Wednesday, July 07, 2010

『新潮』に寄稿


7/7発売の『新潮』8月号に、「反イルカ猟『ザ・コーヴ』と 「正義」」と題する論考を寄稿しました。その一部を抜粋します。上映中止運動のために議論が「表現の自由」うんぬんにシフトし過ぎている嫌いがありますが、もっと本作の手法や姿勢について論じる必要があると思います。

http://bit.ly/c6lDmn

(抜粋)...ドキュメンタリーの作家が、なぜ現実にカメラを向けるのかといえば、目の前に展開する世界をよく観て、耳を澄まし、吟味・検討し、その作業から何かを学びたいからだ。ドキュメンタリーとは、自分自身の鎧を外して世界へ開いていくための手法であり、その逆、世界を自らが作った安全な庭に閉じ込めるためのものではないはずだ。だから、いくら「イルカ猟は残虐非道に違いない」と信じる作家でも、作品を撮るからにはいったんはその考えを捨て、“転向”の可能性にも身体を開いて無防備になりながら、カメラを回さなければならないのである。
 ところが、サホイヤス監督が『ザ・コーヴ』でやったように、先に結論ありきで、それに合う映像やインタビューだけを掻き集めてくるのでは、作り手の意識は閉じたままなので、現実世界から何も学ぶことはできない。また、撮影中にたとえ理解不能な、奇怪な現実に突き当たったとしても、それらが伝えたいメッセージに合わなければ削ぎ落とされ、作品からは排除されてしまう。だから、現実の予想もつかない展開に作り手が圧倒され、固定観念が打ち壊され、荒波に足をすくわれ溺れそうになるような、危険だけれども面白いこと限りない“ドキュメンタリー的驚天動地”は、絶対に起き得ない。要するに、サホイヤス監督は、最初から足の立つ浅瀬で、チャプチャプ水遊びをして泳いでいるつもりになっているようなものであり、そういう、自らの安全圏に閉じこもり、ドキュメンタリー的なリスクをとろうとしない作り手を、僕はドキュメンタリストとは呼びたくないのである。  
 しかも、攻撃の対象を限定したことで、制作者はますます安全な立ち位置にいる。一番のミソは、作り手が標的にしたのが、......(抜粋終わり)

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