Sunday, July 22, 2012

Peace DVD 7/28にリリース! Peace DVD to be released on July 28


『Peace』のDVDが7月28日にリリースされます。アマゾン等で予約受付中!ライムスター宇多丸さんと想田の撮りおろしロング対談ほか、合計138分の特典映像!本編(75分)の2倍近くあるじゃん汗。日本語(岡山弁)、英語、スペイン語、フランス語字幕付き。

Peace DVD is to be released on July 28th! You can order now on Amazon.co.jo. The main movie comes with Japanese, English, Spanish, and French subtitles!



Thursday, July 19, 2012

8/8鼎談 in 大阪のお知らせ

8月8日 18時半〜20時半
内田樹先生 × 小暮宣雄先生 x 想田和弘
「異色の顔あわせ3人による“究極の文化論”―オリンピックを凌ぐ意外性―」
@大阪市立「住まいの情報センター」
〒530-0041 大阪府大阪市北区天神橋6-4-20 3F
最寄り駅大阪市営谷町線 天神橋筋六丁目 3号出口 直結 大阪環状線 天満 徒歩 7分
協力券1500円。

ちょっと考えただけでも、めっちゃ緊張するわ〜。大丈夫か、オレ???

→チケットぴあ

Monday, July 16, 2012

原発に関するパブコメ提出

エネルギー政策に関するパブコメ(パブリックコメント)を出した。もちろん「2030年までに原発ゼロにする」を選択。本来、全原発の廃炉の作業に即刻着手すべきであり、「2030年までに」というのには不満があるが、他の選択肢を選んだ人が多くて原発を残されちゃかなわない。提出期限は8月12日まで。

原発に関するパブリックコメントを書こうという人は、このサイトを参考にするとよい。ガイドや皆のコメント例もついてて分かり易い。投稿する前に読んどくんだった汗。
http://bit.ly/Lu4KKj

因みに、僕が書き込んだ意見は下記。

2030年までに原発をゼロにする。ゼロになるのが早ければ早い程よい。政治は今こそ決断すべきである。
原発を15%や20−25%に減らしても、原発事故が起きるリスクは多少は低くなっても、ゼロにはならない。特にいま日本は地震の活動期に入ったといわれている。その中で原発を残すことは自殺行為である。福島のような事故がもう一度起きたら、日本は壊滅する。 
また、10万年から100万年は厳重に管理せねばならないといわれる放射性廃棄物の処理方法も全く解決されていない。地層が不安定な日本のいったいどこにどのように埋めるというのか。「トイレのないマンション」のまま、これ以上、放射性廃棄物を作ることは未来の世代に対する犯罪である。普通の原発以上に危険でトラブル続きの「もんじゅ」をあてにした核燃料再処理システムも、実現できる見込みは極めて低く、絵空事といえる。 
以上の理由から、日本は原発ときっぱりと手を切るべきである。原発を無くすことは理想論ではない。それこそが最も現実的な選択である。

Saturday, July 07, 2012

『演劇』2部作について

東京で『演劇1』『演劇2』(観察映画第3弾、第4弾)のマスコミ試写が始まりました。7月中に大阪でも試写をします。僕は8月にキャンペーンで日本に行きます。この秋から、シアター・イメージフォーラムなどで全国順次公開です。合計5時間42分の大長編です。

この映画について書いた文章をここに載せます。

『演劇』2部作について
想田和弘

劇作家・演出家である平田オリザ率いる青年団の演劇を初めて観たのは、2000年10月のニューヨーク公演である。その際上演された、平田の岸田戯曲賞受賞作『東京ノート』(1994年初演)に、強い衝撃を受けた。

ひとことで言えば、それは現実世界を原寸大で再現した、精密モデルのような演劇だった。即興かと思われるほど、リアルな台詞。俳優たちの自然な発話、動作。いわゆる芝居臭さや、押し付けがましいメッセージ性は皆無。演劇にとって枝葉末節な要素を徹底的に削ぎ落としつつ、真に演劇的であるものだけを残したような骨太さ。限りなく無色透明に思えるのに、同時に作者の強い世界観も感じられる不思議な感覚。

観たままの世界をそのまま切り取ることは、現実にカメラを向けるドキュメンタリーですら困難な仕事だが、平田作品はそれを舞台上で難なくやってのけているように見えた。そんなことがどうして可能なのか。何かとてつもない作品を観たような気がした。ただ、目前の作品が、たまたま出来あがった偶然の傑作なのか、それとも作り手の確固たる思想と方法論に基づくものなのか、その時点では判別しがたかった。

2006年3月、青年団は再びニューヨークにやってきた。上演された『ヤルタ会談』と『忠臣蔵・OL編』を観た瞬間、僕は遅まきながら確信した。

「これは絶対に偶然ではない!」

直感の正しさを確かめるため、上演会場で売っていた平田の著書を数冊買い込み、むさぼるように読んだ。そして読みながら、戦慄で鳥肌が立ったのを昨日のことのように憶えている。平田作品に即興はなく、僕が観たどの作品も、稽古場から生まれて確立した方法論と組織論、そして平田独特の世界観に基づいて、極めて精密に構築されていたのである。しかもその創造的実験は80年代後半からたゆまなく続けられていた。僕は呆れるほど遅れて彼らに出会ったに過ぎない。自らの不明を恥じた。僕は演劇については全くの素人だが、表現にたずさわる人間の端くれとして、平田オリザという芸術家に強烈に惹かれた。

私見では、一貫した方法論と哲学に基づいて作品を作り出すという意味で、平田演劇はモダンダンスの巨匠・マース・カニングハムを思わせた。また、盤石の方法論とスタイルで組織を描き続けるドキュメンタリー映画界の怪物・フレデリック・ワイズマンをも想起させた。いずれも僕がこよなく尊敬する偉大な芸術家である。平田オリザが、いかなるメッセージにも奉仕せず世界の描写に徹している姿勢や、多作である点も、両巨匠に似ていると思う。

僕は青年団と平田オリザの活動に並々ならぬ関心を寄せた。許されるなら、彼らの創作現場をつぶさに観察してみたい。そう、思うようになった。そして2008年、友人で俳優の近藤強氏が青年団に入団した事実を知ったのをきっかけに、僕は平田オリザ氏にコンタクトを取り、本企画が実現したわけである。

撮影は、2008年7月から、2009年3月まで、断続的に行われた。撮影の延べ日数は約60日。この間に撮影された演目は合計9本に及び、約307時間の映像素材を得た。1日に最高9時間もカメラが回ったこともある。

撮影は、基本的に僕が一人で行った。これまでの観察映画の方法論通り、台本を作らず、事前の打ち合わせを最小限にして、即興的にカメラを回した。撮影をすることが決まってからは平田の著書を読むことを自らに禁じ、なるべく内容も忘れて、目の前に展開する現実から虚心に学ぶことを心がけた。

膨大な映像素材を編集するのに、これも断続的に約2年間かかった。その過程で、とても1本の作品にはまとめられないことが分かった。最終的には、それぞれ3時間近い、2本の長い映画になった。

『演劇1』では、平田演劇の哲学や方法論を描くことに専念した。平田はどのような演劇観に基づき、いかにして戯曲を量産するのか。演劇を精密に構築するために、平田は稽古場で俳優に何を要求し、俳優はどういう技術を用いて、どう応えるのか。ともに演劇世界を作り出す、照明や舞台美術はどうか。そして、作品を継続的に作って世の中に送り出す装置としての劇団を、平田はどのようにデザインし、どう運営しているのか。約80人が所属する芸術家集団としての青年団をひとつの生き物のようにとらえながら、「平田オリザの世界」を徹底解剖しようとしたわけである。

リアルな演劇を作る方法論を描くことは、必然的に「リアルとは何か」を問い直すことでもある。そしてその裏生地として「虚構とは何か」「演劇とは何か」「演じることとは何か」を問う作業でもある。そもそも、人類はその誕生以来、少なくとも古代ギリシャ時代から、演劇という営みを続けてきたわけだが、それはなぜだろうか。青年団の活動を描くことを通じて、演劇の本質、演劇の原初的な形態に少しでも迫りたいと思った。

『演劇1』で描いたのが「平田オリザの世界」だとすれば、『演劇2』は「平田オリザと世界」と要約できるだろう。青年団は観客の鑑賞体験を最大化するため、基本的に200席以上の劇場では公演を打たない。観客動員が期待できるスターシステムも採用しない。約60人の俳優と約20人のスタッフを抱えながら、そうした禁欲的な制約を自らに課すことは経済的には茨の道であるはずだ。その折り合いを、平田オリザと青年団はどのようにつけ、どのような生き残り戦略を持っているのか。平田は、政界や行政、教育現場に積極的に関わることでも知られているが、そうしたいわば、平田いわく「自分の作品のみならず演劇界を支えるための活動」の現場では、どんなことが起きつつあるのか。

『2』では、演劇と社会、いや、究極的には芸術と社会の関係を問うことになった。それはとりもなおさず、演劇を通して現代社会を見つめ直す作業でもあり、拙作『選挙』や『精神』ともオーバーラップする世界が垣間見えたと思う。そういう意味では、『選挙』『精神』『演劇』は3部作として観ることができるだろう。

僕は平田演劇に魅せられたファンである。だからこそ、撮影と編集の過程を通じて常に念じていたことがある。

「青年団や平田オリザを礼賛するだけのPR映画にはしない」 

それを避けるためには、平田オリザという強烈な個性を持った芸術家と、青年団という芸術家集団を、いったん解体し、僕なりに再構成する必要があった。撮影や編集を始めた当初は、被写体にねじ伏せられるばかりで、それがほとんどできずに苦しんだ。最終的に成功したかどうかの判断は観客にゆだねるが、極めて困難かつスリリングな作業であったことを最後に記しておく。

Thursday, July 05, 2012

多数派と少数派

最近つくづく感じるのは、社会の多数派が動くには「みんながそう言っているかどうか」が決定的に重要で、言われている内容は関係がないということ。例えばマスコミ一社がまともな主張をしても動かない。だけど全社が言い出したら、内容はどうあれ途端に多数派は動きだす。それが多数派の行動基準。

つまり多数派は、自分が多数派に属するように、マイノリティにならないように、自らの意見や行動を形作る。ということは、少数意見がどんなに真っ当でも、それを採用したりはしない。すくなくとも採用したことを公にはしない。自分がマイノリティになってしまうから。

マイノリティになること。これは多数派が最も恐れることかもしれない。なぜなら、多数派は多数派であることをアイデンティティにしているところがある。あるいはニッチ(住処)にしている。逆もまた真なりで、僕みたいに万年マイノリティの人間は、自分が多数派になることを警戒している。

こうした行動基準は、たぶん群れを作る動物としての本能と関わりがある。だから多数派が多数であることに、そして少数派が少数であることにニッチを見出すことは、基本的には未来永劫、変わらないような気がしている。

じゃあ社会の主流の価値観も永久に変わらないのかといえば、そうではない。多数派は多数であることを行動基準にするわけだから、少数派の意見だったものが、何かの拍子に多数派の意見になることはあり得る。というか、人類の歴史はつねにそうであり続けたのではないか。

「民主主義」という価値観だって、最初はものすごく少数派だったはずだ。しかしそれが様々な出来事の積み重ねを経て、そして何かのはずみで「みんな民主主義が良いって言ってるから民主主義でいこうよ」という風に、人間社会がターンをした。その変化の潮目がなんだったのか。個人的に、とても興味がある。


(ツイッターのつぶやきを再構成しました)

Tuesday, July 03, 2012

「夜」というコンセプト

さっき「文明社会の中では季節の変化に対する感性が鈍くなって一年が均質化する」ことについて書いたが、実はそれは「夜」についてもいえる。近日公開される映画『眠れぬ夜の仕事図鑑』(ニコラス・ゲイハルター監督)を観て思った。いま日本でこのツイートを読んでる人はみんなそうですが、現代人は「夜」も侵蝕されているんですよ。

「夜」は長い人類の歴史の中で、ずっと「休む時間」だったんですね。というか、休む以外になかった。真っ暗なんだもん笑。夜と昼は、全然異質な時間だったはずなんです。しかし今はどうか。あんまり関係ないですね、夜か昼かなんて。だからずっと昼間のように振るまっている。「夜」の侵蝕です。

思えば、僕は「本当の闇」というものをほとんど経験していません。唯一経験したのは、バリ島の村祭りに、現地で知り合った人に連れていってもらったときですね。道中、電気がなく月も出てないので、真っ暗闇。信じられないでしょうが、ホントに何も見えない。物凄く怖かったです。これが「闇」なのかと、初めて思った。それまで僕は「闇」のなんたるかを、知らなかったんです。

そしてそのとき初めて、僕は「妖怪」とか「魔物」にリアリティを感じました。この「真っ暗闇」の中なら、得体の知れない何かがうようよしていても全然おかしくない。むしろ想像力があれこれ膨らんでしまうわけです。

だから闇が消えたと同時に、妖怪も消えたんですよ。すべてが人間のコントロール下におかれた。

(ツイッターのつぶやきを再構成しました)

「夏休み」というコンセプト

ここ数日NYは猛暑なので寝不足。仕事の能率も悪い…と書きながら、「夏休み」というコンセプトは偉大だと思った。休めるなら休むのが一番だよね、夏は。こんな中、無理して仕事しようとするから冷房が必要になる。だから原発が必要だっていう人もでてくる。来年からは夏は休もうかな、強制的に。いや、本当に。

実際、ヨーロッパ人とか夏は1か月くらい仕事しない人、多い。あれは徹底してる。メールの返事もぱたっと来なくなるもん笑。パリなんてみんなバカンスに出ちゃうからクーラー自体少ないし。仕事中毒の日本人からすると、どうやって社会が回ってるのか不思議だけど、本気で研究した方がいいと思う。

いずれにせよ、天候や気候に関係なく、いつでもどこでも同じ生活をしようとすること自体が人間の傲慢なんじゃないか。世界中のどこに行っても、昼夜関係なくパソコンに向かって仕事してる僕が言っても説得力ないんだけど笑。

正月のような年中行事の重大性が薄らいできたのも、「人間は自然のサイクルの中で生きている」という感覚が薄らいで、「いつでもどこでも同じ生活をするのが現代的生き方」という発想が根付いたからだと思う。僕もそれにどっぷり浸かっている。でもちょっと見直した方がいいよね、そういうの。

本来、日本人は四季の移り変わりに敏感であったし、だからこそ四季折々の快適な過ごし方とか、俳句などの洗練された芸術も生まれたわけだけど、そういう「自然」に対するセンサーそのものが鈍くなってきたというか、興味すらなくなりつつあるのではないか。原発問題は、そういうことも問いかけているように思う。

(ツイッター上でつぶやいたものを再構成しました)。