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Friday, May 30, 2008
インタビューと会話
近年のアメリカのドキュメンタリーの多くは、Talking Head(直訳すると「しゃべる頭」)と呼ばれるインタビューを多用する(もちろん例外はある)。その頻繁な使われ方を観ていると、ドキュメンタリーを撮ることは、インタビューを撮ることであると考えられている節すらあるほどである。
事実、アメリカの多くのドキュメンタリストは、インタビューを主軸に据え、その隙間にB-Rollと呼ばれるインタビュー以外の映像を差し挟むことで作品を構成する。そもそも、インタビュー以外の映像をB-rollと呼ぶこと自体に、彼らのドキュメンタリー観が窺える。B-Movie(B級映画)という言葉があるように、Bはあくまでも脇役を表すのであり、主役はあくまでもA-Rollとしてのインタビューであることを示唆しているからである(もちろん、アメリカ人すべてがそう考えているわけではない)。
確かにインタビューは、ドキュメンタリーにとって強力な武器である。きちんとした戦略と哲学と技能を持ってやれば、作品を豊かにもしうる。特に被写体に密着する時間的・予算的な余裕がない場合には、頼りになる。被写体が状況や気持ちの要点をうまくまとめて喋ってくれれば、それだけで作品が成り立ち得るからである。それは、どんなに凡庸な映像しか撮れなくても、気の利いたナレーションをかぶせてしまえば、それなりに作品として成立してしまうことにもよく似ている。
しかし、便利なだけに、インタビューはドキュメンタリーを堕落させる要因にもなりうる。被写体の発言を制作者の都合のいいように繋ぎ合わせると、作品自体が身勝手になってしまうし、インタビューを論理だけでつなぎすぎると、コトが極度に単純化され、現実が持つ複雑で両義的な豊かさが失われてしまう。また、被写体がインタビューで心境を吐露すると、観客はそれだけで何かを理解した気になってしまう嫌いもある。たとえそのインタビューが、アリバイ的に被写体によって語られ、アリバイ的に制作者によって使われたものであっても、である。
そういう理由もあって、僕は『選挙』を撮るときに、インタビューを極力行わない方針で臨んだ。完成した作品のなかにも、ほとんど盛り込まないですんだし、そのことにかなり満足もした。だから、いま編集している『精神』を撮るときも、同じようにインタビューは行わず、ガラスで隔てられた傍観者に徹しようという心づもりでいた。
ところが、実際に撮影を始めてみると、精神科の患者さんたちは、僕を単なる傍観者として放っておいてはくれなかった。いくら僕が存在感を消そうと息をひそめても、カメラを回している僕に話しかけてくる。みんながあたかも僕がそこにいないかのように放っておいてくれた『選挙』の時とは大違いだ。しかも、患者さんたちがしてくれる話がすこぶる面白い。僕は困ったなあとは思いながらも、ある程度自然のなりゆきに身を任せながらカメラを回し続けた。そして、自分のスタイルを優先すべきなのか、撮れた素材の面白さを優先すべきなのか、自問自答しながら、第一回目の撮影期間を終えた。
そんな僕に、ある大きなヒントを与えてくれたドキュメンタリー映画がある。トロントの映画祭Hot Docsで観た、巨匠・エディ・ホニグマンの『Forever』である。この映画は、ショパンやプルーストなどが眠るパリの有名な墓地に訪れる人々にホニグマンがカメラを向け、インタビューするだけのシンプルな作りである。しかし、このインタビューがとにかく味わい深く、時に感動的であり、僕のインタビュー観を根本から変えた。
その特徴は、第一に、登場人物が極めてリラックスしていて、自然体である。カメラに向ってしゃべるときの独特のテンションが感じられない。
第二に、普通のインタビューなら真っ先にトリムされてしまいそうな、彼らが言い淀んだり、考えあぐねたりする「間」もカットされずにたっぷりと残されている。そのため、語り手の思考や感情の微妙な流れがリアルタイムで伝わってくる。話の内容=情報よりも、時間の流れそのものを感じる。
第三に、インタビューをした場所や文脈から離れて、それだけが切り離され独立して恣意的に使われることがない。
第四に、話の内容が説明的でなく、ときに意味することが曖昧で、両義的である。
僕は、登場人物の語りの面白さに圧倒されながら、映画を観終えた。そして、ホテルのロビーで見かけたホニグマンをつかまえ、彼女の映画が、とりわけインタビューがどれだけ素晴らしいか、興奮気味に伝えた。
巨匠は僕に「ありがとう」と言い、「私は登場人物の語りを"インタビュー"というよりも、私との"会話"であると考えている」と静かに付け加えた。この言葉は決定的だった。僕はそのとき、彼女のインタビュー、いや、会話がなぜ面白いのか、その秘密を一気に理解した。すなわち、ホニグマンが登場人物の語りを「インタビュー」ではなく「会話」と呼ぶことそのものに、彼女の姿勢や哲学、方法論が凝縮しているように思えたのである。
このことは、迷っていた『精神』の制作方針に自然な解答を与えてくれた。インタビューではなく、会話をするつもりで患者さんたちの話に耳を傾ければいいのである。
具体的に言えば、撮影のときには、インタビューでなければ訊かないような、純粋に取材者としての問いはなるべく避け、カメラを持っていなくてもそこにいる人間として訊くであろうと思われる質問だけをするよう心がけた。もちろん、実際にはカメラを持って回しているわけだから、あくまでも基本的な姿勢、僕の心構え、あるいは方法論としての話だが。そして、アリバイ的に何かを訊いておこう、という気持ちをグッと抑え、本当に訊ねたいことだけを訊ねるという姿勢を徹底させた。
また、編集では会話が行われた状況や場所、文脈を極力再現し、会話をシーンとして構築するように心がけた。言い換えれば、あたかも観客がその場に居合わせたかのような臨場感を味わえるように苦心した。そして、登場人物が放つ言葉の内容のみならず、そこに流れる時間や息づかいに着目し、沈黙や「間」を可能な限り大事に残した。同時に、僕が撮影中、知らず知らずのうちに「会話」ではなく「インタビュー」してしまっているものを選別し、なるべく削ぎ落としていった。
したがって『精神』には、表面的にはインタビューにみえる、僕と登場人物との会話が、かなりふんだんに盛り込まれている。だから、僕が標榜している「観察映画」にはなっていないんじゃないかという批判も、きっと出てくるに違いない。観察映画の源流であるダイレクト・シネマでは、基本的にインタビューという手法を採用しないからである。
しかし、観察映画の精神の本質は、対象への先入観を極力排して虚心坦懐に観察すること、そして観察の結果としての作品を一義的なメッセージに還元せず、観客それぞれの観察眼にゆだね、解釈を迫ることにある。そういう意味で、『精神』に観察映画の精神は生きていると、僕は信じている。『選挙』のように、観察者と被観察者が、あたかもガラスで仕切られているかのような関係性を結ぶ場合もあるし、『精神』のように、時にガラスが取り払われてごちゃ混ぜになる関係性になる場合もある。それだけの話だと思っている。
写真上=『Forever』のポスター
写真下=エディ・ホニグマンと筆者(トロントにて)
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