Wednesday, July 22, 2009

『ドキュ最前線』に『精神』批評

ご紹介が遅くなりましたが、メルマガ『ドキュメンタリー映画の最前線』に、萩野亮さんによる『精神』批評が載っています。どうぞご一読下さい。
http://archive.mag2.com/0000116642/index.html

以下、全文採録です。

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┃04┃□ドキュメンタリー時評
┃ ┃■『精神』(想田和弘監督、2008)
┃ ┃■萩野 亮
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野良猫が気ままに徘徊し、木々が陰を落とすのどかな一角にある小さな施設に、ひとりの女性が足早に駆け込んでゆく。キャメラは手持ちによる揺れを画面に伝えながら、その背中を追う。カットが切り替わると、診察室で精神科医との問診がはじまっている。

想田和弘監督の「観察映画」第二段である『精神』は、「観察」という語が想起させもする冷徹さとは無縁の距離感で被写体となるひとびとにキャメラを向けてゆく。前作の『選挙』(07)で対象とした自民党の新人議員「山さん」とはうってかわって、『精神』が映し出すのは岡山市にある外来の精神科診療所「こらーる岡山」につどうさまざまなひとびとである。

映画はいつも突然にはじまるものかもしれないが、『精神』は、たとえばわたしたちがふだん病院へかかるときのちょっとした手続きさえ経ることなく、突然診察室に入り込む。そしてそこが精神科であることを、すでにわたしたちは知っている。映画はしばしば「非日常的な体験」などと形容され、その「非日常」への移行はいくつかの段階を経てなされるものだが、『精神』はむしろ映画が帯びてしまう非日常の時間を、わたしたちの日常の時間と直截に接続しようとする。そこには一種の暴力がある。唐突に映し出される精神科医と女性の対話のなかで、あまりにつらい内容が語られるのを、フィルムは簡潔な切り替えしで描き続ける。わたしたちは画面を見つめることで、彼女の苦しみを追体験することを余儀なくされるのだ。

あるいはまた、「家にいると誰かの声が聞こえてくる」という別の女性に同行して、診療所に併設された簡素な宿泊施設を訪れたキャメラは、つかの間彼らだけの狭い空間で向かい合わせになる。固唾を呑むような緊張が醸成されてくるなかで、観察者はおもむろに対話をはじめる。自分の患っている症状について、過去について、キャメラに向かって語る女性の表情に接近しながら、観察者は「その声は誰の声なんですか?」などとあまりにダイレクトな質問を投げかける。どのことばが、どの視線が、彼女の神経をかき乱すか知れない。キャメラのこちら側から投げられた問いに対して、わたしたちが想像する以上に淡々と、気丈に語りを継ぐ女性のすがたに、フレームは刻一刻と緊張と安堵とがないまぜになってふるえている。観察者はキャメラという存在があることで、より直截的でシンプルな問いを投げかける、いわば「勇気」を持たされている。このとき映画は、「観察映画」として出発していながら、むしろ「行為」へとゆるやかに向かってゆくようにみえるのだ。

わたしたちがかつて『選挙』の120分に喝采を送ったのは、まず何よりもその徹底した観察のスタイルゆえに違いなかった。DVの実用化以降,主としてプライヴェート・ドキュメンタリーの領野で佳品が目立った日本のドキュメンタリーにあって、『選挙』はフレデリック・ワイズマンの一連の「ダイレクト・シネマ」を彷彿とさせた。ワイズマンが『チチカット・フォーリーズ』(67)以来まもりつづけてきたスタイルとは,ナレーションがなく、説明字幕がなく,インタビューも被写体からの応答もない、といういくつもの否定形で語られるスリムさに貫かれたものだが、『選挙』もまた同様のスタイルを採用するものである。ただしワイズマンのたとえば近作『州議会』(06)がアイダホの議会のようすを壮麗な議事堂建築とともに定点観測的に撮影し、分析的に編集することでアメリカの議会政治のいわば「無意識」をあぶり出したのに対し,『選挙』はあくまで「山さん」という個人の特権的な数週間を介して日本の議会制民主主義のありようを垣間見ようとするものだった。『精神』においても同様の手法をとろうとした作家は、けれどもたえずキャメラに視線を送り、対話を求めてくる「こらーる」のひとびとを撮影するにあたって、この方法は不可能だと判断したのだという(7/4上映後のティーチインでの発言より)。この方法論的転回を経ることで、『精神』はワイズマンよりもむしろ原一男のフィルムに接近してゆく。

原一男の「アクション・ドキュメンタリー」においては、ほかでもないキャメラを持った作家自身が被写体の世界へと介入してゆく。脳性麻痺患者を撮った処女作『さようならCP』(74)の、道路の中心に全裸のCP患者の男性を座らせて撮影した衝撃的なショットは、ほかでもない作家自身が彼と直截に向き合い、彼の生を、また彼とまともに向き合ってこなかった社会の意識を、暴き立てる。そこではふたつの個的な身体性がキャメラを介してむきだしにされているといってもよい。『精神』において、患者と向き合い声を発するほかなかった観察者は、もはや厳密な意味での観察者ではありえず、主体的身体を前提とした行為(アクション)によって被写体の世界とひとつながりになる個的な存在へとかわる。フレデリック・ワイズマンが、そして『選挙』の想田和弘が、いくつもの否定形の文体によって観察者自身の身体性を画面から消去するかのようにふるまっていたのとは、質的に異なる記録行為の位相がここにはある。ただし『精神』の観察者は、積極的な行為によって精神病という「カーテンの向こう側」の世界に踏む込んでゆくわけではない。話しかけられたら応答する、気になったことは聞いてみる、そうしたきわめて人間的なふるまいを素直に行なうことで、カーテンの内と外をごく自然に行き来し、ついには取り払ってしまうのだ。

『精神』における観察者と被写体との対話は、じつにゆたかなものだ。フィルムの後半に現れる、おちゃめで気さくな詩人の男性。このフィルムを見た誰もが「蚊に刺され、吾も食べたしカツカレー」という強烈な一句とともに、きっと彼に惹きつけられてしまうに違いない。あるいは、病いと40年間付き合ってきたという初老の男性の含蓄に富んだことばの数々。病いは彼らの身体を日々仮借なくさいなむが、病いを通してふれられる世界の手ざわりによって、明晰な思考と感性がみがかれてもいる。突然にはじまるこのフィルムの、ある種の暴力によって向き合わされた彼らの「世界」が、いまや隠しきれない共感とともにわたしたちの瞳に映じている。けれどもそのいっぽうで、最後のショットで夜のとばりに走り去って行くスクーターは、その共感が部分的なものであるほかないことを告げているようにもみえる。

だれもが自分の身体と無縁でいることはできない以上、彼らの生き方はそれぞれに病いや悩みを抱えたすべての人間の生き方でもあるだろう。このフィルムが大きな反響を呼び、多くのリピーターを生み出している事実(想田監督のブログによれば、すでに7回見たという「猛者」があらわれたとか)は、この映画そのものが、それぞれの身体や生についてゆるやかに内観をうながす、治療的な効果をもっているからかもしれない。映画『精神』は、精神病を撮ったものではなく、そのタイトルが簡潔に示しているとおり、あくまで人間の「精神」にキャメラを向けたフィルムであるのだ。

☆『精神』Mental
 想田和弘監督/2008年/アメリカ・日本/カラー/135分/デジタル上映
 現在渋谷シアター・イメージフォーラムにて上映中。ほか全国順次ロードショー。 
公式サイト: http://www.laboratoryx.us/mentaljp/

■萩野 亮(はぎの・りょう)
立教大学大学院現代心理学研究科修士課程在籍。映像身体学。先月末よりフィルムセンターではじまった「ドキュメンタリー作家 土本典昭展」のギャラリートークに駆けつけてきました。土本監督と基子夫人との最初の出会いが「カメラを買ってくれませんか」だったというお話に衝(笑)撃。
ブログ「filmemo」: http://rhgn.dtiblog.com/blog-date-20090713.html

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