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Friday, May 30, 2008
インタビューと会話
近年のアメリカのドキュメンタリーの多くは、Talking Head(直訳すると「しゃべる頭」)と呼ばれるインタビューを多用する(もちろん例外はある)。その頻繁な使われ方を観ていると、ドキュメンタリーを撮ることは、インタビューを撮ることであると考えられている節すらあるほどである。
事実、アメリカの多くのドキュメンタリストは、インタビューを主軸に据え、その隙間にB-Rollと呼ばれるインタビュー以外の映像を差し挟むことで作品を構成する。そもそも、インタビュー以外の映像をB-rollと呼ぶこと自体に、彼らのドキュメンタリー観が窺える。B-Movie(B級映画)という言葉があるように、Bはあくまでも脇役を表すのであり、主役はあくまでもA-Rollとしてのインタビューであることを示唆しているからである(もちろん、アメリカ人すべてがそう考えているわけではない)。
確かにインタビューは、ドキュメンタリーにとって強力な武器である。きちんとした戦略と哲学と技能を持ってやれば、作品を豊かにもしうる。特に被写体に密着する時間的・予算的な余裕がない場合には、頼りになる。被写体が状況や気持ちの要点をうまくまとめて喋ってくれれば、それだけで作品が成り立ち得るからである。それは、どんなに凡庸な映像しか撮れなくても、気の利いたナレーションをかぶせてしまえば、それなりに作品として成立してしまうことにもよく似ている。
しかし、便利なだけに、インタビューはドキュメンタリーを堕落させる要因にもなりうる。被写体の発言を制作者の都合のいいように繋ぎ合わせると、作品自体が身勝手になってしまうし、インタビューを論理だけでつなぎすぎると、コトが極度に単純化され、現実が持つ複雑で両義的な豊かさが失われてしまう。また、被写体がインタビューで心境を吐露すると、観客はそれだけで何かを理解した気になってしまう嫌いもある。たとえそのインタビューが、アリバイ的に被写体によって語られ、アリバイ的に制作者によって使われたものであっても、である。
そういう理由もあって、僕は『選挙』を撮るときに、インタビューを極力行わない方針で臨んだ。完成した作品のなかにも、ほとんど盛り込まないですんだし、そのことにかなり満足もした。だから、いま編集している『精神』を撮るときも、同じようにインタビューは行わず、ガラスで隔てられた傍観者に徹しようという心づもりでいた。
ところが、実際に撮影を始めてみると、精神科の患者さんたちは、僕を単なる傍観者として放っておいてはくれなかった。いくら僕が存在感を消そうと息をひそめても、カメラを回している僕に話しかけてくる。みんながあたかも僕がそこにいないかのように放っておいてくれた『選挙』の時とは大違いだ。しかも、患者さんたちがしてくれる話がすこぶる面白い。僕は困ったなあとは思いながらも、ある程度自然のなりゆきに身を任せながらカメラを回し続けた。そして、自分のスタイルを優先すべきなのか、撮れた素材の面白さを優先すべきなのか、自問自答しながら、第一回目の撮影期間を終えた。
そんな僕に、ある大きなヒントを与えてくれたドキュメンタリー映画がある。トロントの映画祭Hot Docsで観た、巨匠・エディ・ホニグマンの『Forever』である。この映画は、ショパンやプルーストなどが眠るパリの有名な墓地に訪れる人々にホニグマンがカメラを向け、インタビューするだけのシンプルな作りである。しかし、このインタビューがとにかく味わい深く、時に感動的であり、僕のインタビュー観を根本から変えた。
その特徴は、第一に、登場人物が極めてリラックスしていて、自然体である。カメラに向ってしゃべるときの独特のテンションが感じられない。
第二に、普通のインタビューなら真っ先にトリムされてしまいそうな、彼らが言い淀んだり、考えあぐねたりする「間」もカットされずにたっぷりと残されている。そのため、語り手の思考や感情の微妙な流れがリアルタイムで伝わってくる。話の内容=情報よりも、時間の流れそのものを感じる。
第三に、インタビューをした場所や文脈から離れて、それだけが切り離され独立して恣意的に使われることがない。
第四に、話の内容が説明的でなく、ときに意味することが曖昧で、両義的である。
僕は、登場人物の語りの面白さに圧倒されながら、映画を観終えた。そして、ホテルのロビーで見かけたホニグマンをつかまえ、彼女の映画が、とりわけインタビューがどれだけ素晴らしいか、興奮気味に伝えた。
巨匠は僕に「ありがとう」と言い、「私は登場人物の語りを"インタビュー"というよりも、私との"会話"であると考えている」と静かに付け加えた。この言葉は決定的だった。僕はそのとき、彼女のインタビュー、いや、会話がなぜ面白いのか、その秘密を一気に理解した。すなわち、ホニグマンが登場人物の語りを「インタビュー」ではなく「会話」と呼ぶことそのものに、彼女の姿勢や哲学、方法論が凝縮しているように思えたのである。
このことは、迷っていた『精神』の制作方針に自然な解答を与えてくれた。インタビューではなく、会話をするつもりで患者さんたちの話に耳を傾ければいいのである。
具体的に言えば、撮影のときには、インタビューでなければ訊かないような、純粋に取材者としての問いはなるべく避け、カメラを持っていなくてもそこにいる人間として訊くであろうと思われる質問だけをするよう心がけた。もちろん、実際にはカメラを持って回しているわけだから、あくまでも基本的な姿勢、僕の心構え、あるいは方法論としての話だが。そして、アリバイ的に何かを訊いておこう、という気持ちをグッと抑え、本当に訊ねたいことだけを訊ねるという姿勢を徹底させた。
また、編集では会話が行われた状況や場所、文脈を極力再現し、会話をシーンとして構築するように心がけた。言い換えれば、あたかも観客がその場に居合わせたかのような臨場感を味わえるように苦心した。そして、登場人物が放つ言葉の内容のみならず、そこに流れる時間や息づかいに着目し、沈黙や「間」を可能な限り大事に残した。同時に、僕が撮影中、知らず知らずのうちに「会話」ではなく「インタビュー」してしまっているものを選別し、なるべく削ぎ落としていった。
したがって『精神』には、表面的にはインタビューにみえる、僕と登場人物との会話が、かなりふんだんに盛り込まれている。だから、僕が標榜している「観察映画」にはなっていないんじゃないかという批判も、きっと出てくるに違いない。観察映画の源流であるダイレクト・シネマでは、基本的にインタビューという手法を採用しないからである。
しかし、観察映画の精神の本質は、対象への先入観を極力排して虚心坦懐に観察すること、そして観察の結果としての作品を一義的なメッセージに還元せず、観客それぞれの観察眼にゆだね、解釈を迫ることにある。そういう意味で、『精神』に観察映画の精神は生きていると、僕は信じている。『選挙』のように、観察者と被観察者が、あたかもガラスで仕切られているかのような関係性を結ぶ場合もあるし、『精神』のように、時にガラスが取り払われてごちゃ混ぜになる関係性になる場合もある。それだけの話だと思っている。
写真上=『Forever』のポスター
写真下=エディ・ホニグマンと筆者(トロントにて)
Thursday, May 29, 2008
宝探し
観察映画第2弾『精神』の編集作業は、今、そのおおよそが固まり、仕上げの段階に入っている。あとは英語字幕を付け、整音し、マスターを作るだけである。
ところが、この時期になると「ホントにこれでいいのか?」という疑念が沸々と湧いてくるのが常だから、映画作りとは平坦な道のりではない。締め切りのない自主制作では、なまじ手直しも永遠にできてしまうものだから、始末に悪い。
実際、僕はここ数日間、既に落としたシーンに宝物は混じっていないか、未練がましく掘り起こす作業を始めてしまった。すると、結構あるのである、宝物らしきものが。困ったこと?に。
とはいえ、それを映画に入れようとすると、文脈が乱れたり、冗長になったり、リズムが悪くなったりと、いろいろ不具合も出てくる。出て来てから、ああ、だから入れてなかったんだなあ、と妙に納得したりする。要するに、シーンを落としたのはもう何ヶ月も前のことだったりするから、落とした理由を忘れてしまっているのだ。
それでも、そのようなシーンは、もしかしたら僕が適切な文脈を見つけ出せないからあぶれているだけで、そのうちポンっとどこかにハマり、映画を格段に面白くする可能性もある。その見極めが難しい。
もうしばらく、僕は頭を悩まされそうである。
ところが、この時期になると「ホントにこれでいいのか?」という疑念が沸々と湧いてくるのが常だから、映画作りとは平坦な道のりではない。締め切りのない自主制作では、なまじ手直しも永遠にできてしまうものだから、始末に悪い。
実際、僕はここ数日間、既に落としたシーンに宝物は混じっていないか、未練がましく掘り起こす作業を始めてしまった。すると、結構あるのである、宝物らしきものが。困ったこと?に。
とはいえ、それを映画に入れようとすると、文脈が乱れたり、冗長になったり、リズムが悪くなったりと、いろいろ不具合も出てくる。出て来てから、ああ、だから入れてなかったんだなあ、と妙に納得したりする。要するに、シーンを落としたのはもう何ヶ月も前のことだったりするから、落とした理由を忘れてしまっているのだ。
それでも、そのようなシーンは、もしかしたら僕が適切な文脈を見つけ出せないからあぶれているだけで、そのうちポンっとどこかにハマり、映画を格段に面白くする可能性もある。その見極めが難しい。
もうしばらく、僕は頭を悩まされそうである。
Friday, May 16, 2008
Sid Bernstein Presents
友人でご近所さんで映画監督のジェイソンが、ビートルズやストーンズを世に送り出した伝説の興行師シッド・バーンステイン氏のドキュメンタリー「Sid Bernstein Presents」を撮った。このシッドさん、子供が日本に住んで日本人と結婚したりして、わが祖国との縁も深いらしい。
ところが、この作品には様々な名曲が出てくる。そりゃそうだ。音楽がテーマの映画だもんな。で、その使用権利を得るのに莫大な金がかかるという。ということで、寄付金を募っているそうです。この映画を観たいと思ったみなさん、じゃんじゃん寄付してください!
ところが、この作品には様々な名曲が出てくる。そりゃそうだ。音楽がテーマの映画だもんな。で、その使用権利を得るのに莫大な金がかかるという。ということで、寄付金を募っているそうです。この映画を観たいと思ったみなさん、じゃんじゃん寄付してください!
Thursday, May 15, 2008
世田谷美術館が熱い!
Sunday, May 11, 2008
ドキュメンタリーはフィクションか
ドキュメンタリー映画も作り物である以上、本当のことを映し出すわけではなく、一種のフィクションだという言い方が、最近よく聞かれる。森達也の好著『ドキュメンタリーは嘘をつく』はそれがメインテーマであったし、佐藤真が『現代思想』に寄せた遺稿「ドキュメンタリーもフィクションである」などは、題名からしてそのものズバリである。
たしかに、ドキュメンタリー映画も作り手による創作物である。作家がある現実を前にしたとき、カメラを回すのか、回さないのか、回すとしたらどの角度からどう撮るのか、撮った素材のうち何を使って何を使わないのか、シーンの順番はどうするのか、などと無数の決定を下す過程で、撮られた「現実」はバラバラに解体され、検討され、再構成されていく。同じ現実を10人の作家が別々に撮ったとしたら10通りの別々の作品が出来上がることは必然だし、ドキュメンタリー映画を作るという行為が極めて主観的かつ作為的であることは自明の理である。
それは「観察映画」を標榜する僕の映画でも全く変わらない。ナレーションや音楽を使わないことから、僕の映画には作為がなく、客観的であると思われがちだが、とんでもない誤解である。観察映画も、あくまでも観察の主体である僕の視点を通して描かれた主観的なものであり、究極的には、僕の作為によって練り上げられた創作物である。観察映画は、なるべく先入観を排して現実から虚心坦懐に学ぶ姿勢で撮られるが、撮る主体はあくまでも僕であり、僕の視点を通した観察の結果が映画になる。また、映画を観た観客が様々なことを考え、感じられるように作られているが、それは解釈の余地が広く開かれていることを意味するだけであり、映画が客観的真実を映し出しているわけではない。
観察映画を含めたドキュメンタリーのこのような性質は、論理的に考えてみれば当然すぎることであり、本来ならばわざわざ指摘するほどのことでもない。にもかかわらず、森や佐藤が熱心に語らなければならないのは、ドキュメンタリーといえば剥き出しの真実を映し出すものだと素朴に信じている人々があまりにも多いからである。それは、客観主義と「中立・公正」を標榜する、NHKをはじめとしたテレビ・ドキュメンタリーの悪しき影響でもある。だから、その信仰を打ち砕くための行為には意義があると思うし、異論を挟むつもりはない。
しかし、である。僕が懸念するのは、そういう議論に拍車がかかるあまり、ドキュメンタリーとフィクションを同一視しすぎる傾向が、特に作り手や専門家の間で強まっていることである。例えば、フィリピンのラーヤ・マーティンによる『オートヒステリア』などは、出てくる人物がすべて俳優で、すべてが演技である。僕に言わせれば、これは完全なフィクション映画だから、僕はそれをスペインのドキュメンタリー映画祭「プント・デ・ビスタ」で観るとは思わなかった。森達也の前掲書でも、イスラエルのアヴィ・モグラビによる『ハッピー・バースデー Mr.モグラビ』などを例に挙げ、たとえプロの役者が混じって演技している作品でも、ドキュメンタリーであると言いたげである。
けれども、プロの俳優を使った映画もドキュメンタリーと呼べるのなら、いったいドキュメンタリーとフィクションは何が違うのか。もしかしたら、「プント・デ・ビスタ」の主催者や森は、「違いは無い」と答えたいのかもしれない。しかし、もしそうなら、なぜわざわざ「プント・デ・ビスタ」は「ドキュメンタリー映画祭」を名乗り、森達也は自らを「ドキュメンタリー作家」と呼ぶのか。ドキュメンタリーとフィクションには、本当に何の違いも無いのか。あるいは、「無い」と考えてしまって、ドキュメンタリーは先細りしないのか。
ドキュメンタリーとフィクションの違いを考えるとき、いつも思い出すのが『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年、エドゥアルド・サンチェス、ダニエル・マイリック監督)というホラー映画である。この映画は、魔女伝説についての映画を撮ろうと森に入った学生3人が消息を絶ち、その後、彼らが撮影したビデオテープが発見された、というテロップで始まる。映画は、あたかも発見されたビデオテープをそのまま編集したかのように、つまり、ドキュメンタリーであるかのように展開される。実際には、それはすべて役者が演技したもので、ドキュメンタリーではないのだが、僕は何の前情報も無く映画館に入ったので、映画の中で起きる出来事のひとつひとつが恐ろしく、本気で怖かった。実際、配給会社はこれをフィクション映画であると意図的に公言せず、あたかもドキュメンタリーであるかのようにマーケティングを行ったため、僕も含めた観客は驚愕と戦慄に包まれ、全米興行収入1億4000万ドルという大ヒットを飛ばした。
ところが、この話には後日談がある。後に僕はこの映画がフィクション映画であったことを知り、もう一度ビデオで観たのだが、初見ではあれほど怖かった映画が、全く怖くも何ともなかったのである。むしろ、起きる出来事のひとつひとつがわざとらしくて安っぽく、こんなものに怖がらされたのかと思うと腹が立った。あれほどリアルに思えた役者の演技も、事実を知った上で観れば学生レベルの三流である。この経験には唖然とした。同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものかということを痛感させられたのである。
要するに、『ブレア・ウィッチ』は、映し出された学生達が現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた。そして実はこれは、ドキュメンタリー映画一般に当てはまる大原則なのである。
例えば、僕の『選挙』にしてみても、主人公の山内和彦や自民党の人々が、全くの架空の存在で、プロの役者であるとしたらどうか。作品としての魅力や意義は、おそらく限りなくゼロに近くなるだろう。第一、あれがフィクション映画だったら、あまりにもシーンが撮れてない。山さんのイジメられ方も、夫婦喧嘩も、あまりにも台詞や撮り方が控え目であり、脚本家や監督はいったい何をやっていたんだと思われるのがオチである。にもかかわらず、「あの夫婦喧嘩が面白かったねえ」と言う観客がいるのは、それが山内夫妻という実在の夫婦に、実際に起きた喧嘩を捉えたものであるという前提があるからに他ならない。『選挙』という作品や、その中で展開されるシーンのひとつひとつが、少しでも観客を惹き付けるとするならば、それは、山内和彦や小泉純一郎といった登場人物のすべてが実在し、撮られた出来事がノンフィクションであるからなのである。
その原理は、森達也の『A』でも、佐藤真の『阿賀に生きる』でも、全く同じことである。『A』に出てくるオウム信者やマスコミ関係者、『阿賀に生きる』のじっちゃんやばっちゃんたちが、すべてプロの俳優が演技する架空の人物であったことを想像してみればいい。それでも観客は、『A』や『阿賀に生きる』を同じように愛せるだろうか。
そもそも、ドキュメンタリー=フィクションでいいなら、ドキュメンタリーというジャンルがあることそのものがナンセンスである。ドキュメンタリーという分野が存在し、僕らを虜にするのは、実在する人物や状況を被写体とすることに、独特の面白さ、危うさ、残酷さがあるからである。また、自分の頭の中で脚本を創り上げるのではなく、作品の行く先を現実の流れにゆだねてしまうことによって、「事実は小説よりも奇なり」の正しさを証明するがごとく、作り手や観客の予想を超えた思いがけぬ展開が期待できるからである。
現実を素材にしながらも、そこに作り手の作為と世界観が入り込むことから、ドキュメンタリー作品は虚と実の間を振り子のごとく微妙に揺れ動く。ドキュメンタリーの在処が、単なる「虚」でも「実」でもなく、「虚と実の間」であることがミソである。その危ういバランスがいかにも怪しく、人を惹き付ける。そのことを忘れ、「虚」か「実」のどちらか一方に振り子が振り切ってしまった瞬間に、ドキュメンタリーは根本から崩壊しかねない。それに極めて自覚的になりながら、僕はドキュメンタリーを撮り続けていきたいと思う。
最後に断っておくが、これはドグマでも倫理観の表明でもない。面白い作品を作るための僕なりの戦略であり、方法論であると思っている。
たしかに、ドキュメンタリー映画も作り手による創作物である。作家がある現実を前にしたとき、カメラを回すのか、回さないのか、回すとしたらどの角度からどう撮るのか、撮った素材のうち何を使って何を使わないのか、シーンの順番はどうするのか、などと無数の決定を下す過程で、撮られた「現実」はバラバラに解体され、検討され、再構成されていく。同じ現実を10人の作家が別々に撮ったとしたら10通りの別々の作品が出来上がることは必然だし、ドキュメンタリー映画を作るという行為が極めて主観的かつ作為的であることは自明の理である。
それは「観察映画」を標榜する僕の映画でも全く変わらない。ナレーションや音楽を使わないことから、僕の映画には作為がなく、客観的であると思われがちだが、とんでもない誤解である。観察映画も、あくまでも観察の主体である僕の視点を通して描かれた主観的なものであり、究極的には、僕の作為によって練り上げられた創作物である。観察映画は、なるべく先入観を排して現実から虚心坦懐に学ぶ姿勢で撮られるが、撮る主体はあくまでも僕であり、僕の視点を通した観察の結果が映画になる。また、映画を観た観客が様々なことを考え、感じられるように作られているが、それは解釈の余地が広く開かれていることを意味するだけであり、映画が客観的真実を映し出しているわけではない。
観察映画を含めたドキュメンタリーのこのような性質は、論理的に考えてみれば当然すぎることであり、本来ならばわざわざ指摘するほどのことでもない。にもかかわらず、森や佐藤が熱心に語らなければならないのは、ドキュメンタリーといえば剥き出しの真実を映し出すものだと素朴に信じている人々があまりにも多いからである。それは、客観主義と「中立・公正」を標榜する、NHKをはじめとしたテレビ・ドキュメンタリーの悪しき影響でもある。だから、その信仰を打ち砕くための行為には意義があると思うし、異論を挟むつもりはない。
しかし、である。僕が懸念するのは、そういう議論に拍車がかかるあまり、ドキュメンタリーとフィクションを同一視しすぎる傾向が、特に作り手や専門家の間で強まっていることである。例えば、フィリピンのラーヤ・マーティンによる『オートヒステリア』などは、出てくる人物がすべて俳優で、すべてが演技である。僕に言わせれば、これは完全なフィクション映画だから、僕はそれをスペインのドキュメンタリー映画祭「プント・デ・ビスタ」で観るとは思わなかった。森達也の前掲書でも、イスラエルのアヴィ・モグラビによる『ハッピー・バースデー Mr.モグラビ』などを例に挙げ、たとえプロの役者が混じって演技している作品でも、ドキュメンタリーであると言いたげである。
けれども、プロの俳優を使った映画もドキュメンタリーと呼べるのなら、いったいドキュメンタリーとフィクションは何が違うのか。もしかしたら、「プント・デ・ビスタ」の主催者や森は、「違いは無い」と答えたいのかもしれない。しかし、もしそうなら、なぜわざわざ「プント・デ・ビスタ」は「ドキュメンタリー映画祭」を名乗り、森達也は自らを「ドキュメンタリー作家」と呼ぶのか。ドキュメンタリーとフィクションには、本当に何の違いも無いのか。あるいは、「無い」と考えてしまって、ドキュメンタリーは先細りしないのか。
ドキュメンタリーとフィクションの違いを考えるとき、いつも思い出すのが『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年、エドゥアルド・サンチェス、ダニエル・マイリック監督)というホラー映画である。この映画は、魔女伝説についての映画を撮ろうと森に入った学生3人が消息を絶ち、その後、彼らが撮影したビデオテープが発見された、というテロップで始まる。映画は、あたかも発見されたビデオテープをそのまま編集したかのように、つまり、ドキュメンタリーであるかのように展開される。実際には、それはすべて役者が演技したもので、ドキュメンタリーではないのだが、僕は何の前情報も無く映画館に入ったので、映画の中で起きる出来事のひとつひとつが恐ろしく、本気で怖かった。実際、配給会社はこれをフィクション映画であると意図的に公言せず、あたかもドキュメンタリーであるかのようにマーケティングを行ったため、僕も含めた観客は驚愕と戦慄に包まれ、全米興行収入1億4000万ドルという大ヒットを飛ばした。
ところが、この話には後日談がある。後に僕はこの映画がフィクション映画であったことを知り、もう一度ビデオで観たのだが、初見ではあれほど怖かった映画が、全く怖くも何ともなかったのである。むしろ、起きる出来事のひとつひとつがわざとらしくて安っぽく、こんなものに怖がらされたのかと思うと腹が立った。あれほどリアルに思えた役者の演技も、事実を知った上で観れば学生レベルの三流である。この経験には唖然とした。同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものかということを痛感させられたのである。
要するに、『ブレア・ウィッチ』は、映し出された学生達が現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた。そして実はこれは、ドキュメンタリー映画一般に当てはまる大原則なのである。
例えば、僕の『選挙』にしてみても、主人公の山内和彦や自民党の人々が、全くの架空の存在で、プロの役者であるとしたらどうか。作品としての魅力や意義は、おそらく限りなくゼロに近くなるだろう。第一、あれがフィクション映画だったら、あまりにもシーンが撮れてない。山さんのイジメられ方も、夫婦喧嘩も、あまりにも台詞や撮り方が控え目であり、脚本家や監督はいったい何をやっていたんだと思われるのがオチである。にもかかわらず、「あの夫婦喧嘩が面白かったねえ」と言う観客がいるのは、それが山内夫妻という実在の夫婦に、実際に起きた喧嘩を捉えたものであるという前提があるからに他ならない。『選挙』という作品や、その中で展開されるシーンのひとつひとつが、少しでも観客を惹き付けるとするならば、それは、山内和彦や小泉純一郎といった登場人物のすべてが実在し、撮られた出来事がノンフィクションであるからなのである。
その原理は、森達也の『A』でも、佐藤真の『阿賀に生きる』でも、全く同じことである。『A』に出てくるオウム信者やマスコミ関係者、『阿賀に生きる』のじっちゃんやばっちゃんたちが、すべてプロの俳優が演技する架空の人物であったことを想像してみればいい。それでも観客は、『A』や『阿賀に生きる』を同じように愛せるだろうか。
そもそも、ドキュメンタリー=フィクションでいいなら、ドキュメンタリーというジャンルがあることそのものがナンセンスである。ドキュメンタリーという分野が存在し、僕らを虜にするのは、実在する人物や状況を被写体とすることに、独特の面白さ、危うさ、残酷さがあるからである。また、自分の頭の中で脚本を創り上げるのではなく、作品の行く先を現実の流れにゆだねてしまうことによって、「事実は小説よりも奇なり」の正しさを証明するがごとく、作り手や観客の予想を超えた思いがけぬ展開が期待できるからである。
現実を素材にしながらも、そこに作り手の作為と世界観が入り込むことから、ドキュメンタリー作品は虚と実の間を振り子のごとく微妙に揺れ動く。ドキュメンタリーの在処が、単なる「虚」でも「実」でもなく、「虚と実の間」であることがミソである。その危ういバランスがいかにも怪しく、人を惹き付ける。そのことを忘れ、「虚」か「実」のどちらか一方に振り子が振り切ってしまった瞬間に、ドキュメンタリーは根本から崩壊しかねない。それに極めて自覚的になりながら、僕はドキュメンタリーを撮り続けていきたいと思う。
最後に断っておくが、これはドグマでも倫理観の表明でもない。面白い作品を作るための僕なりの戦略であり、方法論であると思っている。
Thursday, May 08, 2008
Back to New York
昨晩、日本からニューヨークに帰ってきた。 時差ぼけ真っ最中。 なんだか忙しかったなあ、今回の日本も。
このごろよく想うんだけど、 昨年2月に『選挙』をベルリン映画祭で公開して以来、 僕はずっとお祭りに参加しているような気がする。映画祭=お祭りのあるところに出向いてばかりなんだから、 当たり前っちゃ当たり前だ。
テンションが上がりっ放しの生活は楽しいし、 起きる出来事はどれもが一期一会的で特別な感じがするんだけど、 いかんせん脳のキャパが限られているのか、 あった出来事を次から次へと忘れていく自分に唖然とさせられる。
このままお祭りの飽和状態が続いたら、いったいどうなっちゃうんだろう。 お祭りがお祭りであるためには、平々凡々とした日常が必要だ。 それに飢えている自分がいる。
Friday, May 02, 2008
日本でのあれこれ
日本に一時帰国して以来思いのほか忙しく、ブログも書くヒマがなかった。ということで、いくつかの出来事を手短に。
4月16日は、世田谷美術館で開かれている横尾忠則展のオープニングに行った。大学時代の同級生・塚田美紀さんが担当学芸員!だからというわけではないけど、非常に見応えある展覧会だった。美術館の2フロアを使い、約500点を展示。ユーモアと茶目っ気と可愛らしさとシュールな不可解さがごった煮になった横尾ワールドに引き込まれた。とにかく面白い。6月15日まで。横尾さんご本人もおられたので、彼を背景に(!)、塚田さんと彼女の旦那さんの写真をパチリ。なんと豪華なバックグラウンド。それにしても、同級生が良い仕事をしていると、嬉しくなるし、刺激になる。
4月21日は、武蔵野美大で『選挙』の上映と特別講義を行った。映画監督で友人の高橋直治さんのお誘いで実現したのだが、こんなに好き勝手しゃべっていいのかなあというくらい、しゃべりまくってしまった。映像を学ぶ学生が相手だと、かなり専門的で難しい話もできるから、普段とは違う面白さがある。とにかく楽しかった。
家族と温泉にも行った。
4月24日は、川喜多財団の坂野さんにお会いした。ロンドンでの記念イベントの打ち合わせである。この日は、他にもいろんな方にお会いした。
4月26日は、河瀬直美さんのドキュメンタリー作品DVD Box 発売記念トークイベントにゲストとして呼ばれ、紀伊国屋ホールで河瀬さんと対談した。前の日に作品を観て臨んだせいか喋りに熱が入り、客席で観ていたカミさんに「あんた、しゃべりすぎ」と言われ冷や汗。
4月28日から、3日間だけ岡山へ出向いた。観察映画シリーズ第2弾『精神』の舞台となった診療所の先生やスタッフの方々、患者さんたちにお会いして、プロジェクトの進行状況などについて報告した。僕の姿を見るなり「映画、できたんですか?!」と駆け寄ってきた人もいた。また、僕が岡山に来たことをどこかで聞きつけた山陽新聞の記者さんからも取材され、関心の高さを実感した。本当にありがたいことである。
5月1日は、劇作家で演出家の平田オリザさんにお会いした。観察映画シリーズ第3弾『青年団(仮題)』の撮影許可を得るためである。ご快諾いただいたので、実現に向け大きく前進した。プロジェクトの趣旨を平田さんに説明したところ、「亡くなった佐藤真さんも同じような企画を考えておられたんですよ」と言われたのでビックリした。そして、深い因縁を感じた。これから撮影の日程をつめていく。
明日、5月3日は、足利映像祭で『選挙』が上映される。山さんも来場予定。楽しみである。
実家の猫・チビ
4月16日は、世田谷美術館で開かれている横尾忠則展のオープニングに行った。大学時代の同級生・塚田美紀さんが担当学芸員!だからというわけではないけど、非常に見応えある展覧会だった。美術館の2フロアを使い、約500点を展示。ユーモアと茶目っ気と可愛らしさとシュールな不可解さがごった煮になった横尾ワールドに引き込まれた。とにかく面白い。6月15日まで。横尾さんご本人もおられたので、彼を背景に(!)、塚田さんと彼女の旦那さんの写真をパチリ。なんと豪華なバックグラウンド。それにしても、同級生が良い仕事をしていると、嬉しくなるし、刺激になる。
4月21日は、武蔵野美大で『選挙』の上映と特別講義を行った。映画監督で友人の高橋直治さんのお誘いで実現したのだが、こんなに好き勝手しゃべっていいのかなあというくらい、しゃべりまくってしまった。映像を学ぶ学生が相手だと、かなり専門的で難しい話もできるから、普段とは違う面白さがある。とにかく楽しかった。
家族と温泉にも行った。
4月24日は、川喜多財団の坂野さんにお会いした。ロンドンでの記念イベントの打ち合わせである。この日は、他にもいろんな方にお会いした。
4月26日は、河瀬直美さんのドキュメンタリー作品DVD Box 発売記念トークイベントにゲストとして呼ばれ、紀伊国屋ホールで河瀬さんと対談した。前の日に作品を観て臨んだせいか喋りに熱が入り、客席で観ていたカミさんに「あんた、しゃべりすぎ」と言われ冷や汗。
4月28日から、3日間だけ岡山へ出向いた。観察映画シリーズ第2弾『精神』の舞台となった診療所の先生やスタッフの方々、患者さんたちにお会いして、プロジェクトの進行状況などについて報告した。僕の姿を見るなり「映画、できたんですか?!」と駆け寄ってきた人もいた。また、僕が岡山に来たことをどこかで聞きつけた山陽新聞の記者さんからも取材され、関心の高さを実感した。本当にありがたいことである。
5月1日は、劇作家で演出家の平田オリザさんにお会いした。観察映画シリーズ第3弾『青年団(仮題)』の撮影許可を得るためである。ご快諾いただいたので、実現に向け大きく前進した。プロジェクトの趣旨を平田さんに説明したところ、「亡くなった佐藤真さんも同じような企画を考えておられたんですよ」と言われたのでビックリした。そして、深い因縁を感じた。これから撮影の日程をつめていく。
明日、5月3日は、足利映像祭で『選挙』が上映される。山さんも来場予定。楽しみである。
実家の猫・チビ