Thursday, February 26, 2015

ローラ・ポイトラス監督の「Citizenfour」


ローラ・ポイトラス監督の「CItizenfour」がアカデミー賞のドキュメンタリー賞を受賞しましたね。遅ればせながら、めでたい!その記念(?)に、以前メルマガに書いた文章を転載します。

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 今週は、まだ日本では公開されていない、というより、まだたぶん公開も決まっていない最新のドキュメンタリー映画をお勧めします。お勧めしてもすぐには観ることができないのがネックなのですが、たまにはこういうのもいいでしょう(笑)。

 その映画は、「Citizenfour」(2014年、アメリカ/ドイツ、ローラ・ポイトラス監督)といいます。アメリカの国家安全保障局(NSA)による大規模な市民監視プログラムの存在を暴露し、世界中を震撼させたあのエドワード・スノーデン氏についてのドキュメンタリーです。

 実は監督のローラは、僕にとっては個人的な知り合いです。というか、僕が2007年に処女作『選挙』をベルリン国際映画祭でプレミア公開する際、いろいろとアドバイスをしてくれた“先輩”です(アメリカには先輩・後輩という概念がないので彼女をこう呼ぶのも奇妙な感じがしますが)。ただ、その後何度かお会いしてはいたものの、ここ2、3年は疎遠になっていました。

 そのローラの新作がニューヨークの映画館で公開される。題材はあのスノーデンだ。そう知ったのは、この映画に僕を誘ってくれた友人のお陰です。

 「おおっ、ローラの新作か。観なくちゃ。でもスノーデンにどうやって連絡を取ったのだろう。連絡したら最後、アメリカ政府のウォッチリストに入れられちゃうな」

 などと呑気にも思った僕は、本当に間抜けでした。映画を見て遅ればせながら知ったことですが、ローラは「ウォッチリストに入れられちゃう」どころか、ウォッチリストに入っていたからこそ、この映画を撮れたのです。というより、ローラはあの大事件の「共犯者」ともいえる存在だったのです!

 ことの顛末はこうです。

 2013年、スノーデン氏は、NSAによる市民監視プログラムを内部告発するため、信頼できるジャーナリストに情報と証拠を提供したいと考えていました。そこでまずは英「ガーディアン」紙のジャーナリスト、グレン・グリーンウォルド氏に匿名のメールを出します。「重要な情報を渡したいが、このままでは検閲されてしまうので、まずはメール用の暗号プログラムをインストールしてくれ」という内容です。しかしグリーンウォルド氏は取り合いませんでした。

 そこでスノーデン氏が次にコンタクトしたのが、ローラです。

 ローラの出世作は、アメリカ占領下のイラクの生活を描き、アカデミー賞にもノミネートされた『My Country, My Country』(2006年)という作品です。彼女は本作を撮って以来、アメリカの国土安全保障省のウォッチリストに入れられ、アメリカに入国するたびに尋問を受けたりパソコンや携帯電話などを押収されたりしていました。また、ローラは2012年、別のNSAの内部告発者にインタビューした短編ドキュメンタリー『The Program』を発表していました。そのような経歴の彼女を、スノーデン氏は情報の提供先として最適だと考えたのです。

 映画の題名にもなった「Citizenfour」という名を語るスノーデン氏から連絡を受けたローラは、氏の要求通りに暗号プログラムをインストールし、コミュニケーションを開始します。同時に、グリーンウォルド氏にも事の重大性を伝え、暗号プログラムを用い、コミュニケーションに参加してもらいます。そして、2013年、ローラとグリーンヲルド氏はついに香港でスノーデン氏に面会するのです。

 つまり映画『Citizenfour』は、香港でのスノーデン氏との最初の出会いから9日間に渡る取材の過程を、リアルタイムで密着して撮ったドキュメンタリーです。

 それだけでめちゃくちゃ凄くないですか?

 僕はてっきり、スノーデン氏の告発の過程を事後的なインタビューを通じて描くような作品だと勝手に思っていたので、映画を観ながら口をあんぐり開けっぱなしでした。あの歴史に残る重大事件の真ん中にローラのカメラがあり、その顛末を「第三者」としてというよりも、当事者として記録している。ものすごい快挙です。

 覚えてらっしゃる方も多いと思いますが、あのときスノーデン氏は一気に情報を開示するのではなく、毎日少しずつ、グリーンウォルド氏の記事を通じて重大な告発をしていきましたよね。その記事が出るたびに、世界中のメディアが大騒ぎで後追い報道をする。映画には、その過程が全部映っていて、スノーデン氏とグリーンウォルド氏は世間の反応をテレビで眺めながら、「次はどういう記事を出そうか」なんてことを相談したりするのです!

 こんなドキュメンタリー、いくら頑張って撮ろうと思っても、おいそれと撮れるようなものではありません。奇跡だと思います。同時に、スノーデン氏のみならず、母国アメリカの政府を完全に敵に回してでもこの作品を作り公開したローラの勇気と鉄の意志に、感嘆せざるを得ません。

 ローラは最近、ニューヨークからベルリンへ移住しました。この作品もベルリンで編集したそうです。たしかにアメリカで編集してたら、素材を没収される可能性がありますからね。

 まあ、とにかく日本でも公開されたらぜひご覧ください。映画史上、最高傑作の部類に入る作品だと思います。

Friday, February 13, 2015

横浜市教育委員会が映画『標的の村』上映会の後援を取りやめたことについて

横浜市教育委員会が映画『標的の村』上映会の後援を取りやめたことについて、配給会社である合同会社東風の見解が出ています。
http://www.tongpoo-films.jp/news.html…

去年の8月、これと類似した事件が起きた際に書いたメルマガを以下に転載します。ここに書いたことが、今回の事件にもほぼ当てはまると考えています。

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市民団体主催 憲法イベント 調布市も後援難色
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014081590070054.html
2014年8月15日 東京新聞

 東京都調布市民らでつくる「調布九条の会『憲法ひろば』」が来年一月に企画している会の創立十周年記念イベントについて、調布市が集団的自衛権に反対している会の活動やイベント内容を理由に「後援は難しい」と伝えたことが分かった。同会は「理由が納得できない」として市側と話し合いを続ける意向を示している。
 イベントは作曲家の池辺晋一郎氏や憲法学者の奥平康弘氏、教育学者の堀尾輝久氏による憲法九条に関する座談会と、一般市民でつくる合唱団が池辺氏の指揮で平和に関する歌を披露する二部構成で企画。来年一月二十五日、市グリーンホールで開くことにしている。
 会によると、会関係者が先月末、長友貴樹市長に会った際にイベントの後援を相談。その後、市と会でやりとりする中で、市側が、後援申請に必要な会の規約がないことに加え、会の活動が「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動でないこと」とする市の後援要綱に反する可能性があり後援は難しいと指摘したという。
 市文化振興課の仁藤美保課長は「正式な手続きがなされていない段階。書類を整えて申請があれば、あらためて検討する」と話す。会のメンバー大野哲夫さん(76)は「憲法九条を守る活動だ。今回の後援は難しいとする市の考えをはっきりさせるため、今後も市と話し合いを続けたい」と話している。
 市民団体などが主催する憲法関連イベントの後援を、自治体が拒否する例は相次いでいる。
 護憲派の市民団体が今年開いた集会の後援申請について、千葉市や神戸市が拒否。東京都国立市も、八月二十三日に開かれる講座について「安倍内閣が憲法違反の法律を次々と成立させていることは周知の事実」などとするチラシの文言を理由に、後援しないと決めた。

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 このニュースを読みながら、なんだか現在の日本社会に奇妙な論理と空気が広がっているなあと思いました。
 そもそも日本が立憲民主主義国である以上、主権者が自国の政府に憲法を守るよう呼びかけるのは、例えば「道路交通法を守れ」というくらい当たり前の話で、本来ならば「政治」以前の問題だと信じます。「憲法を守れ」と唱えることは、その定義上、「民主主義を守れ」と唱えることと同義であり、したがって民主国家においては、あまりにも当たり前すぎて「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」にはならないはずなのです。
 加えて、公務員には憲法の遵守義務があります。憲法を守ろうと呼びかける市民の集会を後押しすることは、むしろ行政にとっては大事な任務であるはずであり、だからこそ、今までは自治体も護憲派のイベントを「後援」してきたのでしょう。
 ところが、第二次安倍政権が誕生して以来、状況がガラリと変わってしまいました。秘密保護法や集団的自衛権の問題にみられるように、憲法を守らない方針の政党が権力を握っている今の日本では、「憲法を守るかどうか」という問題は、実質的には「政治問題」になっており、「憲法を守れ(=民主主義を守れ)」と叫ぶことは、すでに「特定の政党を支持し、もしくはこれに反対するための政治活動」の範中に入れられてしまったようなのです。だからこそ、護憲派のイベントに「後援」を出すことに政治性を感じ取り、特定の政治勢力からの批判を恐れ、後援しないことを決めた自治体が頻出している。要するに彼らは、「政治的中立性を保つ」と言いつつ、立派な「政治判断」をしているわけです。
 まあ、公共の自治体が「憲法を破棄しろ!」と叫ぶようなイベントだけを応援するのも考えものですし、そういう意味では公的機関には何らかの方法で「政治的中立性」もしくは「公平性」を保ってもらわないと困ります。
 とはいえ、現在の彼らが採用している「少しでも政治的な色彩のある集会は徹底的に排除する」という方法論で政治的公平性を保とうとするやり方には、市民の活動や議論そのものを萎縮させてしまうという弊害があります。それは政治的な問題について、市民自身が主体的に考えたり、意見交換したりする機会を損ない、民主主義の成熟を妨げてしまうので、いかにも不味いように思います。したがって、自治体などの公的機関は、ぜひともそれとは別の方法で政治的公平性を保って欲しいのです。
 では、一体どんな方法が考えられるのか。
 僕からの提案は、今の自治体とは真逆の方法論を採ることです。つまり、「申請さえあれば、市民によるいかなる集会も後援する」という方針を堂々と打ち出すのです。
 護憲派の集会も、改憲派の集会も、脱原発派の集会も、原発推進派の集会も、全部「後援」して後押しをする。これなら公平です。あらゆる政治的活動を排除するのではなく、逆にあらゆる政治的活動を容認することで、「政治的中立性」を保つのです。
 僕はそれこそが、民主主義の、そして公的機関の「あるべき姿」だと思います。民主社会とは、政治的な意見を表明するのが憚られる社会ではなく、政治問題について偏った持論を遠慮なく語ってもそれが許容され、異なる意見の人間が共存できる社会であるはずです。民主国家である日本の自治体は、まさにそういう「多事争論の場」を用意したり、後押ししたりすべきだと思うのです。
 今の自治体がそれとは真逆の対応を採ろうとしていることの背景には、いったい何があるのでしょうか。僕には、日本人の多くが「公共」について誤ったイメージを抱いていることが、根っ子にあるように感じられます。
 多くの日本人は「公共」を「無色透明であること」と誤解していないでしょうか。だからこそ、ちょっとでも「色」のついたものは排除しようとする。しかし、僕に言わせれば「色」のついていないものなど、この世には一切存在しないのです。
 僕にとっての「公共」のイメージは、「無色透明」とは真逆のものです。つまり、赤や青や黄色や緑だけでなく、無数の中間色がひしめき合い、どんな「色」も排除されずに共存する空間です。ですから物凄くカラフルです。誰もが「自分自身でいること」を許容され、お互いがお互いを自分の色に塗りつぶしたりしない。お互いの違いを認めながらも、尊重し合う。それこそが本当の意味での「公共」の場なのではないでしょうか。
 自治体の方々には、公共の場を「もの言えぬ空間」にするのではく、「誰でも何でも言える空間」にしていく努力をしていただきたいものです。

Monday, February 02, 2015

「声明」の途中経過です

途中経過です。下のリンクに「声明文」への現時点での賛同人が掲載されています。まだ受け付けてますので、賛同してくださる言論、報道人、表現者の方々は、メールhanyokusan@gmail.comでその旨をお伝えください。「表現者」とは、FBやツイッターのみで活動されている方でも、ご自分を表現者と考える方はみなさんを含みます。

http://hanyokusan.blogspot.jp/2015/02/blog-post_84.html

今回は、僕も含めた何人かの個人が「このまま黙ってるのはまずいよね。声明文を出そうか」という話になって自然発生的に生じた動きですので、声明文の叩き台は僕が書いたものの、「呼びかけ人」や「発起人」は設けないことにしました。僕も含めてみなさん「賛同者」という位置付けです。これからも増える予定ですので、到着順の掲載です。

個人的に「肩書きはどうされます?」とお聞きしてお答えいただいた方もおられるので、できれば掲載させていただきたかったのですが、文中にあるように、作業量の限界で「肩書きなし」になりました。わざわざ教えてくださった方々には申し訳ないです。これも自然発生的に走りながら考えていることから生じた不備ですが、なにとぞご理解いただき、温かい目で見守っていただければと存じます。m(._.)m

ニューヨークにいる僕は、9日の記者会見にも出席できないのですが、こちらも平にご容赦いただければ幸いです。

Sunday, February 01, 2015

翼賛体制構築に抗するという「声明」

ISIS「イスラム国」による人質事件をめぐる状況について、翼賛体制構築に抗するという「声明」を準備し、言論や報道、表現に携わる方々の賛同を募っています。今のところ宮台真司、岩上安身、田中龍作、古賀茂明、今井一さんらが賛同者。

声明案の叩き台は僕が作成しました。9日に参議院議員会館で記者会見をします。

声明文(案)

私たちは「ISIS(イスラム国)」による卑劣極まりない邦人人質惨殺事件を強く非難し、抗議するものである。また、この憎しみと暴力の連鎖の帰結として起きた事件が、さらなる憎しみや暴力の引き金となることを恐れている。

同時に、事件発生以来、現政権の施策・行動を批判することを自粛する空気が日本社会やマスメディア、国会議員までをも支配しつつあることに、重大な危惧を憶えざるを得ない。

「このような非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」「人命尊重を第一に考えるなら、政権の足を引っ張るような行為はしてはならない」「いま政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」

そのような理屈で、政権批判を非難する声も聞こえる。

だが、こうした理屈には重大な問題が潜んでいる。

まず、実際の日本政府の行動や施策が、必ずしも人質の解放に寄与するものとは限らず、人質の命を危うくすることすらあり得るということだ。であるならば、政府の行動や施策は、主権者や国会議員(立法府)やマスメディアによって常に監視・精査・検証され、批判されるべき事があれば批判されるのは当然の事であろう。

また、「非常時」であることを理由に政権批判を自粛すべきだという理屈を認めてしまうなら、原発事故や大震災などを含めあらゆる「非常時」に政権批判をすることができなくなってしまう。たとえば、日本が他国と交戦状態に入ったときなどにも、「今、政権を批判すれば、敵を利するだけ」「非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」という理屈を認めざるを得なくなり、結果的に「翼賛体制」の構築に寄与せざるを得なくなるだろう。

しかし、そうなってしまっては、他国を侵略し日本を焼け野原にした戦時体制とまったく同じではないか? 70 数年前もこうして「物言えぬ空気」が作られ、私たちの国は破滅へ向かったのではなかったか?

実際、テレビで政権批判をすると、発言者や局に対してネットなどを通じて「糾弾」の動きが起こり、現場の人々に圧力がかかっている。

問題なのは、政権批判を自粛ないし非難する人々に、自らがすでに「翼賛体制」の一部になりつつあるとの自覚が薄いようにみえることである。彼らは自らの行動を「常識的」で「大人」の対応だと信じているようだが、本当にそうであろうか?私たちは、今こそ想像力を働かせ、歴史を振り返り、過去と未来に照らし合わせて自らの行動を検証し直す必要があるのではないだろうか?

日本国憲法第 21 条には、次のように記されている。

「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」

日本国憲法第 12 条には、次のようにも記されている。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」

私たちは、この日本国憲法の精神を支持し尊重する。そしてこの精神は、「非常時」であるときにこそ、手厚く守られ尊重されなければならないと考えている。なぜなら「非常時」にこそ、問題の解決のためには、様々な発想や見方、考え方が必要とされるからである。

私たち言論・表現活動に携わる者は、政権批判の「自粛」という悪しき流れに身をゆだねず、この流れを堰き止めようと考える。誰が、どの党が政権を担おうと、自身の良心にのみ従い、批判すべきだと感じ、考えることがあれば、今後も、臆さずに書き、話し、描くことを宣言する。

2015 年 2 月 9 日

※9日の会見時には(案)をはずしますが、大きな動きがあれば、一部を差し替える可
能性があります。

http://ref-info.com/hanyokusan/

・当面、賛同する言論、報道人、表現者は、メールhanyokusan@gmail.comでその旨を伝えて下さい(公開します)…といったPRの仕方で、仲間・賛同者を増やそうと考えています。ぜひ賛同してください。また、仲間を増やしてください。
・記者会見は2月9日月曜日の17時~18時、参議院議員会館内
(なお、簡易ホームページは2月3日に開設します)