『精神(仮題)』の編集に、頭を悩ませ、胃をきりきりさせる毎日である。
シーンとシーンをつなぎ合わせ、映画としての構造を構築する時期に入り、いつものことながら無限地獄のような苦しみを味わっている最中。ああでもない、こうでもない、妙案を思いついては試し、失望し、壊し、組み立て、また壊す。
『選挙』でもそうだったが、僕は『精神』を撮るときに、いわゆる台本やシノプシスを一切書かなかった。撮影する前に台本を書いてしまうと、自分の書いたこと=先入観にとらわれてしまい、目の前の現実を虚心坦懐に観察しにくくなるからである。
それなのに、編集に苦しくなってくると、「この人、この時もう少しこういう事を言ってくれてたら面白かったのになあ」とか、「もうちょっとこういう状況だったら良かったのに」とか、手前勝手な気持ちがつい頭をもたげてくる。知らず知らずの間に、僕が嫌っているはずの、予定調和でご都合主義的なドキュメンタリー作りに陥ろうとしていて、はっとする。
僕には子供はいないけど、ドキュメンタリー作りは子育てと似ているんじゃないかと、ふと思った。目の前の自分の子をよく観ずに、親としての勝手な理想に無理矢理当てはめようとすると、きっと子供は違和感を感じ、反抗したり、病気になったり、引きこもったりするだろう。
たぶん、子育てもドキュメンタリーも、子供=作品が伸びようとする方向を見極め、手助けをしてあげるくらいが丁度良い。決して無理強いしてはならない。苦しいときにこそ、そのことを忘れずにいたいものである。
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