張に利用されるものであること。
日本では党議拘束があるので、与党議員が安保法制に反対する可能性はほとんどなく、選挙が終わった時点で安保法制が可決されることは既定路線であり、したがって国会での議論がいくら紛糾しても、既定路線がひっくり返る可能性はゼロに近いということ。
したがって国会そのものに緊張感が生まれようもなく、残念ながらアリバイもしくは茶番に近いものであり、だからこそ居眠りする議員も出てくるのだということ。
党議拘束が禁止されるなどすれば、与党内にも緊張感や議論や折衝が生じて、国会がこれほど形骸化することは避けられるのではないかということ。
などなど。
Monday, May 25, 2015
「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明
歴史学関連16団体が出した声明の全文がネット上にあったのでコピペします。NHKの報道、まったく報じないよりはいいけど、安倍政権が怖かったのか、肝心なところが抜けてます。
この声明文のキモは、「日本軍「慰安婦」強制連行の事実には、歴史学的な根拠がある」ということであり、「朝日新聞の記事取り消しを根拠として強制連行などなかったかのように論じることは不当である」ということだと思います(僕がこれまで主張してきたことと完全に一致します)。
その声明に、会員数が2000人を超える「歴史学研究会」をはじめとした16の学術団体が賛同しているのです。しかしこの事実を、安倍政権や読売新聞や産経新聞などはたぶん黙殺することでしょう。都合の悪いことは「なかったことにする」のが歴史改ざん主義者の特徴そのものだからです。
ーーー
「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明
『朝日新聞』による2014年8月の記事取り消しを契機として、日本軍「慰安婦」強制連行の事実が根拠を失ったかのような言動が、一部の政治家やメディアの間に見られる。われわれ日本の歴史学会・歴史教育者団体は、こうした不当な見解に対して、以下の3つの問題を指摘する。
第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。
第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。
第三に、一部マスメディアによる、「誤報」をことさらに強調した報道によって、「慰安婦」問題と関わる大学教員とその所属機関に、辞職や講義の中止を求める脅迫などの不当な攻撃が及んでいる。これは学問の自由に対する侵害であり、断じて認めるわけにはいかない。
日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。
当該政治家やメディアに対し、過去の加害の事実、およびその被害者と真摯に向き合うことを、あらためて求める。
2015年5月25日
歴史学関係16団体
日本歴史学協会
大阪歴史学会
九州歴史科学研究会
専修大学歴史学会
総合女性史学会
朝鮮史研究会幹事会
東京学芸大学史学会
東京歴史科学研究会
名古屋歴史科学研究会
日本史研究会
日本史攷究会
日本思想史研究会(京都)
福島大学史学会
歴史科学協議会
歴史学研究会
歴史教育者協議会
http://www.torekiken.org/trk/blog/oshirase/20150525.html
この声明文のキモは、「日本軍「慰安婦」強制連行の事実には、歴史学的な根拠がある」ということであり、「朝日新聞の記事取り消しを根拠として強制連行などなかったかのように論じることは不当である」ということだと思います(僕がこれまで主張してきたことと完全に一致します)。
その声明に、会員数が2000人を超える「歴史学研究会」をはじめとした16の学術団体が賛同しているのです。しかしこの事実を、安倍政権や読売新聞や産経新聞などはたぶん黙殺することでしょう。都合の悪いことは「なかったことにする」のが歴史改ざん主義者の特徴そのものだからです。
ーーー
「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明
『朝日新聞』による2014年8月の記事取り消しを契機として、日本軍「慰安婦」強制連行の事実が根拠を失ったかのような言動が、一部の政治家やメディアの間に見られる。われわれ日本の歴史学会・歴史教育者団体は、こうした不当な見解に対して、以下の3つの問題を指摘する。
第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。
第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。
第三に、一部マスメディアによる、「誤報」をことさらに強調した報道によって、「慰安婦」問題と関わる大学教員とその所属機関に、辞職や講義の中止を求める脅迫などの不当な攻撃が及んでいる。これは学問の自由に対する侵害であり、断じて認めるわけにはいかない。
日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。
当該政治家やメディアに対し、過去の加害の事実、およびその被害者と真摯に向き合うことを、あらためて求める。
2015年5月25日
歴史学関係16団体
日本歴史学協会
大阪歴史学会
九州歴史科学研究会
専修大学歴史学会
総合女性史学会
朝鮮史研究会幹事会
東京学芸大学史学会
東京歴史科学研究会
名古屋歴史科学研究会
日本史研究会
日本史攷究会
日本思想史研究会(京都)
福島大学史学会
歴史科学協議会
歴史学研究会
歴史教育者協議会
http://www.torekiken.org/trk/blog/oshirase/20150525.html
Monday, March 09, 2015
山間部の中学3年生『選挙2』の感想
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生徒の感想です。1名途中からという子は入試でした。彼らも明日卒業で、最後に有意義な授業ができました。中3年生全員の感想です。ありがとうございました。
映画『選挙2』を観て
生徒1
・私は、途中からしか見られませんでしたが、おもしろかったです!
カメラの撮影を拒否している候補者の方もいたことにちょっと疑問を持ちました。
でも、それでも撮影していたカントクすごいなー、と思いました!
他の人には考えつかない方法で選挙を戦っていた山内さんもすごいと思いました。
これからも、がんばってください!
生徒2
まず、誰に投票するというのも大切ですが選挙をしに行くことが大切だと思いました。選挙をするのに多くのお金が必要だと思っていましたが思っていたよりは、かかっておらず驚きました。選挙する人の話し方もいろいろでおもしろかったです。
また、映画をとる人もいろいろ言われて大変だなと思いました。
それでもとり続けていたのがすごいと思いました。
日本のいろいろな問題をきちんと考える必要があると思いました。
生徒3
2011年に起きた震災の直後なのに原発について、ふれているのが山内さんだけなのが、驚きました。今でもそうですが、深く考えなければいけないことを、国は後回しにしていて、目を背けている気がしました。
確かに、投票率が低いと、落選する人も当選する人も、すべての選挙権をもっている人の意見が反映されていないなと思いました。
まず、何より、1人1人が責任を持って選挙にいくことが大切だと思いました。
私も選挙権をもつようになったら、雰囲気や名前で選ばず公約を1人1人見て責任のある投票をしたいです。
生徒4
山内和彦さんへ
周りを気にせず、自分の考えに正直なのはとても凄いと思いました。
防護服は流石にやりすぎに感じましたが、それくらいの行動力が必要なのだと思いました。
山内さんのような人は今の政治には必要不可欠だと思います。目標にしたいです。
また、それを全力で協力しているさゆりさんもすばらしいと思いました。
想田監督へ
他の議員の方に「止めろ」と言われても撮りつづける映画へのしゅう念はすごいと思いまし
た。
想田監督の他の映画も見てみたいと思いました。
生徒5
今回選挙2を見て、たくさん考えることがありました。撮影されていた2011年、私たちは小学6年生でした。卒業式まであと少しという所で、東日本大震災がありました。(地震は5年生)その時私たちは学校にいたので、大きな津波があったことや、原発の事故があったのを知ったのは家に帰ってからでした。私のおばあちゃんは福島県に住んでいるので、すぐに電話をしたのを覚えています。次の週末に福島の家へ行き、家の片づけを手伝ったりしました。とても大変で、高校も福島に行こうと言っていたので進路も変わりました。このように、4年がたった今でも、まだまだいろんな問題がたくさんの場所でおこっています。なのに2011年の時の選挙で山内さん以外だれも原発にふれなかったのはおどろきでした。また、撮影の時に、嫌がっている議員さんがいたりしたのも、何もないとはいえ、もし私が有権者だったら一票をいれないだろうなって思ってしまいました。
山内さんのやっていたお金をかけない、使わない選挙はとても良いことだと思いました。こんな議員さんが増えてほしいと思いました。
これからもお体に気をつけてがんばってください!!
Thursday, February 26, 2015
ローラ・ポイトラス監督の「Citizenfour」
ーーーー
今週は、まだ日本では公開されていない、というより、まだたぶん公開も決まっていない最新のドキュメンタリー映画をお勧めします。お勧めしてもすぐには観ることができないのがネックなのですが、たまにはこういうのもいいでしょう(笑)。
その映画は、「Citizenfour」(2014年、アメリカ/ドイツ、ローラ・ポイトラス監督)といいます。アメリカの国家安全保障局(NSA)による大規模な市民監視プログラムの存在を暴露し、世界中を震撼させたあのエドワード・スノーデン氏についてのドキュメンタリーです。
実は監督のローラは、僕にとっては個人的な知り合いです。というか、僕が2007年に処女作『選挙』をベルリン国際映画祭でプレミア公開する際、いろいろとアドバイスをしてくれた“先輩”です(アメリカには先輩・後輩という概念がないので彼女をこう呼ぶのも奇妙な感じがしますが)。ただ、その後何度かお会いしてはいたものの、ここ2、3年は疎遠になっていました。
そのローラの新作がニューヨークの映画館で公開される。題材はあのスノーデンだ。そう知ったのは、この映画に僕を誘ってくれた友人のお陰です。
「おおっ、ローラの新作か。観なくちゃ。でもスノーデンにどうやって連絡を取ったのだろう。連絡したら最後、アメリカ政府のウォッチリストに入れられちゃうな」
などと呑気にも思った僕は、本当に間抜けでした。映画を見て遅ればせながら知ったことですが、ローラは「ウォッチリストに入れられちゃう」どころか、ウォッチリストに入っていたからこそ、この映画を撮れたのです。というより、ローラはあの大事件の「共犯者」ともいえる存在だったのです!
ことの顛末はこうです。
2013年、スノーデン氏は、NSAによる市民監視プログラムを内部告発するため、信頼できるジャーナリストに情報と証拠を提供したいと考えていました。そこでまずは英「ガーディアン」紙のジャーナリスト、グレン・グリーンウォルド氏に匿名のメールを出します。「重要な情報を渡したいが、このままでは検閲されてしまうので、まずはメール用の暗号プログラムをインストールしてくれ」という内容です。しかしグリーンウォルド氏は取り合いませんでした。
そこでスノーデン氏が次にコンタクトしたのが、ローラです。
ローラの出世作は、アメリカ占領下のイラクの生活を描き、アカデミー賞にもノミネートされた『My Country, My Country』(2006年)という作品です。彼女は本作を撮って以来、アメリカの国土安全保障省のウォッチリストに入れられ、アメリカに入国するたびに尋問を受けたりパソコンや携帯電話などを押収されたりしていました。また、ローラは2012年、別のNSAの内部告発者にインタビューした短編ドキュメンタリー『The Program』を発表していました。そのような経歴の彼女を、スノーデン氏は情報の提供先として最適だと考えたのです。
映画の題名にもなった「Citizenfour」という名を語るスノーデン氏から連絡を受けたローラは、氏の要求通りに暗号プログラムをインストールし、コミュニケーションを開始します。同時に、グリーンウォルド氏にも事の重大性を伝え、暗号プログラムを用い、コミュニケーションに参加してもらいます。そして、2013年、ローラとグリーンヲルド氏はついに香港でスノーデン氏に面会するのです。
つまり映画『Citizenfour』は、香港でのスノーデン氏との最初の出会いから9日間に渡る取材の過程を、リアルタイムで密着して撮ったドキュメンタリーです。
それだけでめちゃくちゃ凄くないですか?
僕はてっきり、スノーデン氏の告発の過程を事後的なインタビューを通じて描くような作品だと勝手に思っていたので、映画を観ながら口をあんぐり開けっぱなしでした。あの歴史に残る重大事件の真ん中にローラのカメラがあり、その顛末を「第三者」としてというよりも、当事者として記録している。ものすごい快挙です。
覚えてらっしゃる方も多いと思いますが、あのときスノーデン氏は一気に情報を開示するのではなく、毎日少しずつ、グリーンウォルド氏の記事を通じて重大な告発をしていきましたよね。その記事が出るたびに、世界中のメディアが大騒ぎで後追い報道をする。映画には、その過程が全部映っていて、スノーデン氏とグリーンウォルド氏は世間の反応をテレビで眺めながら、「次はどういう記事を出そうか」なんてことを相談したりするのです!
こんなドキュメンタリー、いくら頑張って撮ろうと思っても、おいそれと撮れるようなものではありません。奇跡だと思います。同時に、スノーデン氏のみならず、母国アメリカの政府を完全に敵に回してでもこの作品を作り公開したローラの勇気と鉄の意志に、感嘆せざるを得ません。
ローラは最近、ニューヨークからベルリンへ移住しました。この作品もベルリンで編集したそうです。たしかにアメリカで編集してたら、素材を没収される可能性がありますからね。
まあ、とにかく日本でも公開されたらぜひご覧ください。映画史上、最高傑作の部類に入る作品だと思います。
今週は、まだ日本では公開されていない、というより、まだたぶん公開も決まっていない最新のドキュメンタリー映画をお勧めします。お勧めしてもすぐには観ることができないのがネックなのですが、たまにはこういうのもいいでしょう(笑)。
その映画は、「Citizenfour」(2014年、アメリカ/ドイツ、ローラ・ポイトラス監督)といいます。アメリカの国家安全保障局(NSA)による大規模な市民監視プログラムの存在を暴露し、世界中を震撼させたあのエドワード・スノーデン氏についてのドキュメンタリーです。
実は監督のローラは、僕にとっては個人的な知り合いです。というか、僕が2007年に処女作『選挙』をベルリン国際映画祭でプレミア公開する際、いろいろとアドバイスをしてくれた“先輩”です(アメリカには先輩・後輩という概念がないので彼女をこう呼ぶのも奇妙な感じがしますが)。ただ、その後何度かお会いしてはいたものの、ここ2、3年は疎遠になっていました。
そのローラの新作がニューヨークの映画館で公開される。題材はあのスノーデンだ。そう知ったのは、この映画に僕を誘ってくれた友人のお陰です。
「おおっ、ローラの新作か。観なくちゃ。でもスノーデンにどうやって連絡を取ったのだろう。連絡したら最後、アメリカ政府のウォッチリストに入れられちゃうな」
などと呑気にも思った僕は、本当に間抜けでした。映画を見て遅ればせながら知ったことですが、ローラは「ウォッチリストに入れられちゃう」どころか、ウォッチリストに入っていたからこそ、この映画を撮れたのです。というより、ローラはあの大事件の「共犯者」ともいえる存在だったのです!
ことの顛末はこうです。
2013年、スノーデン氏は、NSAによる市民監視プログラムを内部告発するため、信頼できるジャーナリストに情報と証拠を提供したいと考えていました。そこでまずは英「ガーディアン」紙のジャーナリスト、グレン・グリーンウォルド氏に匿名のメールを出します。「重要な情報を渡したいが、このままでは検閲されてしまうので、まずはメール用の暗号プログラムをインストールしてくれ」という内容です。しかしグリーンウォルド氏は取り合いませんでした。
そこでスノーデン氏が次にコンタクトしたのが、ローラです。
ローラの出世作は、アメリカ占領下のイラクの生活を描き、アカデミー賞にもノミネートされた『My Country, My Country』(2006年)という作品です。彼女は本作を撮って以来、アメリカの国土安全保障省のウォッチリストに入れられ、アメリカに入国するたびに尋問を受けたりパソコンや携帯電話などを押収されたりしていました。また、ローラは2012年、別のNSAの内部告発者にインタビューした短編ドキュメンタリー『The Program』を発表していました。そのような経歴の彼女を、スノーデン氏は情報の提供先として最適だと考えたのです。
映画の題名にもなった「Citizenfour」という名を語るスノーデン氏から連絡を受けたローラは、氏の要求通りに暗号プログラムをインストールし、コミュニケーションを開始します。同時に、グリーンウォルド氏にも事の重大性を伝え、暗号プログラムを用い、コミュニケーションに参加してもらいます。そして、2013年、ローラとグリーンヲルド氏はついに香港でスノーデン氏に面会するのです。
つまり映画『Citizenfour』は、香港でのスノーデン氏との最初の出会いから9日間に渡る取材の過程を、リアルタイムで密着して撮ったドキュメンタリーです。
それだけでめちゃくちゃ凄くないですか?
僕はてっきり、スノーデン氏の告発の過程を事後的なインタビューを通じて描くような作品だと勝手に思っていたので、映画を観ながら口をあんぐり開けっぱなしでした。あの歴史に残る重大事件の真ん中にローラのカメラがあり、その顛末を「第三者」としてというよりも、当事者として記録している。ものすごい快挙です。
覚えてらっしゃる方も多いと思いますが、あのときスノーデン氏は一気に情報を開示するのではなく、毎日少しずつ、グリーンウォルド氏の記事を通じて重大な告発をしていきましたよね。その記事が出るたびに、世界中のメディアが大騒ぎで後追い報道をする。映画には、その過程が全部映っていて、スノーデン氏とグリーンウォルド氏は世間の反応をテレビで眺めながら、「次はどういう記事を出そうか」なんてことを相談したりするのです!
こんなドキュメンタリー、いくら頑張って撮ろうと思っても、おいそれと撮れるようなものではありません。奇跡だと思います。同時に、スノーデン氏のみならず、母国アメリカの政府を完全に敵に回してでもこの作品を作り公開したローラの勇気と鉄の意志に、感嘆せざるを得ません。
ローラは最近、ニューヨークからベルリンへ移住しました。この作品もベルリンで編集したそうです。たしかにアメリカで編集してたら、素材を没収される可能性がありますからね。
まあ、とにかく日本でも公開されたらぜひご覧ください。映画史上、最高傑作の部類に入る作品だと思います。
Friday, February 13, 2015
横浜市教育委員会が映画『標的の村』上映会の後援を取りやめたことについて
横浜市教育委員会が映画『標的の村』上映会の後援を取りやめたことについて、配給会社である合同会社東風の見解が出ています。
http://www.tongpoo-films.jp/news.html…
去年の8月、これと類似した事件が起きた際に書いたメルマガを以下に転載します。ここに書いたことが、今回の事件にもほぼ当てはまると考えています。
ーーー
市民団体主催 憲法イベント 調布市も後援難色
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014081590070054.html
2014年8月15日 東京新聞
東京都調布市民らでつくる「調布九条の会『憲法ひろば』」が来年一月に企画している会の創立十周年記念イベントについて、調布市が集団的自衛権に反対している会の活動やイベント内容を理由に「後援は難しい」と伝えたことが分かった。同会は「理由が納得できない」として市側と話し合いを続ける意向を示している。
イベントは作曲家の池辺晋一郎氏や憲法学者の奥平康弘氏、教育学者の堀尾輝久氏による憲法九条に関する座談会と、一般市民でつくる合唱団が池辺氏の指揮で平和に関する歌を披露する二部構成で企画。来年一月二十五日、市グリーンホールで開くことにしている。
会によると、会関係者が先月末、長友貴樹市長に会った際にイベントの後援を相談。その後、市と会でやりとりする中で、市側が、後援申請に必要な会の規約がないことに加え、会の活動が「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動でないこと」とする市の後援要綱に反する可能性があり後援は難しいと指摘したという。
市文化振興課の仁藤美保課長は「正式な手続きがなされていない段階。書類を整えて申請があれば、あらためて検討する」と話す。会のメンバー大野哲夫さん(76)は「憲法九条を守る活動だ。今回の後援は難しいとする市の考えをはっきりさせるため、今後も市と話し合いを続けたい」と話している。
市民団体などが主催する憲法関連イベントの後援を、自治体が拒否する例は相次いでいる。
護憲派の市民団体が今年開いた集会の後援申請について、千葉市や神戸市が拒否。東京都国立市も、八月二十三日に開かれる講座について「安倍内閣が憲法違反の法律を次々と成立させていることは周知の事実」などとするチラシの文言を理由に、後援しないと決めた。
—————
このニュースを読みながら、なんだか現在の日本社会に奇妙な論理と空気が広がっているなあと思いました。
そもそも日本が立憲民主主義国である以上、主権者が自国の政府に憲法を守るよう呼びかけるのは、例えば「道路交通法を守れ」というくらい当たり前の話で、本来ならば「政治」以前の問題だと信じます。「憲法を守れ」と唱えることは、その定義上、「民主主義を守れ」と唱えることと同義であり、したがって民主国家においては、あまりにも当たり前すぎて「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」にはならないはずなのです。
加えて、公務員には憲法の遵守義務があります。憲法を守ろうと呼びかける市民の集会を後押しすることは、むしろ行政にとっては大事な任務であるはずであり、だからこそ、今までは自治体も護憲派のイベントを「後援」してきたのでしょう。
ところが、第二次安倍政権が誕生して以来、状況がガラリと変わってしまいました。秘密保護法や集団的自衛権の問題にみられるように、憲法を守らない方針の政党が権力を握っている今の日本では、「憲法を守るかどうか」という問題は、実質的には「政治問題」になっており、「憲法を守れ(=民主主義を守れ)」と叫ぶことは、すでに「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」の範中に入れられてしまったようなのです。だからこそ、護憲派のイベントに「後援」を出すことに政治性を感じ取り、特定の政治勢力からの批判を恐れ、後援しないことを決めた自治体が頻出している。要するに彼らは、「政治的中立性を保つ」と言いつつ、立派な「政治判断」をしているわけです。
まあ、公共の自治体が「憲法を破棄しろ!」と叫ぶようなイベントだけを応援するのも考えものですし、そういう意味では公的機関には何らかの方法で「政治的中立性」もしくは「公平性」を保ってもらわないと困ります。
とはいえ、現在の彼らが採用している「少しでも政治的な色彩のある集会は徹底的に排除する」という方法論で政治的公平性を保とうとするやり方には、市民の活動や議論そのものを萎縮させてしまうという弊害があります。それは政治的な問題について、市民自身が主体的に考えたり、意見交換したりする機会を損ない、民主主義の成熟を妨げてしまうので、いかにも不味いように思います。したがって、自治体などの公的機関は、ぜひともそれとは別の方法で政治的公平性を保って欲しいのです。
では、一体どんな方法が考えられるのか。
僕からの提案は、今の自治体とは真逆の方法論を採ることです。つまり、「申請さえあれば、市民によるいかなる集会も後援する」という方針を堂々と打ち出すのです。
護憲派の集会も、改憲派の集会も、脱原発派の集会も、原発推進派の集会も、全部「後援」して後押しをする。これなら公平です。あらゆる政治的活動を排除するのではなく、逆にあらゆる政治的活動を容認することで、「政治的中立性」を保つのです。
僕はそれこそが、民主主義の、そして公的機関の「あるべき姿」だと思います。民主社会とは、政治的な意見を表明するのが憚られる社会ではなく、政治問題について偏った持論を遠慮なく語ってもそれが許容され、異なる意見の人間が共存できる社会であるはずです。民主国家である日本の自治体は、まさにそういう「多事争論の場」を用意したり、後押ししたりすべきだと思うのです。
今の自治体がそれとは真逆の対応を採ろうとしていることの背景には、いったい何があるのでしょうか。僕には、日本人の多くが「公共」について誤ったイメージを抱いていることが、根っ子にあるように感じられます。
多くの日本人は「公共」を「無色透明であること」と誤解していないでしょうか。だからこそ、ちょっとでも「色」のついたものは排除しようとする。しかし、僕に言わせれば「色」のついていないものなど、この世には一切存在しないのです。
僕にとっての「公共」のイメージは、「無色透明」とは真逆のものです。つまり、赤や青や黄色や緑だけでなく、無数の中間色がひしめき合い、どんな「色」も排除されずに共存する空間です。ですから物凄くカラフルです。誰もが「自分自身でいること」を許容され、お互いがお互いを自分の色に塗りつぶしたりしない。お互いの違いを認めながらも、尊重し合う。それこそが本当の意味での「公共」の場なのではないでしょうか。
自治体の方々には、公共の場を「もの言えぬ空間」にするのではく、「誰でも何でも言える空間」にしていく努力をしていただきたいものです。
http://www.tongpoo-films.jp/news.html…
去年の8月、これと類似した事件が起きた際に書いたメルマガを以下に転載します。ここに書いたことが、今回の事件にもほぼ当てはまると考えています。
ーーー
市民団体主催 憲法イベント 調布市も後援難色
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014081590070054.html
2014年8月15日 東京新聞
東京都調布市民らでつくる「調布九条の会『憲法ひろば』」が来年一月に企画している会の創立十周年記念イベントについて、調布市が集団的自衛権に反対している会の活動やイベント内容を理由に「後援は難しい」と伝えたことが分かった。同会は「理由が納得できない」として市側と話し合いを続ける意向を示している。
イベントは作曲家の池辺晋一郎氏や憲法学者の奥平康弘氏、教育学者の堀尾輝久氏による憲法九条に関する座談会と、一般市民でつくる合唱団が池辺氏の指揮で平和に関する歌を披露する二部構成で企画。来年一月二十五日、市グリーンホールで開くことにしている。
会によると、会関係者が先月末、長友貴樹市長に会った際にイベントの後援を相談。その後、市と会でやりとりする中で、市側が、後援申請に必要な会の規約がないことに加え、会の活動が「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動でないこと」とする市の後援要綱に反する可能性があり後援は難しいと指摘したという。
市文化振興課の仁藤美保課長は「正式な手続きがなされていない段階。書類を整えて申請があれば、あらためて検討する」と話す。会のメンバー大野哲夫さん(76)は「憲法九条を守る活動だ。今回の後援は難しいとする市の考えをはっきりさせるため、今後も市と話し合いを続けたい」と話している。
市民団体などが主催する憲法関連イベントの後援を、自治体が拒否する例は相次いでいる。
護憲派の市民団体が今年開いた集会の後援申請について、千葉市や神戸市が拒否。東京都国立市も、八月二十三日に開かれる講座について「安倍内閣が憲法違反の法律を次々と成立させていることは周知の事実」などとするチラシの文言を理由に、後援しないと決めた。
—————
このニュースを読みながら、なんだか現在の日本社会に奇妙な論理と空気が広がっているなあと思いました。
そもそも日本が立憲民主主義国である以上、主権者が自国の政府に憲法を守るよう呼びかけるのは、例えば「道路交通法を守れ」というくらい当たり前の話で、本来ならば「政治」以前の問題だと信じます。「憲法を守れ」と唱えることは、その定義上、「民主主義を守れ」と唱えることと同義であり、したがって民主国家においては、あまりにも当たり前すぎて「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」にはならないはずなのです。
加えて、公務員には憲法の遵守義務があります。憲法を守ろうと呼びかける市民の集会を後押しすることは、むしろ行政にとっては大事な任務であるはずであり、だからこそ、今までは自治体も護憲派のイベントを「後援」してきたのでしょう。
ところが、第二次安倍政権が誕生して以来、状況がガラリと変わってしまいました。秘密保護法や集団的自衛権の問題にみられるように、憲法を守らない方針の政党が権力を握っている今の日本では、「憲法を守るかどうか」という問題は、実質的には「政治問題」になっており、「憲法を守れ(=民主主義を守れ)」と叫ぶことは、すでに「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」の範中に入れられてしまったようなのです。だからこそ、護憲派のイベントに「後援」を出すことに政治性を感じ取り、特定の政治勢力からの批判を恐れ、後援しないことを決めた自治体が頻出している。要するに彼らは、「政治的中立性を保つ」と言いつつ、立派な「政治判断」をしているわけです。
まあ、公共の自治体が「憲法を破棄しろ!」と叫ぶようなイベントだけを応援するのも考えものですし、そういう意味では公的機関には何らかの方法で「政治的中立性」もしくは「公平性」を保ってもらわないと困ります。
とはいえ、現在の彼らが採用している「少しでも政治的な色彩のある集会は徹底的に排除する」という方法論で政治的公平性を保とうとするやり方には、市民の活動や議論そのものを萎縮させてしまうという弊害があります。それは政治的な問題について、市民自身が主体的に考えたり、意見交換したりする機会を損ない、民主主義の成熟を妨げてしまうので、いかにも不味いように思います。したがって、自治体などの公的機関は、ぜひともそれとは別の方法で政治的公平性を保って欲しいのです。
では、一体どんな方法が考えられるのか。
僕からの提案は、今の自治体とは真逆の方法論を採ることです。つまり、「申請さえあれば、市民によるいかなる集会も後援する」という方針を堂々と打ち出すのです。
護憲派の集会も、改憲派の集会も、脱原発派の集会も、原発推進派の集会も、全部「後援」して後押しをする。これなら公平です。あらゆる政治的活動を排除するのではなく、逆にあらゆる政治的活動を容認することで、「政治的中立性」を保つのです。
僕はそれこそが、民主主義の、そして公的機関の「あるべき姿」だと思います。民主社会とは、政治的な意見を表明するのが憚られる社会ではなく、政治問題について偏った持論を遠慮なく語ってもそれが許容され、異なる意見の人間が共存できる社会であるはずです。民主国家である日本の自治体は、まさにそういう「多事争論の場」を用意したり、後押ししたりすべきだと思うのです。
今の自治体がそれとは真逆の対応を採ろうとしていることの背景には、いったい何があるのでしょうか。僕には、日本人の多くが「公共」について誤ったイメージを抱いていることが、根っ子にあるように感じられます。
多くの日本人は「公共」を「無色透明であること」と誤解していないでしょうか。だからこそ、ちょっとでも「色」のついたものは排除しようとする。しかし、僕に言わせれば「色」のついていないものなど、この世には一切存在しないのです。
僕にとっての「公共」のイメージは、「無色透明」とは真逆のものです。つまり、赤や青や黄色や緑だけでなく、無数の中間色がひしめき合い、どんな「色」も排除されずに共存する空間です。ですから物凄くカラフルです。誰もが「自分自身でいること」を許容され、お互いがお互いを自分の色に塗りつぶしたりしない。お互いの違いを認めながらも、尊重し合う。それこそが本当の意味での「公共」の場なのではないでしょうか。
自治体の方々には、公共の場を「もの言えぬ空間」にするのではく、「誰でも何でも言える空間」にしていく努力をしていただきたいものです。
Monday, February 02, 2015
「声明」の途中経過です
途中経過です。下のリンクに「声明文」への現時点での賛同人が掲載されています。まだ受け付けてますので、賛同してくださる言論、報道人、表現者の方々は、メールhanyokusan@gmail.comでその旨をお伝えください。「表現者」とは、FBやツイッターのみで活動されている方でも、ご自分を表現者と考える方はみなさんを含みます。
http://hanyokusan.blogspot.jp/2015/02/blog-post_84.html
今回は、僕も含めた何人かの個人が「このまま黙ってるのはまずいよね。声明文を出そうか」という話になって自然発生的に生じた動きですので、声明文の叩き台は僕が書いたものの、「呼びかけ人」や「発起人」は設けないことにしました。僕も含めてみなさん「賛同者」という位置付けです。これからも増える予定ですので、到着順の掲載です。
個人的に「肩書きはどうされます?」とお聞きしてお答えいただいた方もおられるので、できれば掲載させていただきたかったのですが、文中にあるように、作業量の限界で「肩書きなし」になりました。わざわざ教えてくださった方々には申し訳ないです。これも自然発生的に走りながら考えていることから生じた不備ですが、なにとぞご理解いただき、温かい目で見守っていただければと存じます。m(._.)m
http://hanyokusan.blogspot.jp/2015/02/blog-post_84.html
今回は、僕も含めた何人かの個人が「このまま黙ってるのはまずいよね。声明文を出そうか」という話になって自然発生的に生じた動きですので、声明文の叩き台は僕が書いたものの、「呼びかけ人」や「発起人」は設けないことにしました。僕も含めてみなさん「賛同者」という位置付けです。これからも増える予定ですので、到着順の掲載です。
個人的に「肩書きはどうされます?」とお聞きしてお答えいただいた方もおられるので、できれば掲載させていただきたかったのですが、文中にあるように、作業量の限界で「肩書きなし」になりました。わざわざ教えてくださった方々には申し訳ないです。これも自然発生的に走りながら考えていることから生じた不備ですが、なにとぞご理解いただき、温かい目で見守っていただければと存じます。m(._.)m
ニューヨークにいる僕は、9日の記者会見にも出席できないのですが、こちらも平にご容赦いただければ幸いです。
Sunday, February 01, 2015
翼賛体制構築に抗するという「声明」
ISIS「イスラム国」による人質事件をめぐる状況について、翼賛体制構築に抗するという「声明」を準備し、言論や報道、表現に携わる方々の賛同を募っています。今のところ宮台真司、岩上安身、田中龍作、古賀茂明、今井一さんらが賛同者。
私たち言論・表現活動に携わる者は、政権批判の「自粛」という悪しき流れに身をゆだねず、この流れを堰き止めようと考える。誰が、どの党が政権を担おうと、自身の良心にのみ従い、批判すべきだと感じ、考えることがあれば、今後も、臆さずに書き、話し、描くことを宣言する。
2015 年 2 月 9 日
※9日の会見時には(案)をはずしますが、大きな動きがあれば、一部を差し替える可
能性があります。
http://ref-info.com/hanyokusan/
・当面、賛同する言論、報道人、表現者は、メールhanyokusan@gmail.comでその旨を伝えて下さい(公開します)…といったPRの仕方で、仲間・賛同者を増やそうと考えています。ぜひ賛同してください。また、仲間を増やしてください。
・記者会見は2月9日月曜日の17時~18時、参議院議員会館内
(なお、簡易ホームページは2月3日に開設します)
声明案の叩き台は僕が作成しました。9日に参議院議員会館で記者会見をします。
声明文(案)
声明文(案)
私たちは「ISIS(イスラム国)」による卑劣極まりない邦人人質惨殺事件を強く非難し、抗議するものである。また、この憎しみと暴力の連鎖の帰結として起きた事件が、さらなる憎しみや暴力の引き金となることを恐れている。
同時に、事件発生以来、現政権の施策・行動を批判することを自粛する空気が日本社会やマスメディア、国会議員までをも支配しつつあることに、重大な危惧を憶えざるを得ない。
「このような非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」「人命尊重を第一に考えるなら、政権の足を引っ張るような行為はしてはならない」「いま政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」
そのような理屈で、政権批判を非難する声も聞こえる。
だが、こうした理屈には重大な問題が潜んでいる。
まず、実際の日本政府の行動や施策が、必ずしも人質の解放に寄与するものとは限らず、人質の命を危うくすることすらあり得るということだ。であるならば、政府の行動や施策は、主権者や国会議員(立法府)やマスメディアによって常に監視・精査・検証され、批判されるべき事があれば批判されるのは当然の事であろう。
また、「非常時」であることを理由に政権批判を自粛すべきだという理屈を認めてしまうなら、原発事故や大震災などを含めあらゆる「非常時」に政権批判をすることができなくなってしまう。たとえば、日本が他国と交戦状態に入ったときなどにも、「今、政権を批判すれば、敵を利するだけ」「非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」という理屈を認めざるを得なくなり、結果的に「翼賛体制」の構築に寄与せざるを得なくなるだろう。
しかし、そうなってしまっては、他国を侵略し日本を焼け野原にした戦時体制とまったく同じではないか? 70 数年前もこうして「物言えぬ空気」が作られ、私たちの国は破滅へ向かったのではなかったか?
実際、テレビで政権批判をすると、発言者や局に対してネットなどを通じて「糾弾」の動きが起こり、現場の人々に圧力がかかっている。
問題なのは、政権批判を自粛ないし非難する人々に、自らがすでに「翼賛体制」の一部になりつつあるとの自覚が薄いようにみえることである。彼らは自らの行動を「常識的」で「大人」の対応だと信じているようだが、本当にそうであろうか?私たちは、今こそ想像力を働かせ、歴史を振り返り、過去と未来に照らし合わせて自らの行動を検証し直す必要があるのではないだろうか?
日本国憲法第 21 条には、次のように記されている。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
日本国憲法第 12 条には、次のようにも記されている。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」
私たちは、この日本国憲法の精神を支持し尊重する。そしてこの精神は、「非常時」であるときにこそ、手厚く守られ尊重されなければならないと考えている。なぜなら「非常時」にこそ、問題の解決のためには、様々な発想や見方、考え方が必要とされるからである。
同時に、事件発生以来、現政権の施策・行動を批判することを自粛する空気が日本社会やマスメディア、国会議員までをも支配しつつあることに、重大な危惧を憶えざるを得ない。
「このような非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」「人命尊重を第一に考えるなら、政権の足を引っ張るような行為はしてはならない」「いま政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」
そのような理屈で、政権批判を非難する声も聞こえる。
だが、こうした理屈には重大な問題が潜んでいる。
まず、実際の日本政府の行動や施策が、必ずしも人質の解放に寄与するものとは限らず、人質の命を危うくすることすらあり得るということだ。であるならば、政府の行動や施策は、主権者や国会議員(立法府)やマスメディアによって常に監視・精査・検証され、批判されるべき事があれば批判されるのは当然の事であろう。
また、「非常時」であることを理由に政権批判を自粛すべきだという理屈を認めてしまうなら、原発事故や大震災などを含めあらゆる「非常時」に政権批判をすることができなくなってしまう。たとえば、日本が他国と交戦状態に入ったときなどにも、「今、政権を批判すれば、敵を利するだけ」「非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」という理屈を認めざるを得なくなり、結果的に「翼賛体制」の構築に寄与せざるを得なくなるだろう。
しかし、そうなってしまっては、他国を侵略し日本を焼け野原にした戦時体制とまったく同じではないか? 70 数年前もこうして「物言えぬ空気」が作られ、私たちの国は破滅へ向かったのではなかったか?
実際、テレビで政権批判をすると、発言者や局に対してネットなどを通じて「糾弾」の動きが起こり、現場の人々に圧力がかかっている。
問題なのは、政権批判を自粛ないし非難する人々に、自らがすでに「翼賛体制」の一部になりつつあるとの自覚が薄いようにみえることである。彼らは自らの行動を「常識的」で「大人」の対応だと信じているようだが、本当にそうであろうか?私たちは、今こそ想像力を働かせ、歴史を振り返り、過去と未来に照らし合わせて自らの行動を検証し直す必要があるのではないだろうか?
日本国憲法第 21 条には、次のように記されている。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
日本国憲法第 12 条には、次のようにも記されている。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」
私たちは、この日本国憲法の精神を支持し尊重する。そしてこの精神は、「非常時」であるときにこそ、手厚く守られ尊重されなければならないと考えている。なぜなら「非常時」にこそ、問題の解決のためには、様々な発想や見方、考え方が必要とされるからである。
私たち言論・表現活動に携わる者は、政権批判の「自粛」という悪しき流れに身をゆだねず、この流れを堰き止めようと考える。誰が、どの党が政権を担おうと、自身の良心にのみ従い、批判すべきだと感じ、考えることがあれば、今後も、臆さずに書き、話し、描くことを宣言する。
2015 年 2 月 9 日
※9日の会見時には(案)をはずしますが、大きな動きがあれば、一部を差し替える可
能性があります。
http://ref-info.com/hanyokusan/
・当面、賛同する言論、報道人、表現者は、メールhanyokusan@gmail.comでその旨を伝えて下さい(公開します)…といったPRの仕方で、仲間・賛同者を増やそうと考えています。ぜひ賛同してください。また、仲間を増やしてください。
・記者会見は2月9日月曜日の17時~18時、参議院議員会館内
(なお、簡易ホームページは2月3日に開設します)
Friday, January 30, 2015
『選挙2』DVD発売! Campaign 2 DVD
本日『選挙2』のDVDが発売されました。本編2時間30分+特典映像58分。特典映像には、初日舞台挨拶、ニセ安倍首相ご来場、ニューヨーク近代美術館でのQ&A、各予告編など。いまのところレンタルには出さない予定です。
DVD of Campaign 2 is now released in Japan. With English subtitles. Region free.
Sunday, January 25, 2015
「テロとの戦い」の原理的かつ根本的な落とし穴
「イスラム国」による人質事件に際し、去年9月にメルマガに書いた原稿を転載します。
ーーー
米国による、いわゆる「テロとの闘い War on Terrorism」が本格的に始まったのは、2001年9月11日の事件がきっかけです。当時のブッシュ政権はアメリカに対するテロ攻撃への報復及び「テロリストの根絶」を目標に掲げ、アフガニスタンへの侵攻を開始しました。日本の小泉政権も、すぐさまそれを支持しました。
僕は当時もニューヨークに住んでいましたので、あの911事件にはとてつもない衝撃を受けました。炭疽菌事件もあったりして、街を歩くのにも現実的な身の危険を感じました。だから世論調査でアメリカ国民の約90%がアフガニスタン攻撃を支持したと知ったときには、感情的にはその気持ちを理解しました。
しかし、アフガニスタンに米軍を侵攻させてテロリストを撲滅するという発想には、原理的かつ根本的な落とし穴があると直感し、侵攻には当初から大反対でした。
その「原理的かつ根本的な落とし穴」って、なんだか分かりますか?
テロリストとは「人間の種類」「属性」ではない、ということです。また、テロリズムとはコンセプト(アイデア)である、ということです。
まだ分かりにくいでしょうか?
つまりこういうことです。
生まれながらにテロリストである人間はいません。テロリストと呼ばれる人たちは、最初は誰しも普通の赤ちゃんとして生まれるわけですが(当たり前ですね?)、その後育った環境や出会った人々や出来事、思想などの影響で、人生のどこかでテロリストになることを決断します。ということは、テロリズムというコンセプトが、現状を打破したり敵に報復したりする上で魅力的なソリューションに見えるような環境が継続する限り、テロリストは無限大に増殖しうるのです。
これが例えば「この世からゴキブリを根絶する」というのであれば、実際には難しいでしょうけど、原理的には実現の可能性はあります。ゴキブリを片っ端から殺していけばいいんですから。そしてゴキブリがこの世から一匹もいなくなれば、たぶんその後ゴキブリが再び復活することはありません。なぜなら、カブトムシがいきなり誰かに影響されてゴキブリになったりすることはないからです。
しかし「テロリスト」は違います。たとえテロリストが皆殺しに合い、一時的にこの世から一人もいなくなったとしても、「テロリズム」というコンセプトが存在し、それに共感する人がいる限り、再びテロリストが生まれる可能性は残ります。たぶんアメリカ人や日本人の多くはテロリストをゴキブリのような存在としてイメージし、徹底的に殺せばいなくなるものだと今でも考えていると思いますが、そういうイメージそのものが致命的に誤っているのです。
アメリカは、アフガニスタンやイラクに侵攻して武力でテロリストを一掃しようとしました。しかし、13年間にもわたる「テロとの闘い」の末に、テロリズムは根絶できたのでしょうか?
イスラム国の台頭にみられるように、実際に起きていることは真逆に思えます。
アフガニスタンとイラクにおける戦争で亡くなった一般市民の数は、約17万人と推定されています。17万人と一口にいいますけど、その一人ひとりに人生があり、家族や友人がいたことを想像すると、めまいで倒れそうになります。
米軍は、人を殺した数だけ、街を破壊した分だけ、テロリスト予備軍を増やしているのではないでしょうか。そして、肉親や友人を殺された人々がアメリカに対する報復を誓い、あるいは同胞による報復行動に共感することで、イスラム国が力を得てきているのではないでしょうか。
この上イラクやシリアを空爆してさらなる犠牲者を出しても、問題は悪化するだけだと思います。日本も集団的自衛権の行使を容認すれば、アメリカのテロリスト撲滅作戦にフルに参加する可能性も充分に考えられますが、そうなったら本当に愚かで悲しいことだと思います。
Wednesday, January 21, 2015
米国の厭戦気分を吹き飛ばした「首切り映像」
「イスラム国」が日本人2名の身代金を要求する映像を流したのを受けて、以前メルマガ(14年9月)に書いた記事を転載します。いま読んでいただきたいと思ったので。
ーーー
Q:いつも分かりやすく、目から鱗の新たな視点を与えてくれるメルマガをありがとうございます。アメリカにお住まいの想田さんに伺いたいのですが、アメリカがシリアに空爆を始めましたが、これはアメリカ議会で承認されたのでしょうか。去年、化学兵器使用の問題でアメリカがシリアを攻撃しようとしたとき、議会で否決されて攻撃できなかったと記憶しているのですが、今回と何か違いがあるのでしょうか。また、政府に対する不信感や厭戦的な空気がアメリカ国民に広がっているような印象がありましたが、それに変化があったのでしょうか。アメリカが参戦するときの手続きや、今のアメリカの世論、空気といったものを教えて頂けると幸いです。(もし、想田さんに質問するのが適切でなかったら、申し訳ありません)
A:ご質問、ありがとうございます。
合衆国憲法上、正式な宣戦布告の権限は米国議会にあります。しかし一方で大統領には憲法によって軍の最高司令官(commander in chief)としての権限が与えられているので、限定的な軍事行動であれば議会の承認を得ず、大統領の独断で行ってよいと解釈されてきました。
そのため、「軍事介入」として始まったベトナム戦争も正式な宣戦布告を出すことなく、泥沼の戦争になってしまったわけですが、その反省の上に立ち、1973年に戦争権限法という法律が作られます。これにより、大統領は独断で軍事行動を起こせるけれども、武力行使をした48時間以内に議会へ報告することや、60日以内に議会からの承認を得ることなどが義務づけられました。
つまり昨年シリア攻撃の可能性が持ち上がった際にも、実はオバマ氏には事前に議会の承認を得る必要はなかったのです。だから彼がいきなり「議会の承認を求める」と発言した際には、みんなむしろ驚いたわけですね。
では、オバマ大統領はあのとき、なぜわざわざ議会の承認を求めたのでしょうか。
その背景には、オバマ氏自身がシリア攻撃に消極的だったことや、直前にイギリス議会でシリア攻撃が否決されたこと、アメリカの世論調査で約6割が攻撃に反対だったことなどがあったとみられています。攻撃をするなら、「アメリカ国民の了承の下で行った」という十分な正統性を確保したかったのでしょう。しかしあのときは、結局議会での採決を待たずに、オバマ氏自身が攻撃を中止して終わったと記憶しています。
僕がアメリカで暮らしている肌感覚からすると、大統領には法的には武力攻撃をする権限が与えられているのですが、実際に攻撃する際には、「世論」の動向を大変気にします。言い換えれば、アメリカ国民の大多数の支持なしには、アメリカ大統領といえども戦争をすることは困難です。国民の支持なしに戦争を始めることは、さすがに政治的なリスクが大きすぎるのです。
今回の「イスラム国」攻撃に際して、オバマ大統領は議会の承認を求めず、自らの権限で実行を決定しました。私見では、その背景にはやはりアメリカの世論の動向が大きく関係していると思います。9月始めにウォール・ストリート・ジャーナルとNBCが共同で行った世論調査によれば、61%が「イスラム国を攻撃することがアメリカの国益になる」と答えています。
http://blogs.wsj.com/…/wsjnbc-poll-americans-turn-hawkish-…/
では、なぜ1年前には厭戦的だったアメリカの世論が、急激に「攻撃支持」に傾いたのか?
ウォール・ストリート・ジャーナルも言及してるように、僕は世論調査の少し前に二人のアメリカ人ジャーナリストの「首切り処刑」のニュースが駆け巡り、多くの人が「あの映像」を目にしたことが決定的な理由だと思います。もっと言うと、仮にあのような映像を見せつけられてもオバマ大統領が何らかの軍事介入をしなかったとしたら、「弱腰だ」という批判が相当巻き起こっていたのではないでしょうか。
ここに「映像」の恐ろしさがあります。
映像には、見る者にある種の「疑似体験」を与え、感情を強く揺さぶる力があります(僕ら映画の作り手はその力を利用して作品を作ります)。あの「首切り処刑」の映像は、見る者が自分自身を被害者に投影しやすく、あたかも自分が首を切られたかのように感じるような、臨場感あふれる高精度なHD映像でした。よくできたのホラー映画のごとく、人間に強い恐怖の感情を喚起させる力があります。そして人間とはまだまだ知性よりも感情で行動する生き物ですので、感情を揺さぶられるとその勢いで重大な判断も行いがちなのです。
911事件のときにも同じことを感じました。周知の通り、あのときは世界貿易センターに飛行機が突っ込み、崩壊する映像をリアルタイムで全世界の人々が目撃してしまいました。当時すでにニューヨークに住んでいた僕も、テレビで何度も繰り返される映像を観ながらとてつもないショックを受け、恐怖と怒りの感情に激しく揺さぶられたものです。
あのとき米国世論が「アフガニスタン攻撃支持」に急速に傾き、約9割が賛成するに至ったのは、あの強烈な映像の存在なしには考えられません。広大な国土を持つアメリカですが、その隅々にいたるあらゆる米国人がテレビを通じてあの映像を同時に目撃し、いわば「自分自身に対する暴力」として疑似体験しました。
映像を目撃した人々は、当初はショックと悲しみに暮れていました。しかしすぐにそのエネルギーは怒りに転化し、「報復」に向かって団結していきました。個人主義を尊びバラバラに見えたアメリカの世論が、一瞬にして「米軍を支援しない人間はテロリストの味方だ」という雰囲気さえ醸し出していきました。僕はその様子を見ていて恐ろしくなり、アメリカから逃げ出したい気持ちに駆られたものです。いずれにせよ、映像とはときに恐るべき力を発揮するものなのです。
話がやや脱線しました。
私見では、もし今回「ジャーナリストの処刑」が文字のニュースとして伝わっただけで、あの「首切り映像」が流れなかったとしたら、米国世論がここまで厭戦気分から一転することはなかったと思います。
冷静に考えれば、アメリカ軍がイスラム国を攻撃すれば、子供を含めた現地の一般市民の犠牲は避けられず、よって米軍はイスラム国と同等かそれ以上の罪を犯すことになります。しかし映像によって喚起された強い感情は、そういう知的な考えを上書きしてしまうのです。
やりきれないのは、あの「首切り映像」が実はフェイクだったのではないかという疑いさえあることです。イギリスの新聞「テレグラフ」紙は、首を切る瞬間を映し出した映像が一種の特殊効果によるもので、実際の首切りはカメラが回っていないところで行われたのではないかという専門家の分析を紹介しています。
http://www.telegraph.co.uk/…/Foley-murder-video-may-have-be…
もしそれが本当だとしたら、アメリカ国民は偽の映像によって感情を揺さぶられ、攻撃支持に傾いていったということになります。
僕自身は、もしあの映像を流したのが本当にイスラム国だとしたら、なぜ彼らはわざわざ自らへの攻撃を誘発するような映像を流したのか、という点に非常に深い疑念を抱いています。映像の流布は、彼らの不利益になりこそすれ、利益にはならないように思うからです。
いずれにせよ、私たちは政治的文脈でインパクトのある映像を目にした際に、感情よりも知性を働かせるように、十分に気を付けなければなりません。今後日本政府が戦争参加への支持を日本国民に呼びかけるようなことがあれば、おそらく私たちの感情を強く動かすために、何らかの映像を流布させることになるのではないでしょうか。そういう映像が出てきたときに、私たちは我を忘れず、観察眼と知性を働かせるよう、格段の注意を払う必要があります。
ーーー
Q:いつも分かりやすく、目から鱗の新たな視点を与えてくれるメルマガをありがとうございます。アメリカにお住まいの想田さんに伺いたいのですが、アメリカがシリアに空爆を始めましたが、これはアメリカ議会で承認されたのでしょうか。去年、化学兵器使用の問題でアメリカがシリアを攻撃しようとしたとき、議会で否決されて攻撃できなかったと記憶しているのですが、今回と何か違いがあるのでしょうか。また、政府に対する不信感や厭戦的な空気がアメリカ国民に広がっているような印象がありましたが、それに変化があったのでしょうか。アメリカが参戦するときの手続きや、今のアメリカの世論、空気といったものを教えて頂けると幸いです。(もし、想田さんに質問するのが適切でなかったら、申し訳ありません)
A:ご質問、ありがとうございます。
合衆国憲法上、正式な宣戦布告の権限は米国議会にあります。しかし一方で大統領には憲法によって軍の最高司令官(commander in chief)としての権限が与えられているので、限定的な軍事行動であれば議会の承認を得ず、大統領の独断で行ってよいと解釈されてきました。
そのため、「軍事介入」として始まったベトナム戦争も正式な宣戦布告を出すことなく、泥沼の戦争になってしまったわけですが、その反省の上に立ち、1973年に戦争権限法という法律が作られます。これにより、大統領は独断で軍事行動を起こせるけれども、武力行使をした48時間以内に議会へ報告することや、60日以内に議会からの承認を得ることなどが義務づけられました。
つまり昨年シリア攻撃の可能性が持ち上がった際にも、実はオバマ氏には事前に議会の承認を得る必要はなかったのです。だから彼がいきなり「議会の承認を求める」と発言した際には、みんなむしろ驚いたわけですね。
では、オバマ大統領はあのとき、なぜわざわざ議会の承認を求めたのでしょうか。
その背景には、オバマ氏自身がシリア攻撃に消極的だったことや、直前にイギリス議会でシリア攻撃が否決されたこと、アメリカの世論調査で約6割が攻撃に反対だったことなどがあったとみられています。攻撃をするなら、「アメリカ国民の了承の下で行った」という十分な正統性を確保したかったのでしょう。しかしあのときは、結局議会での採決を待たずに、オバマ氏自身が攻撃を中止して終わったと記憶しています。
僕がアメリカで暮らしている肌感覚からすると、大統領には法的には武力攻撃をする権限が与えられているのですが、実際に攻撃する際には、「世論」の動向を大変気にします。言い換えれば、アメリカ国民の大多数の支持なしには、アメリカ大統領といえども戦争をすることは困難です。国民の支持なしに戦争を始めることは、さすがに政治的なリスクが大きすぎるのです。
今回の「イスラム国」攻撃に際して、オバマ大統領は議会の承認を求めず、自らの権限で実行を決定しました。私見では、その背景にはやはりアメリカの世論の動向が大きく関係していると思います。9月始めにウォール・ストリート・ジャーナルとNBCが共同で行った世論調査によれば、61%が「イスラム国を攻撃することがアメリカの国益になる」と答えています。
http://blogs.wsj.com/…/wsjnbc-poll-americans-turn-hawkish-…/
では、なぜ1年前には厭戦的だったアメリカの世論が、急激に「攻撃支持」に傾いたのか?
ウォール・ストリート・ジャーナルも言及してるように、僕は世論調査の少し前に二人のアメリカ人ジャーナリストの「首切り処刑」のニュースが駆け巡り、多くの人が「あの映像」を目にしたことが決定的な理由だと思います。もっと言うと、仮にあのような映像を見せつけられてもオバマ大統領が何らかの軍事介入をしなかったとしたら、「弱腰だ」という批判が相当巻き起こっていたのではないでしょうか。
ここに「映像」の恐ろしさがあります。
映像には、見る者にある種の「疑似体験」を与え、感情を強く揺さぶる力があります(僕ら映画の作り手はその力を利用して作品を作ります)。あの「首切り処刑」の映像は、見る者が自分自身を被害者に投影しやすく、あたかも自分が首を切られたかのように感じるような、臨場感あふれる高精度なHD映像でした。よくできたのホラー映画のごとく、人間に強い恐怖の感情を喚起させる力があります。そして人間とはまだまだ知性よりも感情で行動する生き物ですので、感情を揺さぶられるとその勢いで重大な判断も行いがちなのです。
911事件のときにも同じことを感じました。周知の通り、あのときは世界貿易センターに飛行機が突っ込み、崩壊する映像をリアルタイムで全世界の人々が目撃してしまいました。当時すでにニューヨークに住んでいた僕も、テレビで何度も繰り返される映像を観ながらとてつもないショックを受け、恐怖と怒りの感情に激しく揺さぶられたものです。
あのとき米国世論が「アフガニスタン攻撃支持」に急速に傾き、約9割が賛成するに至ったのは、あの強烈な映像の存在なしには考えられません。広大な国土を持つアメリカですが、その隅々にいたるあらゆる米国人がテレビを通じてあの映像を同時に目撃し、いわば「自分自身に対する暴力」として疑似体験しました。
映像を目撃した人々は、当初はショックと悲しみに暮れていました。しかしすぐにそのエネルギーは怒りに転化し、「報復」に向かって団結していきました。個人主義を尊びバラバラに見えたアメリカの世論が、一瞬にして「米軍を支援しない人間はテロリストの味方だ」という雰囲気さえ醸し出していきました。僕はその様子を見ていて恐ろしくなり、アメリカから逃げ出したい気持ちに駆られたものです。いずれにせよ、映像とはときに恐るべき力を発揮するものなのです。
話がやや脱線しました。
私見では、もし今回「ジャーナリストの処刑」が文字のニュースとして伝わっただけで、あの「首切り映像」が流れなかったとしたら、米国世論がここまで厭戦気分から一転することはなかったと思います。
冷静に考えれば、アメリカ軍がイスラム国を攻撃すれば、子供を含めた現地の一般市民の犠牲は避けられず、よって米軍はイスラム国と同等かそれ以上の罪を犯すことになります。しかし映像によって喚起された強い感情は、そういう知的な考えを上書きしてしまうのです。
やりきれないのは、あの「首切り映像」が実はフェイクだったのではないかという疑いさえあることです。イギリスの新聞「テレグラフ」紙は、首を切る瞬間を映し出した映像が一種の特殊効果によるもので、実際の首切りはカメラが回っていないところで行われたのではないかという専門家の分析を紹介しています。
http://www.telegraph.co.uk/…/Foley-murder-video-may-have-be…
もしそれが本当だとしたら、アメリカ国民は偽の映像によって感情を揺さぶられ、攻撃支持に傾いていったということになります。
僕自身は、もしあの映像を流したのが本当にイスラム国だとしたら、なぜ彼らはわざわざ自らへの攻撃を誘発するような映像を流したのか、という点に非常に深い疑念を抱いています。映像の流布は、彼らの不利益になりこそすれ、利益にはならないように思うからです。
いずれにせよ、私たちは政治的文脈でインパクトのある映像を目にした際に、感情よりも知性を働かせるように、十分に気を付けなければなりません。今後日本政府が戦争参加への支持を日本国民に呼びかけるようなことがあれば、おそらく私たちの感情を強く動かすために、何らかの映像を流布させることになるのではないでしょうか。そういう映像が出てきたときに、私たちは我を忘れず、観察眼と知性を働かせるよう、格段の注意を払う必要があります。