Friday, February 13, 2015

横浜市教育委員会が映画『標的の村』上映会の後援を取りやめたことについて

横浜市教育委員会が映画『標的の村』上映会の後援を取りやめたことについて、配給会社である合同会社東風の見解が出ています。
http://www.tongpoo-films.jp/news.html…

去年の8月、これと類似した事件が起きた際に書いたメルマガを以下に転載します。ここに書いたことが、今回の事件にもほぼ当てはまると考えています。

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市民団体主催 憲法イベント 調布市も後援難色
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014081590070054.html
2014年8月15日 東京新聞

 東京都調布市民らでつくる「調布九条の会『憲法ひろば』」が来年一月に企画している会の創立十周年記念イベントについて、調布市が集団的自衛権に反対している会の活動やイベント内容を理由に「後援は難しい」と伝えたことが分かった。同会は「理由が納得できない」として市側と話し合いを続ける意向を示している。
 イベントは作曲家の池辺晋一郎氏や憲法学者の奥平康弘氏、教育学者の堀尾輝久氏による憲法九条に関する座談会と、一般市民でつくる合唱団が池辺氏の指揮で平和に関する歌を披露する二部構成で企画。来年一月二十五日、市グリーンホールで開くことにしている。
 会によると、会関係者が先月末、長友貴樹市長に会った際にイベントの後援を相談。その後、市と会でやりとりする中で、市側が、後援申請に必要な会の規約がないことに加え、会の活動が「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動でないこと」とする市の後援要綱に反する可能性があり後援は難しいと指摘したという。
 市文化振興課の仁藤美保課長は「正式な手続きがなされていない段階。書類を整えて申請があれば、あらためて検討する」と話す。会のメンバー大野哲夫さん(76)は「憲法九条を守る活動だ。今回の後援は難しいとする市の考えをはっきりさせるため、今後も市と話し合いを続けたい」と話している。
 市民団体などが主催する憲法関連イベントの後援を、自治体が拒否する例は相次いでいる。
 護憲派の市民団体が今年開いた集会の後援申請について、千葉市や神戸市が拒否。東京都国立市も、八月二十三日に開かれる講座について「安倍内閣が憲法違反の法律を次々と成立させていることは周知の事実」などとするチラシの文言を理由に、後援しないと決めた。

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 このニュースを読みながら、なんだか現在の日本社会に奇妙な論理と空気が広がっているなあと思いました。
 そもそも日本が立憲民主主義国である以上、主権者が自国の政府に憲法を守るよう呼びかけるのは、例えば「道路交通法を守れ」というくらい当たり前の話で、本来ならば「政治」以前の問題だと信じます。「憲法を守れ」と唱えることは、その定義上、「民主主義を守れ」と唱えることと同義であり、したがって民主国家においては、あまりにも当たり前すぎて「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」にはならないはずなのです。
 加えて、公務員には憲法の遵守義務があります。憲法を守ろうと呼びかける市民の集会を後押しすることは、むしろ行政にとっては大事な任務であるはずであり、だからこそ、今までは自治体も護憲派のイベントを「後援」してきたのでしょう。
 ところが、第二次安倍政権が誕生して以来、状況がガラリと変わってしまいました。秘密保護法や集団的自衛権の問題にみられるように、憲法を守らない方針の政党が権力を握っている今の日本では、「憲法を守るかどうか」という問題は、実質的には「政治問題」になっており、「憲法を守れ(=民主主義を守れ)」と叫ぶことは、すでに「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」の範中に入れられてしまったようなのです。だからこそ、護憲派のイベントに「後援」を出すことに政治性を感じ取り、特定の政治勢力からの批判を恐れ、後援しないことを決めた自治体が頻出している。要するに彼らは、「政治的中立性を保つ」と言いつつ、立派な「政治判断」をしているわけです。
 まあ、公共の自治体が「憲法を破棄しろ!」と叫ぶようなイベントだけを応援するのも考えものですし、そういう意味では公的機関には何らかの方法で「政治的中立性」もしくは「公平性」を保ってもらわないと困ります。
 とはいえ、現在の彼らが採用している「少しでも政治的な色彩のある集会は徹底的に排除する」という方法論で政治的公平性を保とうとするやり方には、市民の活動や議論そのものを萎縮させてしまうという弊害があります。それは政治的な問題について、市民自身が主体的に考えたり、意見交換したりする機会を損ない、民主主義の成熟を妨げてしまうので、いかにも不味いように思います。したがって、自治体などの公的機関は、ぜひともそれとは別の方法で政治的公平性を保って欲しいのです。
 では、一体どんな方法が考えられるのか。
 僕からの提案は、今の自治体とは真逆の方法論を採ることです。つまり、「申請さえあれば、市民によるいかなる集会も後援する」という方針を堂々と打ち出すのです。
 護憲派の集会も、改憲派の集会も、脱原発派の集会も、原発推進派の集会も、全部「後援」して後押しをする。これなら公平です。あらゆる政治的活動を排除するのではなく、逆にあらゆる政治的活動を容認することで、「政治的中立性」を保つのです。
 僕はそれこそが、民主主義の、そして公的機関の「あるべき姿」だと思います。民主社会とは、政治的な意見を表明するのが憚られる社会ではなく、政治問題について偏った持論を遠慮なく語ってもそれが許容され、異なる意見の人間が共存できる社会であるはずです。民主国家である日本の自治体は、まさにそういう「多事争論の場」を用意したり、後押ししたりすべきだと思うのです。
 今の自治体がそれとは真逆の対応を採ろうとしていることの背景には、いったい何があるのでしょうか。僕には、日本人の多くが「公共」について誤ったイメージを抱いていることが、根っ子にあるように感じられます。
 多くの日本人は「公共」を「無色透明であること」と誤解していないでしょうか。だからこそ、ちょっとでも「色」のついたものは排除しようとする。しかし、僕に言わせれば「色」のついていないものなど、この世には一切存在しないのです。
 僕にとっての「公共」のイメージは、「無色透明」とは真逆のものです。つまり、赤や青や黄色や緑だけでなく、無数の中間色がひしめき合い、どんな「色」も排除されずに共存する空間です。ですから物凄くカラフルです。誰もが「自分自身でいること」を許容され、お互いがお互いを自分の色に塗りつぶしたりしない。お互いの違いを認めながらも、尊重し合う。それこそが本当の意味での「公共」の場なのではないでしょうか。
 自治体の方々には、公共の場を「もの言えぬ空間」にするのではく、「誰でも何でも言える空間」にしていく努力をしていただきたいものです。

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