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Sunday, May 11, 2008

ドキュメンタリーはフィクションか

ドキュメンタリー映画も作り物である以上、本当のことを映し出すわけではなく、一種のフィクションだという言い方が、最近よく聞かれる。森達也の好著『ドキュメンタリーは嘘をつく』はそれがメインテーマであったし、佐藤真が『現代思想』に寄せた遺稿「ドキュメンタリーもフィクションである」などは、題名からしてそのものズバリである。

たしかに、ドキュメンタリー映画も作り手による創作物である。作家がある現実を前にしたとき、カメラを回すのか、回さないのか、回すとしたらどの角度からどう撮るのか、撮った素材のうち何を使って何を使わないのか、シーンの順番はどうするのか、などと無数の決定を下す過程で、撮られた「現実」はバラバラに解体され、検討され、再構成されていく。同じ現実を10人の作家が別々に撮ったとしたら10通りの別々の作品が出来上がることは必然だし、ドキュメンタリー映画を作るという行為が極めて主観的かつ作為的であることは自明の理である。

それは「観察映画」を標榜する僕の映画でも全く変わらない。ナレーションや音楽を使わないことから、僕の映画には作為がなく、客観的であると思われがちだが、とんでもない誤解である。観察映画も、あくまでも観察の主体である僕の視点を通して描かれた主観的なものであり、究極的には、僕の作為によって練り上げられた創作物である。観察映画は、なるべく先入観を排して現実から虚心坦懐に学ぶ姿勢で撮られるが、撮る主体はあくまでも僕であり、僕の視点を通した観察の結果が映画になる。また、映画を観た観客が様々なことを考え、感じられるように作られているが、それは解釈の余地が広く開かれていることを意味するだけであり、映画が客観的真実を映し出しているわけではない。

観察映画を含めたドキュメンタリーのこのような性質は、論理的に考えてみれば当然すぎることであり、本来ならばわざわざ指摘するほどのことでもない。にもかかわらず、森や佐藤が熱心に語らなければならないのは、ドキュメンタリーといえば剥き出しの真実を映し出すものだと素朴に信じている人々があまりにも多いからである。それは、客観主義と「中立・公正」を標榜する、NHKをはじめとしたテレビ・ドキュメンタリーの悪しき影響でもある。だから、その信仰を打ち砕くための行為には意義があると思うし、異論を挟むつもりはない。

しかし、である。僕が懸念するのは、そういう議論に拍車がかかるあまり、ドキュメンタリーとフィクションを同一視しすぎる傾向が、特に作り手や専門家の間で強まっていることである。例えば、フィリピンのラーヤ・マーティンによる『オートヒステリア』などは、出てくる人物がすべて俳優で、すべてが演技である。僕に言わせれば、これは完全なフィクション映画だから、僕はそれをスペインのドキュメンタリー映画祭「プント・デ・ビスタ」で観るとは思わなかった。森達也の前掲書でも、イスラエルのアヴィ・モグラビによる『ハッピー・バースデー Mr.モグラビ』などを例に挙げ、たとえプロの役者が混じって演技している作品でも、ドキュメンタリーであると言いたげである。

けれども、プロの俳優を使った映画もドキュメンタリーと呼べるのなら、いったいドキュメンタリーとフィクションは何が違うのか。もしかしたら、「プント・デ・ビスタ」の主催者や森は、「違いは無い」と答えたいのかもしれない。しかし、もしそうなら、なぜわざわざ「プント・デ・ビスタ」は「ドキュメンタリー映画祭」を名乗り、森達也は自らを「ドキュメンタリー作家」と呼ぶのか。ドキュメンタリーとフィクションには、本当に何の違いも無いのか。あるいは、「無い」と考えてしまって、ドキュメンタリーは先細りしないのか。

ドキュメンタリーとフィクションの違いを考えるとき、いつも思い出すのが『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年、エドゥアルド・サンチェス、ダニエル・マイリック監督)というホラー映画である。この映画は、魔女伝説についての映画を撮ろうと森に入った学生3人が消息を絶ち、その後、彼らが撮影したビデオテープが発見された、というテロップで始まる。映画は、あたかも発見されたビデオテープをそのまま編集したかのように、つまり、ドキュメンタリーであるかのように展開される。実際には、それはすべて役者が演技したもので、ドキュメンタリーではないのだが、僕は何の前情報も無く映画館に入ったので、映画の中で起きる出来事のひとつひとつが恐ろしく、本気で怖かった。実際、配給会社はこれをフィクション映画であると意図的に公言せず、あたかもドキュメンタリーであるかのようにマーケティングを行ったため、僕も含めた観客は驚愕と戦慄に包まれ、全米興行収入1億4000万ドルという大ヒットを飛ばした。

ところが、この話には後日談がある。後に僕はこの映画がフィクション映画であったことを知り、もう一度ビデオで観たのだが、初見ではあれほど怖かった映画が、全く怖くも何ともなかったのである。むしろ、起きる出来事のひとつひとつがわざとらしくて安っぽく、こんなものに怖がらされたのかと思うと腹が立った。あれほどリアルに思えた役者の演技も、事実を知った上で観れば学生レベルの三流である。この経験には唖然とした。同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものかということを痛感させられたのである。

要するに、『ブレア・ウィッチ』は、映し出された学生達が現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた。そして実はこれは、ドキュメンタリー映画一般に当てはまる大原則なのである。

例えば、僕の『選挙』にしてみても、主人公の山内和彦や自民党の人々が、全くの架空の存在で、プロの役者であるとしたらどうか。作品としての魅力や意義は、おそらく限りなくゼロに近くなるだろう。第一、あれがフィクション映画だったら、あまりにもシーンが撮れてない。山さんのイジメられ方も、夫婦喧嘩も、あまりにも台詞や撮り方が控え目であり、脚本家や監督はいったい何をやっていたんだと思われるのがオチである。にもかかわらず、「あの夫婦喧嘩が面白かったねえ」と言う観客がいるのは、それが山内夫妻という実在の夫婦に、実際に起きた喧嘩を捉えたものであるという前提があるからに他ならない。『選挙』という作品や、その中で展開されるシーンのひとつひとつが、少しでも観客を惹き付けるとするならば、それは、山内和彦や小泉純一郎といった登場人物のすべてが実在し、撮られた出来事がノンフィクションであるからなのである。

その原理は、森達也の『A』でも、佐藤真の『阿賀に生きる』でも、全く同じことである。『A』に出てくるオウム信者やマスコミ関係者、『阿賀に生きる』のじっちゃんやばっちゃんたちが、すべてプロの俳優が演技する架空の人物であったことを想像してみればいい。それでも観客は、『A』や『阿賀に生きる』を同じように愛せるだろうか。

そもそも、ドキュメンタリー=フィクションでいいなら、ドキュメンタリーというジャンルがあることそのものがナンセンスである。ドキュメンタリーという分野が存在し、僕らを虜にするのは、実在する人物や状況を被写体とすることに、独特の面白さ、危うさ、残酷さがあるからである。また、自分の頭の中で脚本を創り上げるのではなく、作品の行く先を現実の流れにゆだねてしまうことによって、「事実は小説よりも奇なり」の正しさを証明するがごとく、作り手や観客の予想を超えた思いがけぬ展開が期待できるからである。

現実を素材にしながらも、そこに作り手の作為と世界観が入り込むことから、ドキュメンタリー作品は虚と実の間を振り子のごとく微妙に揺れ動く。ドキュメンタリーの在処が、単なる「虚」でも「実」でもなく、「虚と実の間」であることがミソである。その危ういバランスがいかにも怪しく、人を惹き付ける。そのことを忘れ、「虚」か「実」のどちらか一方に振り子が振り切ってしまった瞬間に、ドキュメンタリーは根本から崩壊しかねない。それに極めて自覚的になりながら、僕はドキュメンタリーを撮り続けていきたいと思う。

最後に断っておくが、これはドグマでも倫理観の表明でもない。面白い作品を作るための僕なりの戦略であり、方法論であると思っている。

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