Thursday, May 14, 2009

恐るべきバレンボイム

昨晩カーネギー・ホールにて、ダニエル・バレンボイム指揮・ベルリン国立歌劇場管弦楽団の演奏で、マーラーの交響曲第7番を聴いて来た。

ベルリンで知己を得たトランペット奏者がこのオケの長年のメンバーで、今回もいらしていたので聴きに行かせてもらったのであるが、素晴らしいの一言であった。

バレンボイムは前から凄い人だと思っていたけど、やっぱりこの人は恐ろしい。

彼の意識がオーケストラの隅々にまで行き届いていて、指揮棒や身体の動きが、そのまま音楽になって出てくる感じ。まるで巨大なオケがひとつの楽器のようである。かといって全体主義的で硬直した感はなく、オケのメンバーの個性や多様性がそのまま活かされていて、極小の音から極大の音まで、音のバラエティと面白さには感服するものがあった。僕には音楽のことは分からないけど、凄いもんは凄い!って感じであった。

コンサートの後で前述のトランぺッターとご飯を食べながら、上記のような感想を述べた。

彼いわく、バレンボイムは音楽に関しては半端ない厳しさで、稽古時でも1回間違えたら表情を変え、2回間違えたら睨みつけられ、3回間違えたらクビになるそうである。しかも、毎回振り方やリズムを変えるので、譜面を観ながらではなく、バレンボイムの動きを常に観ながら演奏しないといけない。しかもバレンボイムは、演奏者の予測を常に裏切るような解釈をし続けるので、「この演奏でいい」と安住できないのだそうである。裏を返せば、バレンボイムも「これでいい」と落ち着く瞬間がないのであろう。

僕はそれを聞いて、バレンボイムの演奏の凄まじさの秘密を垣間みた気がした。

演奏会のプログラムにバレンボイムによるマーラーについての論考があったが、それを読んで「やっぱりな」と2度納得した。その一部分をざっと訳してみる。
音楽を解釈する際には、その作品のあらゆる側面を軽視してはならない。偉大な才能の偉大たるゆえんは、彼がどんな細部にも、必要以上の重要性を付す意志と能力があるからである。しかし、そこで終わってはならない。イデオロギーになってはならない。イデオロギーとは「アイデアのシステム化」であると言えるが、システムは規範として機能し、思考停止を呼び起こし、アイデアの本質を殺してしまう。アイデアとは、常に発展し続けるものだからである。

こんな茨の道を、この人はよく歩んでいるなあ、それでよく病気になったりしないなあと、心の底から畏怖してしまう。

比べるのも厚かましいんだけど、僕などは、「常に発展し続ける」ことを思うだけで疲れてしまい、どこかで手を打ちたくなる。やっぱり最後は体力勝負なのか。

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